コーヒー&タイムリープ
少しだけ雨が降る朝の日。
いつも同じ角度の光を浴びて、円はシャッターを半分開けて店に入った。
エプロンを掛けて、グラインダーの豆を確認する。
ポットに水を汲んで火を入れる。
いつも、いつも行っている同じ動き。
このカフェは10時に開く。
そして17時に、closeの札を裏返して店は静かになる。
そのはずだった。
最初に気がついたのは、時計の針だった。
閉店後、何時間経っても夜が来る気配がない。
違和感。
外に出ようとしたとき、視界が真っ暗になって、次に目が覚めると、また朝だった。
夢だろうと円は思った。
疲れとか錯覚とか、ただの気のせいだと。
でも、何回繰り返しても同じ朝。
変わらない雨と街。
変わらない一日。
閉店した直後に、開店の時間まで巻き戻る。
終わることを許されていないかのように、毎日毎日、戻っては繰り返す。
時の波を、円はだんだん受け入れてしまおうとしていた。
「おはようございます。いい香りですね」
初めて声をかけられたとき、円は少しだけ驚いた。
開店直後に来るその人は、いつも一人でカウンターに座って動かない。
他の人や内装を、ゆっくり観察している。
その名前を、環というらしい。
性別は分からない。
声、仕草、体格、どちらとも取れる。
年齢も、見ただけでは分からない。
「本日は、どんな味ですか」
環は、いつもそう尋ねてくる。
「まだ分かりませんよ」
「いいえ。円さんは分かるはず」
円は微笑んで、ドリッパーにお湯を注ぐ。
豆が膨らんで、香りがお店に広がっていく。
環は、それを見ていた。
繰り返される一日の中で、円は少しずつ変化に気がついていく。
環の変化。
言葉や仕草の変化。
ある日、円は訊いた。
「これは、今、何度目ですか」
環は少し黙って、それから答えた。
「もう、分かりません」
円は悟った。
この人は、すべてを知っている。
ずっと繰り返される、この日を覚えている。
17時。
また今日が終わって、また今日が始まる。
でも、今日は少し違った。
「環さん」
円は声をかけた。
「あなたが、やっているんですか」
環は返事をしない。
円は、それを肯定と捉えた。
10分ほど沈黙が続いて、環は口を開いた。
「救おうとしたんです。私の大切な人を」
円は理解しようと、頭で言葉を咀嚼する。
「その人は、今日が終わるとき、このお店が終わって、必ず命を落とします。
なぜかは分からないけど、絶対に。
そして、これもなぜか分からないけど、私は今日を繰り返すことのできる魔法を授かりました」
言われて、余計に意味が分からなくなってしまった。
「環さん……それは、本当?」
「ええ。本当です」
そして、と環はコーヒーを一口飲んだ。
「円さん、死ぬのはあなたです。
明日を迎えられないのは、あなたなんです」
淡々とした声。
努めて冷静な声色。
事故でも病気でもない。
あなたが。
でも、絶対に、十七時を超えると、必ず。
「だから、ずっと繰り返しています。原因を探るために……」
「私……ですか」
「ええ、そうです」
円は言葉が出なかった。
「でも、少しやりすぎたみたいです。
時間をいじりすぎて、あなたも記憶が残るようになってしまった」
申し訳なさそうに目を伏せる。
「環さん。私たちは、そんなに深い仲ではありません。
それなのに、なぜ私を救おうとしてくれているんですか?」
「あなたが作ってくれたコーヒーが、私を救ってくれたから」
環は即答した。
「私は前から、ここに来ていました。
お客さまが多いから、いちいち覚えていないかもしれませんが、私はここのコーヒーが好きだった」
環はコーヒーカップの縁を、指でなぞる。
「この世に絶望したとき、諦めたとき、このコーヒーは前を向かせる。
でも焦らせるでもなく、ただ温かかった。
大したことではないかもしれませんが、私が前を向いて生きていく理由を作ってくれたんです。
だから……」
円は申し訳なさそうな顔をした。
「環さん。私はね、今日、死のうとしていたんです」
環は動揺した目を見せる。
「それだから、毎回死んでいるんだと思います。
世界が悪いわけでも、あなたのせいでもなく、私自身が、この命を終わらせているんです。
誰も関係ありません」
環は言葉を失っていた。
「でも、環さん。あなたのおかげで、私は一生涯分のコーヒーを、皆さんに作ることができた。
名前も知らない、今日を生きる人に、一杯一杯。
だから、もういいんです。
思い残すこともない」
17時が過ぎて、店が終わる。
環は言う。
「そうだとしても、生きてください。
自分のためが難しいのなら、私のために。
あなたのコーヒーを楽しみにしている、私のために」
環は帰った。
そして、少しだけ雨が降る朝の日。
いつも同じ角度の光を浴びて、円はシャッターを半分開けて店に入った。
エプロンを掛けて、グラインダーの豆を確認する。
ポットに水を汲んで火を入れる。
いつも、いつも行っている同じ動き。
お店が開く。
「おはようございます。良い香りですね」
声がする。
「おはようございます。もうすぐ雨は止むらしいですよ」
円はコーヒーを作り始める。
円は、今日を生きる。
円環の外で。




