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十二年目のウェディングドレス

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/18

第一部 静寂(一年目)


第一章 光の街、喜びの心


福岡という街は、いつも活気に満ちている。九州最大の繁華街である天神 を抱える中央区に住む三十二歳の私、高橋沙織たかはしさおりにとって、この街の躍動は自らの人生の充実と重なって感じられた。オフィスビルが立ち並ぶ合間にお洒落なカフェが点在し 、少し歩けば大濠公園のような豊かな緑が広がる 。仕事もプライベートも、すべてがこのコンパクトな街で完結する暮らしやすさが、たまらなく好きだった 。

来月、私は結婚式を挙げる。相手は、五年付き合った恋人の鈴木拓也すずきたくや。友達だけを招いた、ささやかな式だ。派手なことが苦手な私たちには、それが一番合っている。

「沙織、ブーケはやっぱ白のバラがいいったいね。花言葉、知っとうと?『純潔』とか『あなたにふさわしい』とか、色々あるんよ」 「拓也が言うと、なんか照れるね。でも、よかよ。拓也がいいなら、それがいい」

天神地下街のレストランで、拓也はいつものように屈託なく笑った 。石畳の床と唐草模様の天井が美しいこの地下街は、私たちの定番のデートコースだった 。彼の話す柔らかな博多弁が、私の心をいつも温かくする 。なんしようと?と不意に電話をかけてきたり、ばり好いとうよ、と真っ直ぐに伝えてくれたり。彼の隣にいるだけで、満たされていると感じられた。

私たちは、幸せの絶頂にいた。これから先も、この穏やかで輝かしい日々が永遠に続くと、信じて疑わなかった。


第二章 応答のない電話


その知らせは、一本の電話で唐突にやってきた。ディスプレイに表示された見慣れない番号。機械的で、感情のない声が、拓也が交通事故に遭い、病院に搬送されたことを告げた。

頭が真っ白になる。受話器を握る手に力が入らず、床に滑り落ちた。何を言われたのか、理解することを脳が拒否していた。これは心的外傷における典型的な「ショック期」、現実感を喪失した麻痺状態だった 。

病院の白い廊下は、消毒液の匂いが満ちていた。足が震え、一歩進むごとに世界が歪む。処置室の前で、拓也のご両親が呆然と立ち尽くしていた。お義母さんの目から、静かに涙がこぼれ落ちている。言葉を交わすこともできず、ただ互いの存在を確認するように、私たちはそこにいた。

やがて、医師が静かに出てきて、深く頭を下げた。

その瞬間、世界から音が消えた。医師の言葉は、意味のない記号の羅列にしか聞こえない。ただ、「助からなかった」という事実だけが、冷たい刃のように胸に突き刺さった。涙さえ、出なかった。突然の死は、悲しむための準備期間を許してはくれない。それはただ、圧倒的な現実として、すべてを破壊し尽くすだけだった 。


第三章 最も長い夜(お通夜)


お通夜は、市内の斎場で執り行われた。黒い喪服に身を包んだ人々が、次々と弔問に訪れる 。重く立ち込める線香の香りの中で、私は人形のように頭を下げ続けた。「この度は、ご愁傷様でございます」。その言葉が、遠いどこか別の世界で交わされているように感じられた。

僧侶の読経が始まり、喪主である拓也のお父さんから順に焼香が進んでいく 。私もそれに倣い、抹香をつまんで香炉にくべた。立ち上る紫の煙の向こうで、遺影の拓也が、あの日のように優しく微笑んでいる。

どうして。

頭の中を、拓也との楽しい思い出が巡っては消えていく。大濠公園のベンチで交わした何気ない会話 。能古島で見た一面のコスモス 。その一つひとつが、鋭い痛みとなって心を抉る。これは、急性悲嘆に見られる「反すう」と呼ばれる思考だった 。

弔問客が帰り、静寂が訪れた後、私とご両親は斎場に残った。夜通し線香の火を絶やさず、故人を見守る「泊まり通夜」 。私たちは、拓也のそばで朝まで語り明かすことにしたのだ。

「あの子、小さい頃、本当にやんちゃでね」 お義母さんが、ぽつりぽつりと話し始める。お義父さんも、私も、それぞれの記憶の中の拓也をたぐり寄せた。思い出話に笑い、そして泣いた。法的な繋がりはないけれど 、私たちは拓也を最も愛した三人であり、その悲しみを分かち合う唯一の家族だった。この長い夜が、私たち三人の間に、言葉にならない固い絆を結びつけた。


第四章 灰の世界(お葬式)


葬儀・告別式は、お通夜の翌日に行われた。棺の蓋が閉じられる最後の時、私はそっと彼の頬に触れた。冷たく、硬い。もう二度と、その温もりに触れることはできない。その絶望的な事実が、全身を打ちのめした。

火葬場へ向かうのは、近親者だけと決まっている 。私をご両親は当然のように招き入れてくれた。炉の扉が閉まる音は、この世の終わりのように響いた。

数時間後、拓也は小さな骨壺に収まって私たちの元へ帰ってきた。そのあまりにも残酷な現実を前に、麻痺していた感情の堰が、ついに決壊した。

「どうして彼が死なないといけないの!悪いことなんて、何もしていないのに!」 「神様はどうして、彼を私から奪ったの……」

それは、悲嘆のプロセスにおける「怒りと不当感」の段階だった 。やり場のない怒りと絶望が、嵐のように吹き荒れる。

斎場に戻ると、お義父さんが静かに箱を差し出した。 「沙織ちゃん、これは拓也がいつも着けとった時計たい。形見として、持っていてくれんやろうか」

その時計を受け取った瞬間、私は誓った。 これからも、彼と一緒に生きていく、と。

この時計は、彼との繋がりを保つための「心の拠り所」となった 。しかし、それは同時に、これから先の十年間、私の時間を止めてしまう重い錨ともなるのだった。


第二部 記憶の錨(二年目〜十一年目)


第五章 十年の雨


あの日から、十年が過ぎた。

私の時間は、拓也が亡くなった瞬間に止まったままだった。福岡の街は「天神ビッグバン」と呼ばれる再開発で姿を変え 、新しいビルが次々と生まれても、私の心は色褪せたままだった。かつて二人で歩いた活気あふれる街は、今や思い出という名の亡霊が彷徨う場所に変わってしまった 。

私の生活は、二つの儀式によって支えられていた。

一つは、毎年のお墓参り。拓也のお墓は、都心から少し離れた平尾霊園にある 。緑豊かなその場所で、静かに彼と対話する時間が、一年を刻む唯一の目盛りだった。

もう一つは、拓也のご両親との定期的な食事会だ。彼らは私を本当の娘のように気遣ってくれた。 「沙織ちゃん、もう拓也のことは忘れてよか。いい人がおったら、一緒になって幸せにならんね」 その優しい言葉に、私はいつも静かに首を振るだけだった。彼を忘れることなどできない。彼と一緒に生きていくと誓ったのだから。

この長い停滞は、専門的に見れば「遷延性悲嘆症」と呼ばれる状態に近かったのかもしれない 。日常生活は送れていても、心は深い悲しみから抜け出せず、未来への関心を失っていた 。友人からの誘いも徐々に断るようになり、世界から孤立していく感覚だけが、日に日に強まっていった。


第六章 土砂降り


十一年目の命日。お墓参りを終え、霊園の坂道を下っていた時だった。同い年くらいの男性と、中学生くらいの女の子とすれ違った。ほんの一瞬、目が合っただけ。何の変哲もない光景だった。

バス停の屋根の下で雨宿りをしていると、空が突然、黒いインクをぶちまけたように暗転した。バケツをひっくり返したような土砂降りが、アスファルトを激しく叩きつける。九州の天気は気まぐれだ。

雨は一向に止む気配がない。途方に暮れていると、一台の車が静かに目の前に停まった。運転席の窓が開き、さっきすれ違った男性が顔をのぞかせた。

「駅まで送りましょうか?」

見知らぬ人の車に乗るなんて、普段の私なら絶対にしない。でも、その日は何故か、彼の申し出を断れなかった。十年間のルーティンから、ほんの少しだけ踏み出す衝動に駆られたのだ。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

後部座席には、彼の娘さんが静かに座っていた。車内という閉ざされた空間が、不思議な親密さを生み出す。お墓参りの帰りだという共通点が、私たちの間の壁を溶かした。私は、自分でも驚くほど自然に、拓也のことを話していた。彼もまた、五年前に妻を病気で亡くしたことを、静かに語ってくれた。

彼の穏やかな声の調子、言葉を選ぶときの優しい間。その佇まいのどこかに、ふと、拓也の面影を感じた。それは物理的な類似ではない。魂の響きのような、懐かしい感覚だった。この感覚が、私の心の固い扉を、ほんの少しだけ開けてくれたのかもしれない。

駅に着いたとき、私は衝動的に口を開いていた。 「あの、今日のお礼がしたいので……よかったら今度、三人で食事でもいかがですか」

男性と娘さんは顔を見合わせ、そして、静かに頷いた。


第三部 tentativeな春(十一年目〜十二年目)


第七章 三人の食卓


一週間後、私たちは食事を共にしていた。私が選んだのは、天神の喧騒から少し離れた、個室のある和食の店だった 。ロマンチックな場所ではなく、温かくて落ち着ける場所がよかった。

彼の名前は健一さん、娘さんは美咲ちゃんという名前だった。 「男手一つだと、どうしても限界があって。特に美咲が年頃になってからは、話せないことも増えてきてね」 健一さんは、少し困ったように笑った。美咲ちゃんは、黙って箸を進めている。

もし、私が母親だったら。

自然とそんな考えが浮かんだ。私は、美咲ちゃんに優しく話しかけた。学校のこと、好きな音楽のこと。彼女も少しずつ、心を開いてくれた。そして私も、一人でいることの寂しさ、誰かと食卓を囲むことの温かさを、久しぶりに感じていた。

この食事は、恋愛の始まりではなかった。それは、孤独を抱えた三人が、互いの心の隙間をそっと埋め合うような、穏やかで、そして切実な時間だった。


第八章 大濠公園の足跡


それから、私たちは三人で会う時間が増えた。週末には、大濠公園の池の周りをゆっくりと散歩したり 、百道浜の海辺で潮風に吹かれたりした 。それは、まるで家族のような時間だった。

しかし、楽しいと感じるたびに、罪悪感が胸を締め付けた。笑うことは、拓也への裏切りではないか。美咲ちゃんの手を握ることは、許されないことではないか。悲しみから回復する過程は、一直線ではない 。希望と後悔の間を、何度も行ったり来たりした。

健一さんは、そんな私の心の揺れを、静かに見守ってくれた。何も言わず、ただ隣にいてくれた。美咲ちゃんは、いつしか私に、お父さんにも言えない悩みを打ち明けるようになっていた。私は、母親になろうとしたわけではない。ただ、同じ痛みを少しだけ知る大人として、彼女の話に耳を傾けただけだ。ステップファミリーの関係は、焦らず、時間をかけて築くものだと、どこかで読んだことがある 。私たちの関係は、まさにそうやって、ゆっくりと育まれていった。

会話の中に、「〜っちゃん」や「〜やけん」といった自然な博多弁が混じるようになった頃 、私たちの間には、確かな信頼が芽生えていた。


第九章 子供の問いかけ


その日は、天神中央公園の芝生の上で、三人で穏やかな午後を過ごしていた 。木漏れ日が優しく降り注ぎ、心地よい風が頬を撫でる。

不意に、美咲ちゃんが私の顔をじっと見つめた。そして、真剣な、少し涙を浮かべた瞳で、まっすぐに言った。

「お母さんになって欲しい」

その言葉は、静かな公園に、雷鳴のように響き渡った。 私と健一さんは、息を呑んで固まった。大人の私たちが、亡くなった配偶者への想いや世間体を気にして踏み出せずにいた一線を、美咲ちゃんの純粋で切実な願いが、いとも容易く飛び越えてしまった。

それはもう、答えを出さなくてはならない問いだった。


第十章 祝福


答えを出す前に、私はどうしても会いに行かなければならない人たちがいた。拓也のご両親だ。

いつものように迎えてくれた二人に、私は震える声で全てを話した。健一さんと美咲ちゃんのこと。三人で過ごした時間。そして、美咲ちゃんの言葉。裏切りだと思われたらどうしよう。その恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。

しかし、二人の反応は、私の想像とは全く違っていた。 お義母さんの目から、大粒の涙がこぼれた。それは、悲しみの涙ではなかった。

「沙織ちゃん、よかった……本当によかった」 お義父さんも、深く頷きながら言った。 「今まで、本当にありがとう。これからは、自分の人生を歩んで、幸せになって欲しい。それが、拓也の一番の願いでもあるはずやけんね」

その言葉は、十年もの間、私の心を縛り付けていた重い鎖を、解き放ってくれた。二人の祝福は、単なる許可ではない。それは、私を娘として愛してくれている証であり、息子に代わって私に贈ってくれる、最大限の愛情だった。

私は、ようやく前に進むことができる。


第四部 第二の誓い(十二年目)


第十一章 静かな約束


拓也のご両親からの祝福を受け、私の心は晴れやかだった。健一さんに会って、そのことを伝えた。私の覚悟は、もう揺らが ない。

健一さんのプロポーズは、派手な演出など何もない、静かで、心からのものだった 。 「沙織さん。僕たち、お互いに過去を抱えてる。忘れる必要なんてない。その全部を抱えた上で、これから三人で、新しい家族を作っていきませんか」

それは、情熱的な愛の告白というより、共に人生を歩むパートナーとしての、誠実な誓いだった。死別の経験を持つ者同士の再婚は、幸福の脆さと尊さを知っているからこそ、より深く、思慮深いものになるのかもしれない 。

「はい」

私の返事は、穏やかで、迷いはなかった。悲しみの長いトンネルを抜け、私はようやく「再生期」にたどり着いたのだ 。


第十二章 ウェディングドレス


十二年の時を経て、私は再び、結婚式の日を迎えた。 あの日と同じ、友達だけを招いたささやかな式。でも、そこに満ちる喜びは、以前とは全く違う、深みと重みを持っていた。

控え室の鏡の前、純白のウェディングドレスに身を包んだ自分の姿を見て、涙が溢れ出した。失った人への想い。孤独に耐えた長い年月。そして、信じられなかった、この幸福な瞬間。喜びと悲しみが溶け合った、温かい涙だった。

その時、そっとドアが開き、健一さんと美咲ちゃんが入ってきた。 二人は何も言わなかった。ただ、私のそばに来て、優しく抱きしめてくれた。

その温かい抱擁が、すべてを物語っていた。 私たちは、家族だ。あなたの痛みも、喜びも、全部わかっている。私たちは、ここにいる。

腕に抱えたブーケには、白いバラと共に、ブルースターが添えられていた。「信じあう心」という花言葉を持つ、小さな青い花 。それは、過去への敬意と、未来への希望を束ねた、私たちのための花だった。

三人は、新しい家族として、静かに、そして確かに、幸せを築いていく。それは、単純なハッピーエンドではない。痛みを知るからこそ、より深く、より大切に育んでいく、新しい始まりの物語だった。


エピローグ 五年後の光


あれから、五年が過ぎた。

高校生になった美咲は、リビングのソファで大学のパンフレットを広げている。 「お母さん、この大学のオープンキャンパス、一緒に行ってくれん?」 「よかよ。いつにする?」 キッチンで夕食の準備をしながら、私は笑顔で答える。ごく自然に「お母さん」と呼ばれることにも、もうすっかり慣れた。

「ただいま」 玄関のドアが開き、健一が帰ってくる。仕事の疲れを見せることなく、彼は美咲の頭を優しく撫でた。 「進路、順調か?」 「まあね。お父さんこそ、お疲れ様」

食卓を囲む、ありふれた、しかし、かけがえのない時間。健一と美咲、そして私。私たちは、ゆっくりと、でも確実に、家族になっていった 。

リビングの棚には、三人の写真が並んでいる。その隣に、少し色褪せた拓也の写真が、今も静かに微笑んでいる。拓也のご両親とは今も交流が続いていて、時々三人で会いに行く。彼らは美咲を本当の孫のように可愛がってくれる。

来週は、拓也の十七回忌だ。 「今年も、三人で行こうか」 健一が言うと、美咲も「うん」と頷く。 「拓也さんの話、また聞かせてね。お母さんが、どんなに好きだったか」 その言葉に、胸が温かくなる。過去を否定するのではなく、全てを受け入れてくれるこの家族が、私の宝物だ 。

夕食の後、ベランダで夜風にあたっていると、健一がそっと隣に来て、私の肩を抱いた。 「沙織。幸せかい?」 「うん。すごく」

見上げれば、福岡の夜景が宝石のようにきらめいている。失われた時間は戻らない。悲しみが完全に消えることもないだろう。でも、私たちは新しい時間を、こうして三人で紡いでいく。

痛みを知るからこそ、この穏やかな日常が、どれほど愛おしいものか分かる。十二年越しに袖を通したウェディングドレスは、私に新しい人生の扉を開けてくれた。その先には、こんなにも温かい光が満ちていたのだ。


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