零話 別れ
人生の一大事というのは突然始まり呆気なく終わるものだと僕は思う。
ある日。仕事の疲れから駅を一つ乗り過ごしたせいで、文句を言う身体に鞭打つ羽目になってしまったのを悔いながら薄暗い夜道を歩いていた。待つ人のいない独り暮らしの身だ。のんびり帰ればいいやと自分を励ましながら、どこかの自販機でホットレモンでも飲もうかと辺りに目を配っていた。けれど、僕の目に入ってきたのは自販機でもコンビニでもなかった。
「眩しい…………」
突き刺さる眩しい光。
喧しいクラクションと共に、嫌に甲高いブレーキ音が耳に響いてきた。
人は死ぬ瞬間、一体何を考えるのか。印象に残った人生の軌跡が一気に押し寄せるという走馬灯に陥るらしいが、僕の場合は若干違ったようだ。いやに冷静だし、死がすぐそこに迫っているのに、人生とは何ぞやとか考えてしまっている。
幼い頃に両親と死別したことと、友達に変態が多いこと以外はとりたてて変わったところはない普通の人生を歩んできたと思う。
「トラック限定のヒッチハイクで日本一周しようぜ」
「ベトナムで寿司職人になりたいんだけど、一緒にやらない?」
「君ってドMだよね。実は私もなんだけど、君といるとドSになるんだ」
あの3人に振り回された日々が懐かしい。それも学生の時までで、大学を卒業してからは医療メーカーの営業の仕事に懸命に取り組んだ。誠実なところをアピールするしか脳がなかったが、それがよかったのだろう。奇跡の営業成績全国トップになった。神様からの最後の手向けだったのかもしれないな。それを祝って年末にあいつらと会う約束をしてたのに。もう会えないと思うとやっぱり寂しいものだ。
あぁ、話は変わるが感謝の言葉を伝えたかった人がいる。同じ職場のよしゑさんだ。今年で41歳。独身を貫くバリバリのキャリアウーマンで、【鋼の男】と名高い彼女。
身長175センチの大柄な女性で、威圧感のある鷲鼻を顔の中央に構える彼女の存在感は圧倒的だった。常に言葉の暴力と呼べる機関銃の銃口を、険しい眼光から、真っ赤な口紅で塗りたくられた唇から、その朝青龍のようなふてぶてしい佇まいから打ちまくるよしゑさん。
何で鋼の女じゃないのか、ずっと不思議だった。ある日、ふと先輩に聞いてみると、女扱いするのはお前ぐらいだと笑われたっけ。
しかしそれは言いすぎだろう。よしゑさんはいい人だ。間違いなく。
何度も助けられた記憶がある。悲しいことに、僕の顔は非常に女の子に近い、というか女性にしか見えないらしい。よく男性ホルモン冬眠中とからかわれたものだ。
二重の大きな瞳と、癖のないサラサラの髪は男が持っていていいものではないと、よく女性陣に文句を言われた。苦笑いしか出来なかったのを覚えている。幾度となく職場でセクシャルハラスメントを受けたことか。お陰で人の視線には人一倍敏感になってしまった。男女問わず、怪しい目をしたやつが死角に入ったら要注意だ。だが、そんな僕をよしゑさんが守ってくれた。メタボましっぐらのコレステロール係長を睨むあの目付き。どんな人生の修羅場を潜り抜けたらあのような人を射殺す目が生まれるのだろう。一度鏡の前で練習してみたが、到底あの凍えるような視線を生み出すことはできそうになかった。
しかし、人生最後に思い浮かべるのがよしゑさんか。あの3馬鹿でも良かった気がするけど、残された僕の時間じゃ回想しきれないだろうな。それほど僕を引っぱりまわし続けたやつらだったから。
制限速度をガン無視した暴走トラック。今更ブレーキ踏んでも遅いさ。恐らく時速100キロはゆうに超しているだろう。
はてさて、僕の人生はなんて表現すればいい。うーん、辞世の句も思い付かない。
僕の命は多分後1秒。避けようがない死に、最高潮にぐるぐる回る頭の中とは別に、身体は固まったままだった。
そんな僕に出来ることは、ただ一つ。
「笑顔でさよならすることかな」
棺に入った僕を見るあいつらを安心させることぐらいだ。
この一言と視界を暗転させる衝撃を最後に、僕はこの世界に別れを告げた。