6 花恋館
翌日は月曜日、陽介はいつも通り出社した。週末に色々起こったが、陽介はそれを一旦忘れて仕事に専念した。退勤30分前に、陽介は次のイベントの企画書を完成して上司に送った。10分後、いつも通りOKという返事が来た。これで準備万全、後はプログラム部とアート部の同僚との打ち合わせだが、今日はもう間に合わない。陽介はイヤホンをつけ、音楽を聴いて退勤前の暇を潰した。
退勤時間になると、陽介はイヤホンを外した途端、後ろから美星杏の声が響いた。「陽介~君」
「あぁ、杏ちゃん、来たか、じゃあ行こう。場所は分かるか」
「うん、調べておいたの」
「やはり杏ちゃんは頼もしいな、じゃあ案内頼むぞ」
「まっかせて」
話している間、陽介は持ち物を片付けた。そして二人は打刻して会社の扉を出た。
10分ぐらい歩いて、二人は高いビルの前に着いた。
「はい、ここの6階よ」と、杏が言った。
陽介は頭を上げて見ると、やはりビル外壁に剣道場の看板がある。そこに書いている道場の名前は「花恋館」だ。
この名前を見て、陽介は眉をひそめた。「なんだこの名前は」
杏は即座に応じた。「はいそれをツッコんでくると思っていたわ。でも私には素敵な名前だと思うよ」
「確かに素敵だけど、剣道らしくないというか…まあとにかく行ってみよう」
ちょうどエレベーターが来て、二人はそれに乗って6階に着き。エレベーターを出ると、すぐに花恋館の入口を見た。
入ると玄関に着き、少し前のところは道場の入口、そこに並んでいる靴の数から見ると、人は多くない。二人が入るのを見て、師範に見える三十代の男は道場の入口まで歩いて、道場に向かって礼をしてから、入口を出て迎えに来た。「いらっしゃいませ、お二人は剣道に興味ありますか」
杏は答えた。「はい、入会希望です」
男は言った。「ありがとうございます。会費は毎月3千円になりますが、年払いなら3万円になります。そして指導をご希望するなら、月謝は毎月4千円になります。あっ自己紹介遅れました、俺はこの花恋館の師範、上泉長綱と申します、剣道六段です」
「段位も名前もすごいですね」と、陽介は言った。
「はは、よく言われます。うちの両親も剣道家ですからね」と、上泉は言った。
杏は陽介を見て言った。「陽介はどう思う?入会する?」
陽介は言った。「いいと思うけど、とりあえず一ヶ月入会してみようか」
「じゃあ決まりだね」と、杏は上泉に言った。「ではまずは一ヶ月でお願いします」
「ありがとうございます、こちらへどうぞ」と、上泉は言った。
二人が会費を払って名前を登録したら、入会の手続きは終わった。
上泉は二人の名前を見て言った。「琴月陽介さんと、美星杏さんですね。今日は二人とも竹刀と防具を持っていないので、まずはそれを用意しましょう。入会期限は今度稽古に来る日から起算するから、急がなくていいですよ」
「本当?ありがとうございます。後、杏と陽介で呼んでいいよ」と、杏は言った。
「分かった。ちなみに、お二人は剣道を習ったことがありますか」と、上泉は聞いた。
「僕は高校と大学の頃習ったことがあって、今は初段です」と、陽介は答えた。
「私は完全初心者です。指導を受けた方がいいかな?」と、杏は言った。
上泉は言った。「それなら、杏ちゃんはまずは陽介君に指導をお願いしましょう。それならお金がかからないし、二人で稽古した方が楽しいでしょう」
「はい、私もその方がいいと思う」と言って、杏は陽介を見た。「どうですか、師匠様?」
「初段までなら別にいいけど、師匠と呼ぶな」と、陽介は答えた。
上泉はまた言った。「そうだ、武道具店ならこの階に一軒ある、値段が高くないし品質もなかなかだ」
「ありがとう、じゃあ早速行ってみない?」と、杏は陽介に聞いた。
「いやその前に、剣道とは関係ないけど、一つ上泉さんに聞きたいことがあります」と、陽介は上泉を見て言った。「上泉さんは、花恋民でしたか」
上泉は驚いたようだった。「えっ、そうだけど…まさかお前も?」
陽介は頷いた。「やはりね、この剣道場の名前を見た時思っていた」
上泉は言った。「でも先程の話、ちょっと間違っているよ。俺は花恋民『だった』じゃない、今でも花恋民だからね」
陽介は言った。「でも彼女はとっくに卒業したのでは」
上泉は言った。「花殺ちんが卒業したって、俺の愛はまだ死んでいない、今でも復活を待っているのだ。そうだ、実は俺は花殺ちんのファングループに入ったのだ。せっかくだから、君も入会したらどうだ、もちろんこっちは無料だ」
陽介は答えた。「そうですね、誘ってくれてありがとう、ちょっと考えさせてね」
杏は口を挟んだ。「あの、先から何の話をしてるの」
陽介は説明した。「別に大したことじゃないさ。数年前に、花殺という、めっちゃ大人気のVTuberがいる、彼女のファンネームは『花恋民』だ」
杏は言った。「へえ、剣道家もVTuberを観るのだ、しかもそのファンネームを道場の名前に使うなんて、よほどの大ファンだね。あっ、もちろん悪いとかじゃなくて―」
上泉は笑った。「ははは、大丈夫だ。我ながらちょっとおかしいとは思っているよ」
陽介は杏に言った。「では竹刀と防具を見に行こうか」
杏は頷いた。「うん、じゃあまたね、上泉さん」
「あぁ、またのお越し、待っていますよ」
二人が道場を出ると、杏は陽介に聞いた。「ところで陽介、上泉さんの段位も名前もすごいって言ったな、それはどういうなの?」
陽介は答えた。「剣道の段位をもらうのに修行の年数が必要だ。彼の歳でもらえる段位は、恐らく六段が最も高い。名前なら、伝説の剣聖、上泉信綱の名前とはたった一文字違いだからね」
「へえ、そうなんだ」
二人は武道具店で1時間費やした。杏は竹刀と防具を一々手に取って、陽介に使い道を聞き、陽介は倦むことなく一々説明した。最後は一人ずつ竹刀一本、竹刀袋一つ、剣道着一着買った。
「防具は要らないの」と杏が聞いたら、陽介は答えた。「まずは構えと足捌きの稽古、打ち合いは暫くはしないから、その時また買おう。お前がその前に諦めたら、お金の無駄遣いになる」
「諦めないし」
二人が武道具店から出た時、外は既に暗くなった。
杏は言った。「今日は付き合ってくれてありがとう。晩ご飯でも食べて帰ろう?私が奢るから」
「えぇ、奢るか、いやあそりゃ悪いだろう」
「いいのいいの、ご遠慮なく」
「よしじゃ寿司が食べたい」
「やっぱり遠慮しろ」
結局二人は2階の牛丼屋で晩ご飯を済ませた。
二人が階段を下りて1階に戻ると、杏は言った。「あんたんちどこ」
陽介は会社の方を指差した。「あっち」
杏は反対側を指差した。「私はあっち、じゃあここでお別れね。今度いつ稽古に行く?明日?」
陽介は言った。「悪い、明日は用事があるんだ。明後日ならどうだ」
杏は頷いた。「うん、いいよ。じゃあ帰るわ、バイバイ」
「あぁ、また明日」
陽介はまず会社に寄って、自分の座席に先程買った竹刀と剣道着を置いた。家に着いたら、パソコンを起動しながら、花殺のフィギュアに声をかけてみた。「おい、いるか」
返事はなかった。
陽介はDDsiteに入り、新しい投稿を見たら、鮫姫珊瑚からの投稿はなかった。前の投稿をもう一度見たら、コメント数がたくさん増えた。陽介は見なくても、殆どが悪口だと分かっている。
鮫姫珊瑚は今日も配信予定はないが、明日はある。それを観るのが、杏に言った明日の用事だ。