本を食べる彼女、名刺を食べる僕【2000文字】
目の前の彼女が誰だか、僕は知らない。
それは彼女もそうだと思う。
相席しているだけで、彼女は僕のことを知らない。
この喫茶店の客は、みんなそうだろう。
互いのことなど気にせず、案内された席で、自分だけのものを食べる。
ここがどこなのか、僕にもわからない。
気づいたらこの古びた喫茶店の前にいて、入ったらこの席に案内された。
彼女はもう座っていた。
僕に一瞥もなく、黙々と自分の食事を楽しんでいるようだ。
僕も倣って、ただ座って、この店が出す自分だけの食事を待った。
彼女は、ナイフとフォークで『本』を食べている。
僕の前には『名刺』が運ばれてきた。
離れた席にいるご老人は、ここから見る限り『包装紙』を食べているようだ。
色とりどりの紙が盛り付けられている。
あちらの方が良さそうに見える。
僕のところに置かれた名刺は、奇抜なものはなく、全部同じように見える。
これで味も一緒だったら、つまらないなあ。
そんなことを思いながら、一番上の名刺にフォークを刺してみた。
そのまま持ち上げて、眺めてしまう。
味気ない白色。
決まった大きさの長方形。
ピンと張った薄さ。
黒い文字。
正直、美味しそうには見えなかった。
「お食べにならないんですか?」
女性の声がしたと思って目線を変えると、前の席にいる彼女と初めて目が合った。
「あ、はい、味気ない気がしちゃって」
「そうですか?案外美味しいかもしれませんよ」
「お姉さんはここの常連なんですか?」
「そうですね、今日で3回目なので常連ではないかもしれません」
そう言って口に運んだ本のページが口の中に収まっていくのを、僕は見ていた。
少し日焼けしたような色のページを、もぐもぐと噛んでいる。
そちらの方が美味しそうではないか。
「本は、美味しいですか?」
「ええ。この本は好みの味です」
「違うものもあったのですか?」
「前回は恋愛小説だったのですが、それは苦かったですね」
「今回は、どうですか」
「ミステリー小説なんですけど、ほのかに甘くて、口当たりも優しいですよ」
「へえ」
僕は自分の食べ物に視線を戻して、名刺を一口齧ってみた。
おしゃれで塩味というわけではなさそうだ。
ただただ味の薄い心許ないしょっぱさがすぐに消えた。
「あんまり、好みではないかもしれません…」
「うふふ、最初はそういうものですよ」
女性はたおやかに笑いながら、次のページを食べた。
やっぱりそれに倣った方がいい気がして、僕も次の名刺をフォークに刺す。
「あれ、これはいいかも」
「いかがしましたか?」
「この、箔押しは、酸味があって美味しい気がしてきました…」
「慣れると美味しくなってきますよね」
「そんな気がします」
それきり、僕たちは黙々と自分たちのためだけに用意された食事を食べた。
誰の声もすることがなく、静かに過ぎていく。
ミルフィーユのように重なっていた名刺は、残り2枚になった。
本の彼女は、まだ食べている。
見ていない間に、一冊分増えている気もする。
包装紙のご老人は食べ終えていて、食後のコーヒーを飲んでいる。
僕もあとでコーヒーをもらえるんだろうか。
「それ、さっきのと違う本ですか?」
「ええ、自啓発の本ですね」
「美味しいですか?」
「しゅわしゅわしていて美味しいですよ」
「しゅわしゅわ…」
名刺にそんなバリエーションはなかったな。
塩味と、酸味と、時々辛味。
合わされば割と好きな味で、ここまで食べ進められた。
口当たりは、全部もしゃもしゃしていた。
次も食べるとしたら、僕もまた名刺なんだろうか。
「お兄さんは、またここに来て名刺を味わうんですかね」
僕が考えていたことと、似たようなことを彼女は言った。
「どうなんでしょうか」
「どうなんでしょうね」
彼女は先に自啓発の本を食べ終えた。
皿の上が空になって、食べ方の綺麗な人なんだなと思った。
僕も追うように、2枚をまとめて口に含んだ。
ここに来てから、彼女の真似ばかりしている。
わざわざ相席に案内されたのは、そのためだったのかな。
僕ら以外、皆1人で席に着いているのに。
最後の2枚は、やたらと酸っぱかった。
「食後のコーヒー、もらえるといいですね」
「もらえないこともあるんですか?」
「1回目は頂けたんですが、2回目はもらえませんでしたね」
「店員さんもどこにいるか分かりませんもんね」
「ええ、私たちだけです。そしてどこに帰るかもわからないまま店を出るんです」
その言い方が妙に艶めかしくて、ここまで穏やかに過ごしていたのが嘘みたいにゾッとした。
僕はどこから来たんだろう。
本当に、どこに帰ったらいいんだろう。
そして、名刺が食べ終わったのに、この終わった気がしないのはなんだろう。
女性はニコッと笑うと、音もなく立ち上がった。
「行かれるのですか?」
「はい、新しい『本』を食べに」
いつ置かれたのか、僕の手元にコーヒーがあった。
それを飲んではいけない気がして、そっとテーブルの真ん中に置いた。
コーヒーカップの湯気越しに、彼女の背中を見つめた。
カランコロン。
了
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