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証明終了

世界はノイズで満ちている。

窓の外を走る車の排気音や隣人が壁を叩く振動、蛍光灯が発する不快な周波数。

有機的な肉体という受信機は、あまりにも余計な情報を拾いすぎる。

僕は古びたアパートの一室で、ノイズキャンセリングのヘッドホンを深く押し付けた。


「……違う。ここじゃない。この項の展開は美しくない」


黒板代わりの壁一面に貼り付けたホワイトボードシート。そこに走り書きされた記号の森を、僕は焦燥とともに睨みつけていた。

床にはコンビニのコーヒーの空き容器が、無造作に転がっている。

僕が挑んでいるのは、素数分布のさらに深層──「ゼータ関数の零点が描く、高次元多様体の構造」についての証明だ。

もしこれが解ければ、現代暗号はすべて無意味化し、宇宙の物理法則の根底すら書き換わるかもしれない。

だが、そんな社会的影響はどうでもいい。

僕はただ見たいだけだ。この宇宙を記述する「神の設計図」の正体を。


『無限級数の総和。解析接続が臨界領域において示す挙動……』


マーカーを握る手が震える。睡眠は3日とっていない。脳内のグルコースは枯渇寸前だが、ドーパミンだけが異常分泌されている。

思考の泥沼の中で、不意に霧が晴れるような感覚が訪れた。


「……待てよ?」


ホワイトボードの隅、3日前に書いた何気ない補助線。

それが今の思考とリンクする。


『実部2分の1の直線状に零点が並ぶのではない。それは3次元的な射影に過ぎないとしたら?』

『もし、虚数軸をもう一つ拡張し、四元数空間で定義し直せば……』


カチリ。

脳内で、巨大な錠前が開く音がした。


「……は、はは」


乾いた笑いが漏れる。

そうだ。そうだったんだ。

世界はこんなにもシンプルだった。

複雑に見えるカオスは、より高次の次元から俯瞰すれば、ただの美しい対称性を持った球体だったのだ。

僕は夢遊病者のように部屋を出た。

コンビニへ行こうとしたわけではない。ただ思考の熱量に肉体が耐えきれず、外の冷気を求めたのだ。

深夜の交差点。

信号機は赤を示していたが、僕の目にはただの「波長約620ナノメートルの光の集合」として映る。

世界が、概念に分解されていく。

アスファルトの摩擦係数。

風が運ぶ気流のベクトル場。

街灯の明滅周期。

全てが愛おしい。あれほどノイズだと思っていた世界が、解法を得た途端、整然とした論理のパレードに見える。

僕はポケットから手帳を取り出し、歩きながらペンを走らせた。


『ガウス積分。マイナス無限大からプラス無限大までの定積分が、円周率の平方根へと収束する』


基礎的な美しさではない。もっと根源的な、存在そのものを定義する式。

あと数行。あと数行で証明が完了する。

そうすれば僕は真理に到達する──。

キキキッ──!!

鼓膜をつんざく摩擦音。

物理学的な現実は、常に唐突で暴力的に割り込んでくる。

顔を上げると、数トンの質量を持つ金属の塊──トラックが、僕の目前に迫っていた。

視覚情報が脳に到達してから、運動制御信号が筋肉に伝わるまでのラグは約0・2秒。

回避は不可能。

(ああ……質量mと速度vの積。運動量保存則。人体が耐えられる衝撃Gの限界値……)

衝突の瞬間、恐怖はなかった。

ただ強烈な「惜別」だけがあった。

僕の体が宙を舞う。

回転する視界の中で、手帳がアスファルトの水溜りに落ち、インクが滲んでいくのが見えた。


(──まだだ)


肋骨が砕ける音を聞きながら僕は思う。

血の匂いが鉄錆のように広がる中、僕は願う。


(まだ、書き終わっていない)

(あの論理の先には、もっと美しい景色があるはずなんだ)


視界が暗転する。

脳の電気信号が途絶える寸前、僕が最後に見たのは走馬灯ではない。

暗闇の中に白く輝く、無限に続く数直線の幻影だった。

もし次があるのなら。

この肉体という不完全なハードウェアではなく、もっと論理が直接干渉できる世界で。

僕は、この証明の続きを書きたい。

意識はプツリと、唐突にゼロへ収束した。

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