天の限りを
随分と昔の話になるが、その世界で魔法が発見されたのは約1000年前のことになる。帝国の前身となる旧王朝で勇者リーラが大精霊との対話に成功したのが、その始まり。以後は北から南へとゆっくり魔法技術が進展し、ファンタジックな世界に至るという。
そして随分な話になるが、その世界に魔法があると気付いたのは三日前になる。誰かは無論言うまでもなく、最近どうにも愛しい妹から芳しい臭いがすると御姉様が気付かれたのがその始まり。動物達も越冬の準備に入る寒空の下、湖畔に叩き込まれて現在に至ると。
「あねご、寒い」
「喧しい!あんた何日体を清めてないのよ!?」
「いつか」
「五日!?いま五日って言った!?」
「“いつか”洗おうと思ってたら」
明後日が先週になり、先週も半月に変わり。いつかいつかと過ぎて行く世の無常なることを嘆いている内に一月が経ち、気付けば某教授のアパートの前に立っていたと。
「ストップ。一月も水浴びすらしない状態でイェーリング教授に会いに行ったの?」
今明かされる衝撃の事実。
「ん。最初は物凄く嫌そうな顔されたけど」
「当たり前でしょうが!寧ろ家に上げてくれただけでも奇跡的よ!」
「んで直ぐにバスルームに連れ込まれて、たわしで洗われた」
曰く。積年の恨みのごとく溜まった垢がヘドロのように落ちていくその光景は、引っ越ししようとケツイに満たされる程の禍々しさだったという。
「教授、泣いてた」
「当たり前でしょうが……」
「こんな炭坑夫よりも酷い状況に幼い子供が晒されているとは。我が身の至らなさを恥じるばかりだって」
「なんて酷い誤解なの」
「もし良ければ御家族と一緒に帝都に来ないか?生活の面倒なら私が背負うから」
そんな人の好さに付け込んだのが現状と。全てを土壇場で聞かされた御姉様の心情やいかにと語ったアルベラの頭に拳骨が落とされた。
「あねご、痛い」
「痛い、じゃないでしょ!?どうするのよ!?完全に詐欺じゃない!」
「その話は断ったから無問題」
「へ?」
と、皆さんお忘れかもしれない彼女の姉の名前、ラスティリャの目が丸くなった。
「そう、なの?」
「流石にバレた後の危険性が高すぎるから、誤解だけは解いておいた」
「だけは?」
「だけは」
「大丈夫なんでしょうね?」
「私だけは」
「おい待て」
という日課の後、改めて事情を説明。あくまで、キチの方はイェーリング教授の弟子として、マトモな方はハウスキーパー――要は出稼ぎ人として帝都に向かってるとのこと。
「住み込みメイドってこと?」
「ん。住所と働き先が決まってる方が何かと都合がいいから」
曰く、職を求めて帝都を訪れる者も決して少なくなく。そういう就職難民にも帝都の門は開かれているが、定住しようとなると審査がどうしても厳しくなるとのこと。その際に先程の二つが決まっていると、少なくとも書類審査に関してだけは通りやすくなると語った当の本人の人格が破綻しているので結果はイーブンだという。
「なんでイーブンにまで押し戻してるのよ……?」
もう疲れたよと言いたげな声で独り言のように呟く。
やがて落ち行く日の光。煌々と湖畔に映る月の影、人の業は日輪の内に燃え盛る。最初は奇跡と祈り込め、そうあれかしと願われた魔法も人の業と。そう成り果てる迄に、然程の歴史はいらなかった。
単純明快、汝の隣人が障害になるだけで奇跡の魔法も殺人道具に成り下がる。それを、例えばとある先人は「魔法から愛が消える」と表現し。また彼女も、奇しくも同じ結論に至った。
「愛が無い?」
そう荷馬車に揺れながら彼女が尋ね返した。
「ん。例えば利益の為に井戸を掘れば、そこに集う人もそれを目的とした人ばかりになる。心という作為が行為に特定の性質を与えてしまうため。それは、魔法もしかり。人を慈しむことを忘れた魔法に、人は救えない」
より詳しく言うならと、付け加える。あらゆる行為の性質は無であるが、そこに私心が混じることで特定の性質を帯びる。それは意図であり、利であり、即ちマナスによるものである。性質を帯びた行為は常に何かを求めてやまない。
故に、行為は無償の愛によるものでなければならないと。自らの為に料理をし、それを貪る者は結局のところ罪を得るに他ならず。利を追求した時、まず無償が否定され、無償でない以上愛も消える。残されるのは作為という性質だけだと、彼女はそう語った。
「あら、心から生ずるなら無償だって作為ではないの?」
「作為ならば行為に性質を与えてしまうんじゃないの?」
簪から本来の姿に戻った花の妖精二人が、そう笑いながら彼女の回りを飛ぶ。
「心とは願うもの。なら無償の愛は心からは生じない」
「ならば愛とはどこから生じるの?」
「何が愛を生じさせるの?」
「愛とは個我そのもの。個我が不生のものである以上、愛が生まれることはあり得ず。しかして滅びることもまた無い不滅のもの」
故に愛は不生不滅であり、それを通じて自身を知ることが輪廻する業の世における唯一の手段であるという話を延々と聞かされた姉の精神は既に限界に達しており。次の宿場町に着く頃には頭がいい感じに茹で上がっていたという。
「ベッド……柔らかベッド……」
とヴァタリンなゾンビスタイルでベッドにルパンダイブする。
「あねご、そんなに疲れてたの?」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
「気のせい?」
「あんたのせいよ!」
クワッと吠えた姉をスルーした妹は、食堂で何か貰ってくると言って消えて行き。残されたのは姉の方と、先ほどから妹様と禅問答を繰り返していた可愛らしい妖精二人組。
「大変ね、あなた達も……」
その、同情と労いが込められた言葉に、花の妖精は楽しそうに光の尾を曳きながら飛び回った。
「そんなこと無いわ。あの子は楽しいもの」
「そんなこと無いわ。あの子は優しいもの」
「頭もいいしね」
「顔もいいしね」
ねー?とキャッキャッ笑うその二人に、姉も頬を緩めた。
「ねぇ、姿を見せてくれたついでに一つだけ質問していいかしら」
「いいよ。一つだけね?」
「ニシキとゴコウで一つずつ。二つだけ答えてあげる」
あら。と、伝え聞いていたよりも遥かに人懐っこい性格に声が漏れる。
「最初は何を聞きたい?ニシキが答えてあげる」
「あげる~」
そう楽しげに部屋の中を飛び回る二人に尋ねられたのはアルベラとの関係性だった。
「関係性?」
「せー?」
「んんとね。つまり、あなた達はあの子と契約したの?」
「私はしてないわね。ゴコウ、あなたは?」
「私もしてないね。なら、私達は付きまとっているだけね」
お邪魔虫~と、蝶のように舞い光の粉を撒き散らすその姿は紛れもなく蛾のようであり。そんな誰にも言えない想いを抱えました姉は、誰にも気付かれない程の僅かな所作で胸を撫で下ろし、誰にも気付かれない程の胸しかないアレは食堂の方でナンパ男に怪しげな説教を説き始めていたという。
「故に無償なる愛はまた不垢にして不浄であると同時に、愛である個我がそれ以上でもそれ以下の物でもない為に不増不減なるものである。愛が最高の存在と同一視されるのもこれが所以であり、その本質は空にして――」
「すんません。もう勘弁してください」
と割りとイケメン風な男が逃げて行ったのも夜中過ぎ。性格が最高の男避けという最悪な彼女も時間の流れには逆らわず。厨房の火が落ちて、そろそろ部屋に戻ろうとパンと肉切れを片手に扉の前に立った時のこと。
薄い板の向こう、姉と妖精達の声が漏れ聞こえてきた。
“仕方ないわ。みんな私達を見ることを忘れてしまったもの”
“仕方ないわ。みんな私達のいる場所を忘れてしまったもの”
“それが……妖精魔法が失われた理由なの?”
そう、いつになく聞いたことの無い震えた姉の声が聞こえた。夜の帳、幕開けず。開けぬ夜の扉の前、いずれの日にか、全ては白日の下に語られる。
“私達は鏡よ”
“私達は標よ”
“私達を忘れたものは己を省みることがない。故に醜悪となるわ”
“自身の存在の在処を知ることもない。故に永劫の時をさ迷うわ”
曰く、醜悪なる者は美に焦がれることは有れども決して至らず。自身の所在を訊ねぬ者は決して光に辿り着けず。その間に失われた魔法は枚挙に暇が無く、今や現世は醜悪な者達が宛ど無くさ迷う地獄と化した……と。
※
帝都は目と鼻のすぐ先にあった。また来いよ、二度と来るなよ等々。多種多様な別れ言葉を風に帆を孕ませて旅出たのは早朝、昼頃には既に門の前に並んでいた。
御者の親父曰く、元々帝都周辺に宿場町など無かったらしい。それが、帝都の高すぎる宿代に道端でキャンプファイヤーをキメる商人達を見かねて開拓が始まったのが事の起こり。結果、30余の大規模な宿場町郡が出来上がったとのこと。
ただ、道中には様々な艱難辛苦があったらしい。ある時は風が吹き、ある時は雨が降り、またある時は宿場町の国有化を騒ぎだした大蔵大臣の首が跳んだり。そんな跳んだ跳ねたの紆余曲折の果てに出来上がった町には、帝都に勝るとも劣らない数々の観光名所が生まれたとのこと。
「えー。右手に見えます御池は、跳ばされた大臣の首が発見された通称“首無し沼”にござい」
「物理的に跳ばされたの!?」
という一幕。他にも首を括った商人様が発見されたお屋敷、遺産相続に巻き込まれた伯爵令嬢の首がオーブンの中からコンガリ出てきたレストラン、使用人を首にした地主様が首だけになって発見されたという八墓村こと旧農園等々。まさに首ったけな観光名所が目白押しと語ったアヤツの目は、それはもう大層輝いていたという。
「なんでアンタはちょっと嬉しそうなのよ……」
「とてつもないシンパシーを感じたので」
経験者はかく語りき。ともあれともあれ、そんな心霊スポット郡を抜けた先に帝都はあった。
「これが……てい、と……」
思わず。息すらも飲み込まれたような、唖然とした声が姉の口から漏れる。それほどに、帝都は広大だった。
右に見える緑の丘。燃ゆる日の、萌ゆる草の芽の絶ゆるを知らず。青々と繁りたるや萌え草の、ざわめきたる潮の音や、遥かに遠く。波の音や、遥かに遠く。広がりたる町景色、唄う童の音の如く。鮮やかに広がりたる、空の青。広がりし海の、いかに穏やかなるや。たおやかなる緑の青の、いかに青きなるか。
あえかなる人の住みたる、いかに優しき国なるかな。
そんな詩人の詩と共に語り広められた帝都の情景は、音に聞く物で。呆けている間に愛しき妹の手に引かれて踏み入れたその街並みは、聞きしに勝る物だった。
人が笑っている。エルフが笑っている。ドワーフが笑っている。ホビットが笑っている。同じテーブルを囲んで。別々の酒を片手に、誰もが楽しそうに笑っている。
誰しもが一度は見た、夢。それは子供の描くような、あどけない微笑みの中にあるような優しく、決して叶わない幻に似ていて。故に、迫害の酷い国から逃げ出してきた人ほど、その光景に衝撃を受けるという。
「あねご、どした?」
「ちょっと感動しちゃって。そう言うアルベラは大して驚かないのね」
ん。と、頷く。
「来るのは二度目だから」
だから、彼女が。初めて見せたその涙は、笑顔は、また、描かれることはない。