第4話 神の修練、そして家族のもとへ
暗闇の中に、淡い光が揺れていた。
それはまるで、星々が瞬く夜空のような不思議な空間。重力も音も感じられず、ただ静かで――けれど、どこか温かかった。
その中心に、一柱の神が姿を現した。老いた賢者のような姿をした存在は、セイジュを見下ろして、ゆっくりと口を開いた。
「……お主は、我ら神々に選ばれし者。なのになぜ、“神魔法”を使おうとせぬのじゃ」
神の声は深く、響き、空間すら震わせる力を帯びていた。
セイジュはその声に戸惑いながらも、はっきりと答えた。
「僕は……使いたくないんです、神魔法なんて」
「ほう、なぜじゃ? お主の肉体と魂なら、すでに“神の力”を扱えるはず。それが“宿命”であろう?」
セイジュはゆっくりと顔を上げ、神の瞳を見つめ返す。
「……神魔法を使えば、僕はきっと“特別な存在”になります。でも、それは同時に、“たくさんの敵”を生むってことなんです。命を狙われて、大切な人を巻き込むかもしれない……それが、怖いんです」
神はしばし沈黙した。広がる虚空に、セイジュの声だけが吸い込まれていった。
やがて、神は深く息を吐いたように見えた。
「……恐れを知る者よ。その心、誠に尊い」
「だが、お主よ。“選ばれし者”は、避けては通れぬ道がある。望まずとも、力はお主に宿っておる。目を背けることは、もはやできぬ」
その言葉は、重く、冷たく、そして――どこか悲しげでもあった。
「――お主が神魔法を使いたくない理由、ようわかった」
神は静かに目を閉じた。神々しい光が、穏やかな波紋のように広がっていく。
「それに、今の現世には“神魔法”を教えられる者もおらぬであろう。だからこそ、儂らが直接教えようと思うた。……じゃが、お主が“使わぬ”と決めておる以上、無理に強いることはせん。選ぶのは、常にお主じゃ」
神の言葉には威圧も命令もなく、ただ深い慈愛が込められていた。
「ただ、これだけは言うておこう。――もしもお主が、いつか“神魔法”を学びたいと思う日が来たなら、天に向かって“教えてください”と告げよ。儂らはその声を聞き届け、“特別な世界”へとお主を導こう」
セイジュは目を見開いた。
「特別な世界……?」
「うむ。そこでは時間が止まり、現世の一秒たりとも進まぬ。安心して修行に集中できる世界じゃ。そこでなら、いくらでも“強くなれる”。――いつでも言え。わかったな?」
セイジュは小さく頷いた。胸の奥で、何かが温かく灯った気がした。
「……あの、質問があります」
「申してみよ」
「今、僕は夢の中にいるんですよね? じゃあ……この世界でどれくらい時間が経っているんですか?」
神は少し考えるように顎に手を当てた。
「……ざっと、二年ぐらいかのう」
その一言に、セイジュの心は大きく揺れた。ほんの数秒に感じる時間の中で、現世では二年もの歳月が過ぎてしまっている――その事実に、彼の心には焦りが芽生えていた。
「……だったら……だったら神様……僕に、二年分の力をください!」
セイジュの願いに、神は静かに首を振った。
「それはできぬ。お主はいま、生死の狭間におる。肉体も魂も限界じゃ。これ以上の訓練は、すべてを壊しかねん」
その言葉に食い下がろうとしたセイジュの前に、神は手をかざし、未来の幻を映し出した。
そこには――四歳のセイジュがいた。
すでに修行を終えた未来の自分。凛とした佇まいに、確かな強さが宿っていた。神の加護を受け、神魔法に手を伸ばしつつある自分の姿。その姿に、セイジュは胸を熱くした。これこそ、自分が目指す姿だ。これほど強くなれるのなら、いますぐ修行を始めたい――そう強く思った。
だが、その映像はすぐにかき消され、新たな未来が映し出された。
「……見ておけ。それが、望みの代償じゃ」
画面には、病に伏し、やせ細ったセイジュがいた。筋力も魔力も失い、苦しみながらもがき、そして……六歳という若さで命を落としていた。
「……っ」
セイジュは言葉を失い、ただ拳を握り締めた。
「それでも……それでも僕は……! 二年間、修行をしたいんです……!」
何度も、何度も、神に懇願する。願い、叫び、祈るようにして求め続けた。
神はしばし沈黙した後、深くため息をついて口を開いた。
「……本当に、しつこい子じゃな……よかろう。儂らも根負けじゃ。――だが条件がある」
セイジュは顔を上げ、真っ直ぐに神を見つめる。
「条件……?」
「そうじゃ。まずひとつ、ここで“新しい魔法”を覚えることは許さぬ」
「……え?」
「そしてふたつ。フレメルとやらいう、お主の教師から課された修行以外――それ以外の訓練をすることも禁ずる」
神の声は厳しく、だが優しさも滲んでいた。
「それが守れぬようなら、即座に修行を打ち切り、現世へと戻す。……それでもよいか?」
セイジュはしばらくの沈黙のあと、強く頷いた。
「はい。それでも……お願いします。僕に、強くなるための時間をください」
その瞬間、神の周囲に淡い光が灯り、空間が柔らかく揺れ始めた。
「……ならば、始めよう。お主の二年間の修行を」
することは至ってシンプルだった。
――先生に言われた通りの訓練メニューを繰り返すだけ。
筋トレ各種一万回。
魔力量の強化訓練は週三回。
基礎体力づくりとしての走り込みは週一回。
今使える魔法の練習が週二回。
そして集中力を高めるための精神訓練が週一回。
これらを、ただ淡々と繰り返す。それが最初の一ヶ月の修行だった。
……だが、そこには思わぬ落とし穴があった。
この神の世界は「現世とは時間の流れが違う」と聞いてはいたが、成長の速度まで違うとは知らなかった。努力すればその分だけすぐに強くなれる――そんな期待は、最初の数日で打ち砕かれた。
何度筋トレをしても、魔法を練習しても、目に見える成果が出ない。身体も心も、焦りと苛立ちに包まれていく。
「……本当に、これで意味あるのかな……」
正直、早く出たかった。現世に戻りたかった。だが、訓練を始めてから一ヶ月が経ったある日、神に言われた。
「ふむ……現世では、まだ一ヶ月も経っとらんのう。せいぜい三分の一、というところか」
その言葉に、セイジュは愕然とした。自分では必死にやってきたつもりだった。しかし、時間の感覚も、成果のスピードも、現世とはまるで違う世界で――まだ何も成し遂げていなかったのだ。
それでも、セイジュは諦めなかった。
明くる日も、また明くる日も、黙々と訓練に励んだ。成果が見えなくても、意味があるのか分からなくても、ただひたすらに前を向いた。
そうして気づけば、動きは鋭くなり、魔力の巡りもよくなり、集中力も以前よりずっと高まっていた。目に見えぬ成長が、少しずつ、確かに積み重なっていた。
――やってきた訓練は、無駄じゃなかった。
そのことを実感できたのは、ちょうど一ヶ月が経ったときだった。
「あと三年……修行を続ければ、ようやく“二年分”の成果を得られるじゃろう」
神は静かに言った。
「現世の時間は止めてある。だから安心して修行に励めばよい。ただし――三年以上、この世界にお主を留めることはできぬ。限界は三年。それを超えれば、魂の均衡が崩れる」
セイジュは深く頷いた。
「……わかりました。三年、ギリギリまで修行させてください」
神は満足げに微笑むと、金色の霧とともに姿を消した。
こうして、セイジュの長い修行が始まった。
来る日も来る日も、筋肉が悲鳴を上げるほどの筋トレ。魔力の流れを読み、練り、制御し、精神を研ぎ澄ませて魔法の質を高める。何百、何千、何万という反復訓練が日課となった。
やがて三年が経った。
その姿は、まるで別人だった。
体格は引き締まり、魔力は澄み渡り、視線には迷いがなかった。まだ年齢は四歳の少年であるにもかかわらず、精神には歴戦の戦士のような気品と落ち着きが宿っていた。
そして、約束の時が来た。
神が現れ、セイジュを元の世界へと送り返す。
眩い光に包まれ――セイジュが目を覚ました時、目の前にいたのは、今にも命が尽きそうな両親と、重厚な装束を纏った国王だった。
「……セイジュ……セイジュッ!」
母セレナの声が震えた。涙をぽろぽろと流しながら、ベッドに縋りつく。
「おかえりなさい……本当に、よく……」
その隣で、父レオンも目を真っ赤にしていた。普段は強く無口な男が、いまはその肩を震わせていた。
「セイジュ……無事で……よかった……!」
セイジュはゆっくりと微笑み、かすれた声で答えた。
「……ごめんね。急に寝込んじゃって……でも、もう大丈夫だよ」
国王は深く息を吐き、セイジュの額に手を当てて確認すると、安堵の表情を浮かべた。
「……よくぞ戻ってきてくれた。お主が目を覚まさなければ、国すら動かす覚悟でいたところじゃった」
それを聞いてセレナが微笑む。
「ねぇセイジュ、先生には手紙を送っておいたから、少しの間、旅に出ない? 四歳のお誕生日のお祝いもかねて……お父さんとお母さんと、一緒に」
セイジュは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑って、頷いた。
「うん。行こう……ありがとう。僕、ほんとに……うれしい」
こうして、セイジュと両親の旅が始まった。
それは、修行の果てに手にした――何よりも尊く、温かい、かけがえのない時間だった。