第48話:道を下って湖の絶景へ
留寿都村にあるテーマパーク前を越えたら洞爺湖までは殆ど下りで、留寿都村の役場がある小さな市街地と其処から然程も離れていない場所にある村立高校の前を抜けたら、後は暫く道路に沿って広がる畑作地域を駆け抜けるだけだ。
正直この辺は風光明媚な場所と言う訳でも無く、走って居ても楽しめる風景では無いが、札幌市街内と比べれば信号が無い分飛ばしやすいと言う方向では楽しめる道ではある。
とは言え幾つか急なカーブもあるのでスピードの出しすぎには注意しなければならないが、それでも下り坂で踏み込める場所と言うのは、自転車乗りに取っては恐らくは走っていて一番楽しい時間なのではなかろうか?
そんな時間も1時間と持たずに過ぎてしまうのは、シンの脚力が生半可な物では無く、下り基調の道とは言え自動車にも迫る速度で駆け抜けているが故だろう。
そうして田畑広がる田園風景を抜けて木々生い茂る中を通り越した先には、目的地である洞爺湖の雄大な風景が左手に広がっているのが見えてくる。
戦国時代何かを描いた小説や漫画では日本最大の湖である琵琶湖を淡海と称し、その周辺に住む者達が海を侮る……と言う様な描写を偶に目にする事が有るが、洞爺湖の風景も向こう岸に見える対岸の土地が無ければ海と勘違いしても不思議は無い……そんな光景だ。
そんな湖の雄大な風景もほんの僅かで終わり、再び木々生い茂る道をしばし進んで、国道230号線を離れ道道2号洞爺湖登別線へと入っていく。
とは言え230号と道道2号の境界は230号が南西方向へと曲がるのに対して、道なりに進めば2号線なので、逆に230号を更に南進するルートを通る時の方が注意が必要になる。
今回は道なりに進む事で目的のホテルが有る湖畔を辿るルートなので、気にせずそのまま直進で良い。
すると再び木々が開けて湖が見えてくる、この辺りは公園になっているので、風景を楽しむ余裕があるならばゆっくり走っても良いだろう。
道沿いに【ようこそ洞爺湖温泉へ】と言う看板を確認し、次の信号を左折すれば洞爺湖の温泉街とでも言うべきエリアに入るのだが、今日予約したホテルは更にその先に有るのでこのまま道道2号を直進する。
残念ながらこの辺りはレイクビューのホテルや旅館が幾つも建ち並んでおり、道沿いは見ていても楽しい風景では無い、故にシンは更にペダルを踏み込んで加速する。
恐らくはこの辺りの温泉街で働く人達が住んでいるであろう住宅が並ぶ町中を走り抜け、そんな中に時折混ざる飲食店やホテルの姿を横目に見つつ走り抜けた先に、目的のホテルが存在して居た。
自転車に取り付けて有るサイクルコンピューターと呼ばれる機材に目をやれば、時刻は午後5時を少し回った頃合いで、これからチェックインしてひとっ風呂浴びれば夕飯には丁度良い頃合いだろう。
そうしてやって来たシンはホテルの入口近くに自転車を一度停めると、サドルに取り付けた小さなカバンから着替えとは別に入れて有った袋を取り出す。
ソレは輪行バッグと呼ばれる物で、分解したロードバイクを担いで電車やバスに乗り込む為に使う入れ物である。
自転車イベントなんかで自転車を受け入れ慣れているホテルなんかだと、ちゃんとした警備の行き届いた駐輪スペースが有ったりするが、ココの様な観光ホテルは基本的に自転車での来客を想定していない。
無論マイカーでの来客に対応する為に駐車場は完備して居るが【駐車場でのトラブルは責任を負いかねます】と言う但し書きが着いているのが普通だ。
そんな所にシンの様な100万円を優に超える……と言うのは稀でも、数十万くらいは当たり前にするロードバイクを停めて一泊と言うのはバカのやる事だろう。
ならばどうするのかと言えば、客室に持ち込んでしまえば良い。
無論、むき出しの自転車を担いで部屋まで入る……と言うのは極めて非常識な行為で有り、ホテル側も難色を示す筈だ。
けれども分解して輪行バッグに入れてしまえば、それはもう手荷物の類でしか無い。
サイクルジャージ姿で輪行バッグを背負った者は、自転車イベントの類ならば当たり前に見る光景では有るが、観光地のホテルにそんな姿で来る者は早々居ないのだろう。
ホテルのロビーに居た他の客達から奇異な物を見たと言う様な視線が飛んでくるが、そんな物は慣れていると言わんばかりの態度で、堂々と受付へと向かう。
「ようこそお越しくださいました。ご予約のお名前をお伺い致します」
サイクルジャージにヘルメットい色合いのサングラスと言う、ちょっと常識的とは言い難い姿のシンを見ても顔色一つ変える事無く受付係の女性がそんな言葉を口にする。
「昼くらいに予約の電話を入れた橘 真です」
「はい、確認が取れました、係の者がお部屋までご案内致します」
カウンターの上に置かれたノートパソコンを操作し予約情報を確認した後、受付嬢は笑顔でそう言ってから、
「所でそのお姿とお荷物から察するに、自転車で此処まで来られたんでしょうけれども……まさかとは思いますがご連絡先ご住所から自転車で?」
少しだけ声を落とした様子でそんな疑問を口にする。
距離にして凡そ100kmソレは自動車で移動するのであれば、然程の驚きも無い数字では有るが、自転車でその距離を移動すると成ると、ロードバイク乗りならば兎も角、一般人からすれば狂気の沙汰と移る物だ。
よく本州の人達が北海道内でも少々田舎な場所に有る【〇〇まで200km】なんて看板を見て【北海道民は距離感が奇怪しい】と話題にしたりする事が有るが、ソレとて飽く迄も自動車を使って行く距離で有りソレを自転車で……と言うのは道民的にも普通じゃない。
「ええ勿論、まぁ100kmくらいならロードバイク乗りなら普通に走りますよ」
嘘では無い、乗り慣れたロードバイク乗りにとって100kmは確かに長い距離では有るが、ソレを超える距離を普通に走っている為に色々な感覚が麻痺して、この位は普通……と勘違いしてしまうのだ。
江戸の頃には金山で有名だった佐渡ヶ島で行われる自転車の人気イベントに【佐渡ロングライド】と言う物が有る。
最長距離のコースは佐渡ヶ島をぐるっと一周するルートで220kmを約10時間掛けて走ると言う物だが、初心者向けと銘打った最短コースですら100kmを7時間少々で走ると言うのだから、常人からすれば頭がオカシイと思われるのも無理は無いだろう。
ましてやシンは100km程の距離を4時間少々で走ってきて居るのだ、単純計算で平均時速25kmで走れば良いだけ……とは言う物の、一般的にシティサイクルにしか乗った事の無い者からすればやはり狂気の沙汰と言う事に成る。
「はぁ……凄いですよねぇ。ウチにも偶に自転車でお見えに成るお客様はいらっしゃいますけれども……100km……」
冬場は雪に閉ざされる札幌でもそれ相応にロードバイク乗りは居るし、そうした者達がここまで脚を伸ばす事は相応に有るのだろう。
けれどもやはり100kmと言う距離を自転車で走ると言うのは中々に衝撃的な事の様で、彼女はぽかんとした様子でそんな言葉を口にする。
「おまたせ致しました、それではお部屋にご案内致します」
と、然程も待たない内に案内係の男性がそんな言葉を投げかけて来たので、シンは受付係の女性に軽く会釈をしてからその場を後にした。
「こちらがお部屋に成ります……失礼ながらマーセの橘様ですよね? 先日のテレビ拝見しました」
極々一般的な温泉旅館に有るような和室へと案内されるなり、係の男性が唐突にそんな言葉を口にする。
先日のテレビではシン自身は直接画面に写る事は無く、電話越しでの取材だったにも拘らず何故? とも思ったのだが
「いや実は私もワールドガンセッションはファーストシーズンから遊んでいる口でして、シン様のプロ時代の映像とかも良く見てたんですよ。本当にマーセの皆さんは大変なお仕事をなさって下さいまして……有難うございます」
聞けば宇宙カマキリが出没する様になってから、ここ洞爺湖へとやってくる観光客も減り気味で、行楽シーズンでも全室予約で埋まると言う日は減ってきていると言う。
ここは山間部に開けた湖が有ると言う立地故に、湖側以外ならば何処から宇宙カマキリが出てきても不思議は無い。
幸か不幸か日本ではつい先日まで宇宙カマキリに依る人的被害は出ていなかったが、海外では日本へと旅行に出る事の出来る富裕層こそマーセとして活躍すべき……と言う様な機運が高いそうで、海外からの観光客も減っていたのだと言う。
「この間の総理大臣の演説じゃ無いですけど、北海道からアレが本当に駆逐されたなら、またお客様が戻ってきてくれると良いんですけどねぇ。ではごゆっくりお寛ぎ下さい」
そんな言葉を残して、案内係の男性はシンを部屋に残しその場を去っていったのだった。




