掛け算
5歳になった僕は、村外れの森にいた。
手頃な岩の前に座り込み、実験を始める。
この5年間で体の自由は効くようになったが、スタミナは父の足元にも及ばない。僕のHPは「12」。父の10分の1以下だ。
だからこそ効率化が必要だった。
「さて、やるか」
僕は指先を岩に向ける。
目の前の苔むした岩の頭上には、ぼんやりと「28」という数値が浮かんでいる。
父の魔法なら10のダメージを3回、つまり3発撃ち込まなければ壊せない相手だ。
しかし今の僕のスタミナでは、3発も撃てば気絶してしまうだろう。
僕が目指すのは「掛け算」だ。
父の使う「引き算」連打ではなく、一回の事象で3倍の火力を叩き出す。
まずは単純にイメージしてみる。
「10掛ける3」という記号を魔力に乗せる。
「……ふんっ」
しかし、指先から出たのは小さな火の粉がプスンと弾けただけだった。
「……やっぱりダメか」
予想はしていた。
この世界は解像度が低い。「×(かける)」という抽象的な記号をイメージしても、世界というOSがそれを「未知のコマンド」として弾いてしまうのだ。
住人たちが10以上を認識できないように、この世界の物理法則には乗算という関数が実装されていない。
なら、どうするか。
関数がないなら、定義するしかない。
僕は目を閉じ、脳内のホワイトボードに向かう。
「3倍」という結果を得るためのプロセスを、この世界が理解できる「足し算」の集合体として記述し直す作業だ。
(集中しろ。記号に頼るな。論理を組め)
僕は脳内で、高速で数式を構築し始める。
まず、変数を定義する。
『定義A。基本となる火の玉。熱量10』
次に、反復処理の概念を作る。
『定義N。反復回数3』
ここからが重要だ。ただ3回繰り返すのではない。それは父の連射と同じだ。
3つの事象を「同時刻」「同座標」に重ね合わせるための、統合の定義が必要になる。
『総和の定義。カウンタ i が1からNまで進む間、Aを加算し続ける』
『時間差 t = 0。座標差 xyz = 0。全てのAを一点に収束させる』
脳が焼けるような熱を持つ。
血管が脈打ち、きーんと耳鳴りがする。
単純な「攻撃」ではない。これは「世界へのプログラム記述」だ。
1たす1たす1……という原始的な足し算を、無限に近い速度で圧縮し、一つの「30」という塊に変換する。
鼻血がツーと垂れて、唇を濡らした。
幼児の脳スペックでは、CPU使用率が100パーセントに張り付いている感覚だ。
だが、式は繋がった。
論理のパスが通った。
「……出力」
ボォォッ!
指先から放たれたのは、見た目は父のものと変わらない火球だった。
大きさも色も同じだ。
だが、その密度が決定的に異なっていた。
内部で熱量が三重に圧縮され、赤黒く禍々しい輝きを放っている。
火球は岩に吸い込まれるように着弾した。
ドォォォン!!
重たい爆発音が森に響く。
土煙が晴れると、HP28だった岩は跡形もなく砕け散っていた。
地面には黒い焦げ跡だけが残っている。
「……成功だ」
計算通りだ。
10のダメージを与える魔法ではない。
10という概念を論理的に3つ積み重ねて生成した、30のダメージを与える魔法。
HP28の岩に対し、2のオーバーキル。一撃必殺だ。
僕はへたり込むように地面に座った。
呼吸が荒い。視界がチカチカする。
たった一発撃っただけなのに、全力疾走した後のような疲労感がある。
「燃費は悪いな……」
今の僕の演算領域では、掛け算ひとつを「定義」するのにも一苦労だ。
世界に「これは3倍という概念だ」と納得させるために、膨大な証明手順を踏まなければならない。
だが、これは革命だ。
父が3回の手数をかけて行う破壊を、僕はたった1回の思考で完了させた。
「はは……これなら、勝てる」
僕は確信する。
フィジカルが弱くても関係ない。
この世界の人類が10という数字に縛られている間に、僕だけが数式を定義して、任意の数値を叩き出せる。
ふらつく足で立ち上がろうとした時だった。
背後の茂みが、ガサリと大きく揺れた。
振り返った僕の目に飛び込んできたのは、ギラついた黄色い双眸。
体長1メートルほどの、狼に似た魔物だった。
涎を垂らした口元から、鋭い牙が覗いている。
そして、その頭上に浮かぶ数値は──
『34』
「……っ」
僕は息を呑む。
今の僕の残存スタミナでは、さっきの「30ダメージ魔法」を再構築する余力はない。
仮に撃てたとしても、相手のHPは34。
30では倒しきれない。
倒しきれなければ、反撃でHP12の僕は即死だ。
狼が低い唸り声を上げ、重心を低くする。
絶体絶命の状況。
だが僕の思考は、恐怖よりも先に「次の計算」を始めていた。
(30じゃ足りない。4残る)
(もう一度、あの重い掛け算を組む時間もない)
なら、どうする。
数学者の武器は、単純な火力計算だけではない。
僕は震える指先を、ゆっくりと狼に向けた。




