プロローグ
かつて万物を統べる王が統治した時代があったという。
唯一無二の存在として、また永久とともにある存在として、王は絶対の権威と厳格な法によって地上に君臨した。
神話の御世に近く、今となっては神話と事実を隔てる境界を厳密に見出すことはできない。
――其は祈りの星を手にせし者なり。
失われた年代記の断片はそのように告げる。『星』が意味するところを知る者はもはや居ないが、ともかく王が手にした絶対の権威と、王が敷いた厳格な法は平和をもたらしたという。
彼の者は地上に在りながらも、天に住まう神にも等しき存在であった。
その治世が幸福な神話の時代であったかどうかは、実態が伝えられておらぬために定かではない。絶対者は他者を必要とせず、また悪法も法なるゆえに、神の統治が善き治世を招くとは限らぬと、それは確かなことであろう。
実態がどうあれ、天上の神々は王の治世を良しとはせず、神意を帯びた軍勢を地上に送ったという。それが悪しき治世を打ち砕く裁きの槌であったのか、それとも近しくなりすぎた存在を疎んだゆえかは人々の知るところではない。
王は自らの軍勢を率いて神々の軍勢と激しく戦い、その争いは果てがないほど長く続いたと伝えられる。ふたつの軍勢は奇蹟のごとき業を用いて、空を割り、地を砕き、海を裂いて戦ったという。
やがて長い長い戦いの末、地上の王は敗れ去り、古の王国は灰と消えた。
大陸の西に広がる大樹海は、迷い込んだが最後、二度とは出られぬ秘境として知られている。周辺には幾つもの寒村が存在したが、それらを領地とする領主たちも、この秘境の開拓には手を付けようとしない。
開拓を必要とするほどの人口を抱えていない、という現実的な話もあるが、同時に樹海周辺に住む人々は伝説とともに恐れを抱いていた。
「樹海の奥深くには白竜さまがおわし、竜の騎士とエルフが守護している」
伝えられる「白竜さま」こそ、地上の王を討伐した神意の軍勢を率いた白竜シーリアだと言う。古の王を討滅した後も、白竜は地上を鎮撫するべく留まり、やがて来る破滅の時には再び軍勢を率いて地上を救うと言い伝えられている。
樹海に分け入って戻った者はおらず、その伝承の正誤を知る者はいない。
だが、来るべき破滅に関しては定かならぬものの、伝承は事実の一端を伝えてはいた。大樹海の奥深くに、白竜シーリアは存在したのである。
重なり合う巨木の枝に遮られて、昼なお暗い森の中で、その一画だけは梢が開け、地上にも光が差し込んでいる。そこには枯れることのない湧水を湛えた小さな泉があって、そのほとりにシーリアは座している。
竜とは言うが、その姿は伝説に語られるような、厳めしい鱗に身を鎧った巨大な爬虫類ではない。姿形はほとんど人と変わることはない。身にまとった純白の衣を透かして見える、ほっそりとした肉体は人間の女としか見えなかった。
しかし、髪の代わりに幾重にも重なる純白の羽毛を長く垂らし、鳥類のごとき羽を背負い、羽毛に覆われた長い尾を地面に這わせている姿は、人とは言えまい。
まして、その女は幾百、幾千の年月を、変わらぬ姿のまま佇んでいる。
白い竜は藍色の瞳を動かして、寄り添うように立つ老木を見上げた。
「今年も花を付けてくれた」
春の訪れとともに開き始めた薄紅色の小さな花を眺めて、慈しむように彼女は微笑んだ。樹齢千年を超える老木も、彼女の生きてきた年月を思えば若木に等しい。芽吹きから見守ってきたとあれば、樹勢の衰える様は悲しく感じられた。
「花はいずれ散る。樹もいずれ枯れる。それが自然の摂理だろう、シーリア」
ささやかな喜びに笑みを浮かべた古の白竜に、無感動な声を投げかけたのは、泉の向こう側で、地面に埋まった岩に腰かける武装した少年だった。
少年はひどく古びた格好をしていた。チェインメイルは錆とほつれが満遍なく表面を覆い、いつ崩壊してもおかしくない。その上に着込んだ革鎧や帯剣の革鞘は、表面が剥げて、ひどく傷んでいるし、羽織ったマントは派手に鉤裂きになって綻んでいる。長い黒髪は、背中で無造作に断ち切られた跡が見受けられ、粗野な印象を受ける。
古代の戦士の墓を発掘してきたような装いだが、その中で鞘におさめられた長剣だけが腐食を免れている。刀身と一体成型された柄には古びた革紐が括りつけられていたが、その隙間から覗く地肌は、白く滑らかで、金属光沢を帯びつつも白磁のようにも見えた。
少年の名はジークリート。十六、七歳にしか見えない外見とは裏腹に、白竜シーリアの守護を数百年に亘って司ってきた竜騎士であった。だが、シーリアに連なる竜の一族ではない。姿形はまったく人間と変わらず、ただその尽きることを忘れたような寿命だけが、彼を普通の人間と隔てている。
「ジーク、そなたはいつも結果しか見ようとしない。いま、ここに生きて在る命の意味を見ようとはしない。それでは悲しいとは思わぬのか?」
「生きているのは偶然に過ぎない。意味などあるものか。その中で唯一の必然があるとすれば、それは死ぬことだけだ」
「寂しい物言いをする。そう言いながら、そなたは余を守るが、それは矛盾ではないかな? そなたの言い分を借りれば、地上に肉体を持つ余の死も必然。そして、そなたが余を守る意味もないと言う事になる」
「時間は有り余るほどにあるが、他に目的もないからな」
「そなたは生きる意味を探し続けることに疲れると、そうして悪態をつく。そなたは優しい子ゆえ、こうして余に付き合うてくれておるのであろう?」
「……うるさい」
「深い森が外界を遮って、余に危険が及ぶようなことはなかった。何をするわけでもなく、すると思索に沈むことも多くなる。分からぬではない」
そっぽを向いたジークを、シーリアはおかしそうに眺めていたが、ちょこちょこと近付いて来た子狐を見つけると、それを抱え上げて撫でた。先ほどからシーリアの尻尾にじゃれついていた数匹のうちの一匹だった。
森の動物が白竜を恐れることはなかった。こうして遊びに来ることもあったし、時には供え物でもするように食料を置いていくこともあった。自然の一部として捉えているのか、それとも彼らにも人とは違った形で神という概念があるのか。
「繰り返される時間を前に、虚無に囚われることもあろう。しかし、それももう終わる。余も、もはや幾許とはこの地に留まれぬ」
「ここが安住の地だと言っていたが、どこへ行くつもりだ?」
「どこへ行くというわけではないが、天に還る時が来た」
「死ぬのか?」
驚いたようにジークは振り返った。
「何を驚く? そなたは永遠など信じてはおらぬだろうに」
「だが、あんたは……神だろう?」
白竜シーリアは、地上に残った最後の神だった。役目を終え、古の王を討ち果たして役目を終えると天上に引き上げた神々の中で、唯一シーリアとその一族だけが地上に残ったと言う。その一族も途絶えて久しいが、それほど古い神が、いまさらになって死ぬというのが、ジークには理解できない。
甘えるような子狐をねんごろに撫でながら、シーリアは答えた。
「神とは比類なき力の概念に与えられた名に過ぎぬ。力が衰えれば、いずれ存在は失われるのだ。唯一無二の真理を前に、抗う術はない」
「では、俺はどうすればいい? 俺はあんたの騎士だぞ。守護する者を失ったまま、いつ来るか知れない死を延々と――墓守でもしながら待ち続けろと言うのか? 記憶にある限り、俺の肉体は時を止めたままだ。いつになれば朽ち果てるのか、俺自身さえ知らないと言うのに……」
「そなたが良しとするならば、それもよかろう。しかし、そなたはもう十分に休んだはず。……傷つき、疲れ果てたそなたがここに迷い込んで、さてどれほどの時が流れたのか。再び外へと歩き出す時が来たのかもしれぬ」
その時のことを思い出すように、シーリアは目を細めた。だが、そうした態度さえ、ジークには無責任に思えた。行く当てのない彼に騎士としてここに留まるようにと命じたのは、他ならぬシーリア自身なのだから。
そうした感情は感情として、分かってもいる。
シーリアは行き場のない自分に、一時の居場所を与えたに過ぎない。
「俺には……ここに来る前の記憶がない。傷も疲れも癒えたのだとしても、俺には歩き出す理由がない」
「どうしようとそなたの勝手。ただ、失った記憶を探すというのも、当てどない旅の理由としては悪くはなかろう。その中で別の理由が芽吹くこともあろうし」
「いい加減な神だ。俺が何者かも知りもしないし」
「そなたは人間であろう。ただ一つの呪いと祝福をその身に宿し、老いることを知らぬ。それだけのこと。他は特別とは言えぬ」
ジークは呆れたように鼻から息を抜いた。普通の人間からすれば、不老だけでも十分に怪物だろう。
「だが、いいだろう」
ジークは立ち上がった。こすれ合うチェインメイルが錆を落とし、ぱらぱらと鎖の欠片が落ちる。
「失われた記憶にこの体質の答があるかもしれない。いつまでも死ねないというのも厄介だし、そろそろ片を付けるのも悪くない」
「相変わらずひねくれておるな」
「ほっとけ」
数日後、大樹海の奥深くから、一筋の光が天に昇ったと記録されているが、目撃を証言した者の中に、その意味を理解した者は一人もいなかった。