第5話:北の国からこんにちは
炭酸飲料の蓋を開けた時の様な、或いは蒸気機関車が不要な蒸気を噴出したかの様な音を立て、SFの世界で描かれるコールドスリープカプセルの様な物の蓋が開く。
そこには同様の設備が無数に並んで居り、一つだけではなく幾つかのカプセルが同じ様な音を立てて開封されて居る状況だった。
『おはようございます橘さん、昨夜は随分と御活躍されたみたいですね。ポイント獲得ランキングのトップ10に入賞してますよ。まだ正確な数値は出てないので上下する可能性はありますが、1位取ったら多分表彰とかあるので覚悟しておいて下さいね』
自宅に有る比較的お高い寝具よりも圧倒的に寝心地が良く、その上で二度寝に誘う様な後を引く眠気を残さない、何度体験しても慣れないその感覚から目を覚ました彼は、枕元のスピーカーから聞こえる声に少しだけ嫌な物を感じていた。
いや、声の主が嫌いだとかそう言う意味では無い、声自体もこんな所で働くよりも声優を目指した方が稼げるのでは? と思う位には可愛らしい声をして居る。
けれども……彼女の橘と呼ばれた人物に対する態度は、何時も何処か媚びた物が混ざっており、ソレが何と言うか彼の弟の嫁や妹が自分に向ける物に近い様に感じて居た。
具体的に言うならば億を超える資産を持つ彼に【集ろう】と言う浅ましい感情だ。
「有難うございます、その時には携帯の方に連絡来るんですよね? じゃぁ俺は着替えて出かけるんで……」
スピーカーの横にセットで設置されたマイクにただただ事務的な礼を述べた彼は、タンクベッドと呼ばれる機材から身体を起こすと、そのまま立ち上がり更衣室へと足を向ける。
今の彼の装いは灰色のスウェット上下と、部屋着や寝間着としてならば問題無くとも、外へと出かけるには少々だらしのない格好だった。
無論彼もこの格好で自宅からこの施設へと来た訳では無い、ちゃんと更衣室に有るロッカーに別の外出着が入っているのである。
そんな彼が着替えたのは、何処にでも売っている様なベージュの綿パンと、やはり高価な物には見えない灰色のパーカーと言う、億を超える資産家には全く見えないスタイルだ。
更衣室に隣接する洗面所で歯磨きと顔を洗い、それから着替えをして施設の外へと出る。
地球温暖化が叫ばれて結構な年月が経った今日9月半ばの気温は、朝のこの時間で20℃を少し下回る程度で、彼の幼少期の記憶に有る同時期と比べれば確かに暑くなっていると感じていた。
「お勤めご苦労さまです」
施設……札幌中央警察署の上に増設された宇宙カマキリ対策センターから出た彼は、署内を通り正面口から出る際に、歩哨に立つ制服の警察官にそんな言葉を投げかけてから、札幌の街へと出る。
「取り敢えず朝飯だけど……どーすっかなー?」
宇宙カマキリが地球に飛来して以来肉類の値段は軒並み上がり、ハンバーガーや牛丼の様な比較的安価な部類だった食品も決して安い物では無く成っていた。
不幸中の幸いと言えるのは人間同士で争って居る余裕が減った事で、戦火に見舞われていた地域が安定を取り戻し、結果として麦なんかの農作物が安定供給される様に成った事だろうか?
まぁ其れでも石油価格は未だ高騰したままなので、必然的に燃料代が掛かる長距離輸送を伴う様な品物や、暖房を炊いて無理矢理作る季節外れの作物なんかはやはり高いままである。
結果として彼が若い頃の様に何でもかんでも【安いのが正義】と言う様な市場は半ば崩壊しつつ有り、安価な筈のファストフードですら一食で1,000円を覚悟する必要が有る状況なのだ。
とは言え今までの様に稼ぐ手段が無く、只々高騰する生活費に喘ぐだけ……と言う状況からは脱して居ると言えなくも無い。
異星人から与えられた技術に依って、地球人類は睡眠時間をも労働時間に変え得る方法を得たのだ。
彼がたった今そうして居た様に身体と脳は睡眠状態にしたままで、量産型予備肉体と呼ばれる物に意識を乗り移らせる事で、万が一不具を抱える様な事故に見舞われたとしても、元の身体には何ら影響も無いそんな労働力。
正直な所、どんな方法を使えば身体も脳みそも眠ったままで意識を別の身体に宿す……なんて真似が出来るのかは、科学に明るくないシンには想像も付かないが地球よりも遥かに進んだ科学を用いれば可能なのだろう。
量産型予備肉体は十分に訓練された軍人が、自身の身体と殆ど変わらないと太鼓判を押す身体能力を持ち、その使用者は必ずしも男性で無ければ成らないと言う事も無い。
つまり女性であっても危険を伴う様な戦場や肉体労働の場で、何のリスクも無く働いて稼ぐ事が出来る様に成ったと言う事で有る。
しかしだからと言ってソレが全ての危険を伴う現場作業に投入する事が出来ている訳では無い。
量産型予備肉体を培養する装置も接続する為のタンクベッドも、地球の技術では再現不可能な高度技術の塊で有り、日本で今の所優先して使われているのは宇宙カマキリへの対策と駆除に関する事業なのだ。
日本での宇宙カマキリ対策事業への参加は、日本に居住する権利を持つ者であれば、基本的に誰でも希望する事は可能で有り、割と簡単な試験と訓練を突破すれば予備肉体を得て戦場へと向かう事が可能になる。
1回の出撃で幾ら稼げるかは当人の努力と才能次第では有るが、サボってさえ居なければ東京の最低賃金時給相当のポイントは撃破数ゼロでも支給される為、当初は希望者が殺到した物だ。
だが長続きして居る者は決して多いとは言えない、何せ予備肉体で受けた不具に成る程の怪我、場合に依っては即死する程のダメージは、本来の身体には何ら影響は無いとは言え、痛みが全く無いと言う訳では無いのである。
初出撃よりも以前に訓練の時点で一度はそうしたダメージを経験させられるのだが、その段階で心を折られて二度と参加しようと思わない者は一定数は居るのだ。
では適正が有る者だけが稼げて、そうで無い者は貧困に陥って居るのかと言えば決してそんな事も無い。
宇宙カマキリ対策事業で稼いで居る者の中には、昼間の時間を悠々自適な生活に当てる……なんて者も決して少なく無いのだ。
他にも年金だけでは暮らせ無いが身体にガタが来ていて仕事に就く事は出来ない御老人なんかも、若い頃よりもよく動け尚且つ健康を気にせず飲み食い出来る予備肉体での仕事を喜んで引き受けていたりする。
その結果として高齢者の生活保護受給率が大きく下がったと言うのは、恐らく嬉しい誤算と言う奴なのだろう。
「よし、久々にカツ丼でも食いに行くかー。すすきの近くの店で食ってその足でジムでトレーニングしてから一回帰ろう」
と、朝からカツ丼と中々に重い物を食べる事にしたらしい彼、橘 真は【シン】と言うハンドルネームでプロゲーム界隈を騒がせた人物である。
身長180cmを優に超える長身と十分に鍛えられた引き締まった身体、そして分厚い眼鏡こそ掛けては居る物の比較的整った顔立ちの彼は、その資産も相まって優良物件と言うに相応しい人物だ。
でもだからこそ彼は資産目当ての女性から何度もモーションを受け、その度に裏切られ傷ついて来た。
プロゲーマーを引退し東京から地元札幌へと帰って来たならば、今度は身内からも集りにも近い【おねだり】を何度も受ければ、そりゃ人間関係が煩わしいと感じる様になるのも仕方ないだろう。
他にも色々と彼を取り巻く不幸や不運、巡り合わせの悪さ等は腐る程有るのだが、ソレは後々語られる事になる筈だ。
この物語は橘 真が数奇な運命に導かれ様々な苦難を乗り越える事で信頼出来る仲間達を得て、宇宙カマキリとの戦いの最前線を生き抜くドラマである。