侍女は、その手紙を誰が書いたか知っている
「これが、フィオナ嬢の本性です」
ギルバート・ローウェル侯爵令息が広間の中央でそう告げたとき、わたしはワイン用のグラスを盆に載せたまま、壁際で動けなくなった。
婚約披露の夜会だった。
主役であるはずのフィオナお嬢様は、招待客に囲まれた壇上近くで、静かに立ち尽くしていらっしゃる。
ギルバート様の手には、一通の手紙。
「『ローウェル家など、田舎貴族の成り上がり。婚約さえ結べば、あとは形だけ取り繕えばいい』――お嬢様は、私宛の手紙にこう書かれていました」
広間がざわめいた。
わたしはフィオナお嬢様付きの侍女として、この五年、お仕えしてきた。
お嬢様がそんな言葉を選ぶ方でないことは、誰よりも知っている。
けれど、わたしはただの侍女だ。
給仕の盆を持って壁際に立つことしか、今はできない。
「身に覚えがございません」
フィオナお嬢様は、声を荒げることなく、そう答えられた。
「証拠がある。君の筆跡だ」
ギルバート様が手紙を掲げる。
「日付まで記してある。ふた月前、我々が婚約したばかりの頃だ」
遠目にも、それがお嬢様の筆跡によく似ていることは、わたしにもわかった。
けれど、似ているだけだ。
あの手紙に使われていた便箋には、お嬢様が誕生日に特別注文なさった、蔦模様の透かしが入っていた。
けれど、あの透かし入りの便箋が工房から屋敷に届いたのは、手紙に記された日付より五日も後のこと。
荷を受け取り、目録に記したのは、わたし自身なのだから。
つまりあの手紙は、まだ屋敷に届いていない――お嬢様が触れられるはずのなかった紙に書かれていたことになる。
◇
婚約は、その場で解消された。
ローウェル侯爵家との縁談は白紙に戻り、アシュグレイブ子爵家には、心ない噂だけが残った。
お嬢様は取り乱すことなく、屋敷に戻ってからも普段通りに過ごしていらした。
その静けさが、かえってわたしには苦しかった。
「メイ、そんな顔をしないで。わたくしは平気よ」
「……お嬢様」
「本当に書いていないのだもの。いつか、誰かが気づいてくれるわ。気づいてくれなくても、それでいい」
その言葉に、わたしは決めた。
誰も気づいてくれなくても構わないとお嬢様は仰るけれど、わたしは気づいている側の人間だ。
ならば、放っておくわけにはいかない。
◇
まず確かめたのは、あの透かし入りの便箋が届いてから、誰の手に触れる機会があったかだった。
工房から届いた便箋は、書斎の机の抽斗にしまわれ、鍵はお嬢様ご自身が管理していらした。
けれど、鍵を掛け忘れる日が、月に一度もないとは言い切れない。
(そういえば、便箋が届いた翌週、ローウェル家からお使いの方がいらしたわ)
侯爵家の使者を名乗る若い男が、お嬢様への贈り物だと言って、小さな箱を届けに来た。
その日、書斎の鍵は掛かっていなかった。
対応したのは、わたしではなく、当時臨時で雇われていた侍女だった。
名前は、たしかベラといった。
契約はひと月限りで、既に屋敷を辞めている。
(お嬢様の私物に触れられる立場にいたのは、あの日、ベラだけ)
胸の奥で、何かが繋がった気がした。
◇
ベラを捜すのは、思ったより簡単だった。
彼女の紹介状を書いたのが、ローウェル家に出入りする口入れ屋だったからだ。
わたしは休みの日を使って、その口入れ屋を訪ねた。
「ベラなら、今はローウェル侯爵家の別邸で働いていますよ。ダグラス様――ギルバート様の従叔父にあたる方の、専属の侍女としてね」
ダグラス様。
その名前には、覚えがあった。
ギルバート様を幼い頃から可愛がっているお方で、自分の娘をいずれギルバート様の妻にと望んでいる、と社交界で噂される方だった。
(フィオナお嬢様との婚約が、目障りだったのね)
すべてが、ひとつの線で繋がった。
ダグラス様がベラを使ってお嬢様の私物から便箋と筆跡の見本を盗み出し、それらしい手紙を偽造させ、ギルバート様に届けさせた。
証拠は、まだない。
けれど確信はあった。
◇
わたしは、ダグラス様の別邸で働くベラに、思い切って手紙を書いた。
『あの日、あなたが届けたという贈り物の箱について、少しお伺いしたいことがあります』
返事は来ないと思っていた。
けれど三日後、ベラ本人が屋敷の裏口に現れた。
震える声で、彼女はすべてを話してくれた。
「お給金を、二年分もいただけると言われて……断れなかったんです。便箋を盗んで、筆跡を真似た手紙を書いて、それをダグラス様がギルバート様に届けたと聞きました。わたし、フィオナ様には本当に申し訳ないことを」
「証言してくださいますか」
ベラは長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「もう、隠しておくのが苦しかったんです」
◇
真実が公になるまで、そう時間はかからなかった。
ベラの証言と、口入れ屋に残っていた雇用記録。
そして、わたしが目録に記した、透かし入り便箋の入荷日付。
すべてを揃えて、わたしはお嬢様のお父君に事の次第をお伝えした。
事実が明らかになると、社交界の目は一斉にダグラス様とローウェル家へ向いた。
ギルバート様は、青ざめた顔で屋敷を訪ねてこられた。
「フィオナ嬢……いや、フィオナ。本当に、すまなかった。私が愚かだった。君に直接確かめもせず」
お嬢様は、静かに彼を見つめた。
「確かめる前に、大勢の前でわたくしを断じましたのね」
「それは……」
「証拠だと思われたものが、本物の言葉より重かったということです。今さら謝られても、わたくしの気持ちは戻りません」
きっぱりとした声だった。
ギルバート様は、それ以上何も言えずに、肩を落として帰っていかれた。
◇
「メイ、あなたのおかげだわ」
すべてが片づいた夜、お嬢様はそう仰って、わたしの手を取ってくださった。
「わたしは、ただ知っていることをお伝えしただけです」
「その『ただ』が、誰にでもできることではないのよ」
お嬢様は、それから静かに微笑まれた。
「誰も見ていないと思っている場所にも、ちゃんと見ている人がいる。そのことを、忘れずにいるわ」
わたしは頭を下げながら、少しだけ誇らしい気持ちになった。
給仕の盆を持って壁際に立つだけの日々は、これからも続くだろう。
けれど、それでいい。
見えないところに立つ者にしか、見えないものがあるのだから。
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