木下一哉の世界
僕は子供にしては周囲と比較してかなり早熟な子供だったと思う。
大人が「何歳になったの?」としか聞けない変な生き物だと3歳にして気付いた。
1~200まで数を数えるのは、保育園時代から出来た。
国語の教科書を読まされても、一度もつかえることはなかった。
算数の計算は間違える事など無く、間違えるほうがおかしいとすら思っていた。
一度聞いた話の内容は、いつまでも記憶に残っていた。
児童文学作品に飽き、両親が持っている大人が読むような小説に嵌ったのは小3の頃だった。
赤毛のアンに嵌った。全10冊。読み切るまでに1か月程かかったが、2周目は20日程で読み切れた。
アン・シャーリーにマジでガチに惚れた。初恋かもしれないと思った。
小学生のくせに哲学に嵌った。ソクラテス、アリストテレス、プラトンなど、古い時代ほど理解しやすい。
そして、ダーウィン、カント、フロイトなど、新しい時代は分かりにくいと思った。
宇宙の誕生に興味を持った。ビックバン、スーパーノヴァ、ワームホール。
人間の生の営みなど、小さなものだと考えるようになった。
小5の頃だったか、将来哲学者になりたいと作文に書いたら、先生は感心してくれたが、両親には反対された。
哲学ではお金は稼げないらしい。とても残念に思った。
走ることが大好きだった。
写真を撮るのが好きだった。
朝焼けや夕焼けを見るのが好きだった。
我が家では雑種犬「ジョリィ」という白毛の老犬を飼っていた。
大型だったから散歩はさせてもらえていなかった。
5年生になって「ジョリィ」に負けないくらいの力が付いた。
だから散歩の役割を僕がしたいとずっと思っていた。
許可をもらえて嬉しかった。
毎朝、毎晩、カメラをもって「ジョリィ」と走った。
朝は岩丸川の土手の遊歩道を北に4キロほど一直線に走り、少しだけ上り坂になっている頂上で止まる。
西に、朝日を受けくっきりと見える美しい岩丸山をカメラに収める。
晩は岩丸川の土手を南に走り、五条橋から岩丸川を渡り、岩丸山方向へ走る。ただし、ここからは車も通る一般道だから、ダッシュはできない。歩く、時々走る。
しばらく歩けば笹森山という、山と呼ぶにはチンケだが、旧日本軍の駐屯地跡があり、いまは給水塔がそびえたつ絶景ポイントがある。
ここで僕は「ジョリィ」の首輪からリードを外し、彼女に自由を与える。
自由。僕は、ジョリィに自由を与える瞬間が大好きだった。ジョリィが自由でいる様子を見るのが大好きだった。
はしゃぐジョリィを写真に収める。
住宅が立ち並ぶ自宅周辺は、犬には不自由な世界だと感じていた。
自由に走り回るジョリィの様子を見て、ぼくもこの瞬間だけは自由なのだと思った。
中学生になった。
スマホを買ってもらった。
月1ギガの格安シムだが、何の問題もなかった。
カメラを持たなくても写真を撮れる。それだけで大満足だった。
2年生になった。
ジョリィが走れなくなった。
ぼくは14歳でも、ジョリィは18歳。もう寿命が近いそうだ。
僕も18歳で死んでもいいと心から思った。
やがて、散歩はできなくなった。
毎朝、毎晩、わしゃわしゃと撫でまわした。
ある日学校から帰ると、ジョリィは息絶えていた。
悲しくて泣いた。
そういえば今までに泣いた記憶など無かった。
朝と晩が、退屈な時間になった。
今まで断っていた、クラスメイトからの誘いに応じるようになった。
急に友人が増えた。
ある日、クラスの女子に呼び出された。
告白をされた。
特別好きな子というわけではなかったが、別に好きな子がいたわけでもない。
ぼくは、軽い気持ちでそれを受け入れた。
夕方、綺麗な景色がみられる良い場所があるから一度一緒に見に行かないかと言いかけた瞬間、
5~6人の女子が一気に押し寄せ、取り囲まれた。
突然だった。
馬鹿にされた。
罵られた。
気持ち悪いと言われた。
調子に乗るなと言われた。
小学生の頃から友達がいない奴。
頭がいいからと人を馬鹿にしている奴。
急に付き合いがよくなって変な気持ち悪い奴。
チビのくせに体鍛えてるっぽい変な奴。
気持ち悪い顔で笑う奴。
急に調子に乗ってるブサイク。
勉強で学力を鍛えても。
走って体力を鍛えても。
本を読んで知識を貯えても。
考えて知恵を磨いても。
僕には圧倒的に足りない部分があった。
人間関係の経験。
わかっていなかった。
個人の女子と。
集団の女子の違い。
集団の持つ力と恐ろしさ。
僕には。
現実の女子とのかかわりがなかった。
思えば、ただの一度もなかった。
今まで一度も。
馬鹿にされた事など無かった。
揶揄われた事など無かった。
怒られた経験は少なかった。
だってぼくはずっと良い子だったから。
だからなのか。
ぼくは。
誰よりも。
こんな腐った女子たちよりも。
圧倒的に。
心が弱いのだと理解した。
やがて、ぼくは目を覚ました。
白い世界に、草野が見えた。