第46話:札幌から南へ抜ける道
ヤサイアブラマシマシニンニクと謎の呪文を唱えてから出された料理をキレイに食べ終えたシンは、その店から然程離れていない場所にある自宅へと一度帰ると、洗濯物干しに掛けてあるサイクルジャージに着替えると、今まで着ていた物を洗濯機へと放り込む。
小さなバッグに下着だけを詰め込んで財布と携帯電話を持っている事を確認すると、ブラスターの入ったホルスターを普段使いのカバンから取り出しソレを腰に巻くと再び部屋を出た。
比較的築年数の古くなった鉄筋コンクリート4階建てのマンションは、吹き曝しの廊下と階段が外に着いている冬場は少々外出が面倒になるタイプの建物だ。
駐輪場の様なスペースは無い物の、住人達は1階階段下の空間をその様に使っており、そこには何台もの自転車が停められている。
けれどもシンは自分の自転車をここに置く事は無い。
と言うか、恐らく真っ当なロードバイク乗りならば自分の愛車を、誰でも触る事の出来る様な場所に停めると言う事はしないだろう。
無論出先で一時的にやむを得ず……と言う事はあるだろうが、自宅に帰って来たならば普通は建物の中まで持って上がる筈である。
なにせロードバイク……と言うかスポーツサイクル全般は、姿形だけ似せた《《なんちって》》とでも言うべき物を除けば、新車で買おうと思えば安くても一桁万円後半から十万円前後、高い物ならばシンの乗っている物の様に100万円を軽く超える物もあるのだ。
そんな物をそこらにポンと置いておけば、幾ら世界的に見れば治安が良いと言われている日本でも、良からぬ気を起こす者が出るのは当然の事といえるだろう。
と言うかそうした窃盗転売等の金銭目的の犯行に限らず、自転車とビニール傘は盗っても構わない……と言う人間は日本でも少なからず居る。
しっかりと鍵を掛けておいたにも拘らずソレを外して盗むなんて事は、普通のシティサイクル……所謂ママチャリに対してもやる者はやるのだ。
傘だって雨が降っている時ならば誰だって使うだろう物を、店先の傘立てに差して買い物をする事は普通に行われる行為だが、帰ろうとしたら自分の傘が無いと言う経験をある程度の年齢まで過ごしていれば、一度も経験が無いと言う方が少数派ではなかろうか?
そうした窃盗の恐れを避ける為も有るが、ロードバイク乗りが自室へと自転車を持ち込むのには、もう一つの大きな理由がある。
ソレは寒暖差や風雨に晒される事で起こる劣化を少しでも少なくしたいと言う事だ。
上記した通りスポーツサイクルと言う物は決して安い買い物では無い。
人は値段が高ければ高い物ほど大切に愛着を持って使いたいと考えるのが普通だろう。
数千円から1万円前後で買ったセール品のママチャリならば、数年も持たずにダメになっても未だ納得は行くだろうが、数十万円だして買ったロードバイクが似た様な期間で乗れなくなる、なんて事は物や金銭の価値を理解してないバカじゃなければ耐えらる筈が無い。
そう言う意味では若くして大金を掴んだシンの金銭感覚にも、未だ常識的な部分が残っていると言える感じで、部屋の中にはしっかりと自転車を乗せる為のサイクルスタンドが鎮座して居る。
まぁそうは言っても今の様にちょっと着替えて直ぐ出てくる……と言う様な時ならば、わざわざ自転車を担いで二階の部屋まで持って上がったりはしない。
無論だからと言って無防備な状態で放置すると言う訳では無く、市街地の駐輪場なんかを利用する時に使っている極めて頑丈なチェーンロックを3つ程掛け、その内一つは階段の手すりの下にある支柱に通してある。
ここまですればちょっと気合の入った金銭目的の泥棒でも、盗むのにかかる時間を考えれば躊躇する筈だし、何ならこの鍵を壊す音で建物の中から誰かが出てくるだろう。
着替えを終えて再び愛車の下へと戻ったシンは、サドルに引っ掛けて置いたヘルメットを被り直すと、手早く鍵を外して再び走れる状態へと戻していく。
目指すホテルがある洞爺湖までのルートはわざわざ調べるまでも無い、札幌の市街地大通り公園の端っこの方、西11丁目を始点とする国道230号線をただただひたすらに辿って走れば良いのだ。
その道は札幌から函館へと向かう際に高速道路を使わずに行くのであれば、最短ルートを形成する一角で有り、札幌の奥座敷として名高い定山渓を通り抜け、今回の目的地である洞爺湖方面へと向かう事の出来る観光道路でもある。
そう言う土地柄上、ただただ通り抜けるだけでは勿体無いスポットが幾つもあるのだが、今回は残念ながら夕飯までにチェックインしなければ成らない都合上、何度かの休憩以外に時間を使っている余裕は無い。
そんな訳でシンは自転車を漕ぎ出すと、自室のあるマンションの直ぐ下を通る【中の島通】へと出て、札幌地下鉄中の島駅を曲がって幌平橋を渡り豊平区から中央区へと入る。
そのまま道なりに進めば札幌市民が愛する初夏の祭り【北海道神宮祭】のサブ会場となる中島公園を通り抜けるルートになるのだが、今回の目的地へと向かう場合には遠回りとなってしまう為、幌平橋駅付近で曲がり南17条線へと抜けていく。
札幌市電と言う路面電車が走る通称【電車通り】を越えて、そのまま西へと暫く進めば目的の国道230号線にぶち当たるので、そこからは道に沿って延々と南下していくだけだ。
230号に乗って少し走ると、右手にスキー場やロープウェイでおなじみの藻岩山が姿を表し、左手には豊平川を挟んで先日の悲劇が起こった真駒内が見えてくる。
時折信号に引っ掛かって停まる必要はある物の、このあたりは殆ど平らと言って間違っていない地形なので、自動車並とまでは行かないが原付バイクとタメを張る程度の速度で走る事は十分可能だ。
シンはスピード狂と言う程では無いが、早く走る物を好むタイプではあり、ジェットコースターの様な乗り物も大好物である。
その為、道を間違える様な心配をする事無く、ただただ只管に道を辿るだけで目的地へと着く事が出来ると言うこのルートは、踏めば踏んだだけ速度を上げる事が出来るが故に、実はかなり好みの道だったりするのだ。
まぁそう言う意味での楽しさで言えば、学生時代に一度だけ走った札幌中心部から旭川市を繋ぐ、国道12号をただ只管に走り続ける……と言う方が楽しかったと言える。
約157kmと言うアホかと言いたくなる様な距離では有るが、その中でも美唄市から滝川市に掛けての29.2kmは日本一長い直線道路として、自転車乗りだけで無くバイク乗りや、スポーツカーマニアにも一度は走りたい道として知られている程だ。
まぁ兎角そんな思い出に浸りながらも只管にペダルを回して居る内に、再び豊平川を渡り南区石山と呼ばれる地域へと入っていく。
幹線道路沿い、観光道路沿いとは言え、このあたりはどちらかと言えば住宅街の趣が強く、目立った観光地も少ないが、殆ど直線に近い道は走っていて気持ちの良い道と言えるだろう。
そうして走り続けて簾舞と呼ばれる地域を抜ければ、住宅街も終わり風景がガラリと変わって山間部と言った趣になってくる。
ここら辺りから定山渓に掛けては登り基調の道では有るが、斜度は然程高くも無い為、自転車初心者ならば兎も角、シンくらいに乗り慣れた者にとっては負担という程の負担では無い。
むしろ定山渓を抜けた先にある中山峠へと向けてのウォーミングアップと言う感じで、平地を走って居た時よりも速度を上げているまである。
「よっしゃ! テンション上がって来たぁ!」
ランナーズハイと言う言葉が有るが、シンのソレはライダーズハイとでも言うべき物なのだろうか? いやライダーズハイはバイクで長時間走った時の異常なテンションを指す言葉だった筈だ。
兎にも角にも普段の気怠げな雰囲気とは違う、元アスリートとしての凶暴性をむき出しにした様な笑顔でシンは、只管に坂を駆け上がって行くのだった。




