表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

本を食べる彼女、名刺を食べる僕【2000文字】

作者: 有梨束
掲載日:2026/02/09

目の前の彼女が誰だか、僕は知らない。

それは彼女もそうだと思う。

相席しているだけで、彼女は僕のことを知らない。

この喫茶店の客は、みんなそうだろう。

互いのことなど気にせず、案内された席で、自分だけのものを食べる。


ここがどこなのか、僕にもわからない。

気づいたらこの古びた喫茶店の前にいて、入ったらこの席に案内された。

彼女はもう座っていた。

僕に一瞥もなく、黙々と自分の食事を楽しんでいるようだ。

僕も倣って、ただ座って、この店が出す自分だけの食事を待った。


彼女は、ナイフとフォークで『本』を食べている。

僕の前には『名刺』が運ばれてきた。

離れた席にいるご老人は、ここから見る限り『包装紙』を食べているようだ。

色とりどりの紙が盛り付けられている。

あちらの方が良さそうに見える。

僕のところに置かれた名刺は、奇抜なものはなく、全部同じように見える。

これで味も一緒だったら、つまらないなあ。

そんなことを思いながら、一番上の名刺にフォークを刺してみた。

そのまま持ち上げて、眺めてしまう。


味気ない白色。

決まった大きさの長方形。

ピンと張った薄さ。

黒い文字。


正直、美味しそうには見えなかった。


「お食べにならないんですか?」

女性の声がしたと思って目線を変えると、前の席にいる彼女と初めて目が合った。

「あ、はい、味気ない気がしちゃって」

「そうですか?案外美味しいかもしれませんよ」

「お姉さんはここの常連なんですか?」

「そうですね、今日で3回目なので常連ではないかもしれません」

そう言って口に運んだ本のページが口の中に収まっていくのを、僕は見ていた。

少し日焼けしたような色のページを、もぐもぐと噛んでいる。

そちらの方が美味しそうではないか。

「本は、美味しいですか?」

「ええ。この本は好みの味です」

「違うものもあったのですか?」

「前回は恋愛小説だったのですが、それは苦かったですね」

「今回は、どうですか」

「ミステリー小説なんですけど、ほのかに甘くて、口当たりも優しいですよ」

「へえ」

僕は自分の食べ物に視線を戻して、名刺を一口齧ってみた。

おしゃれで塩味というわけではなさそうだ。

ただただ味の薄い心許ないしょっぱさがすぐに消えた。


「あんまり、好みではないかもしれません…」

「うふふ、最初はそういうものですよ」

女性はたおやかに笑いながら、次のページを食べた。

やっぱりそれに倣った方がいい気がして、僕も次の名刺をフォークに刺す。

「あれ、これはいいかも」

「いかがしましたか?」

「この、箔押しは、酸味があって美味しい気がしてきました…」

「慣れると美味しくなってきますよね」

「そんな気がします」

それきり、僕たちは黙々と自分たちのためだけに用意された食事を食べた。

誰の声もすることがなく、静かに過ぎていく。


ミルフィーユのように重なっていた名刺は、残り2枚になった。

本の彼女は、まだ食べている。

見ていない間に、一冊分増えている気もする。

包装紙のご老人は食べ終えていて、食後のコーヒーを飲んでいる。

僕もあとでコーヒーをもらえるんだろうか。

「それ、さっきのと違う本ですか?」

「ええ、自啓発の本ですね」

「美味しいですか?」

「しゅわしゅわしていて美味しいですよ」

「しゅわしゅわ…」

名刺にそんなバリエーションはなかったな。

塩味と、酸味と、時々辛味。

合わされば割と好きな味で、ここまで食べ進められた。

口当たりは、全部もしゃもしゃしていた。

次も食べるとしたら、僕もまた名刺なんだろうか。

「お兄さんは、またここに来て名刺を味わうんですかね」

僕が考えていたことと、似たようなことを彼女は言った。

「どうなんでしょうか」

「どうなんでしょうね」

彼女は先に自啓発の本を食べ終えた。

皿の上が空になって、食べ方の綺麗な人なんだなと思った。

僕も追うように、2枚をまとめて口に含んだ。

ここに来てから、彼女の真似ばかりしている。

わざわざ相席に案内されたのは、そのためだったのかな。

僕ら以外、皆1人で席に着いているのに。

最後の2枚は、やたらと酸っぱかった。


「食後のコーヒー、もらえるといいですね」

「もらえないこともあるんですか?」

「1回目は頂けたんですが、2回目はもらえませんでしたね」

「店員さんもどこにいるか分かりませんもんね」

「ええ、私たちだけです。そしてどこに帰るかもわからないまま店を出るんです」

その言い方が妙に艶めかしくて、ここまで穏やかに過ごしていたのが嘘みたいにゾッとした。

僕はどこから来たんだろう。

本当に、どこに帰ったらいいんだろう。

そして、名刺が食べ終わったのに、この終わった気がしないのはなんだろう。

女性はニコッと笑うと、音もなく立ち上がった。

「行かれるのですか?」

「はい、新しい『本』を食べに」

いつ置かれたのか、僕の手元にコーヒーがあった。

それを飲んではいけない気がして、そっとテーブルの真ん中に置いた。

コーヒーカップの湯気越しに、彼女の背中を見つめた。


カランコロン。



お読みくださりありがとうございます! 毎日投稿40日目。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ