06:嘘だろ?
「なんとか連れてこられたけど、間に合うかなぁ」
部屋の壁にもたれかかり、ジークが一人ごちる。
王子の去った奥の扉と柱時計を交互に眺め、そわそわと足を揺らしていた。貧乏ゆすりなどみっともないが、これからのことを考えると、どうしても落ち着いていられない。これから王の謁見が控えているのだ。
約束の刻限までもう間がない。国のお歴々を待たせようものなら、王子の評判がまた落ちてしまう。従者として、それは避けたいところだ。
とはいえ、二つ名に「無気力」を冠する彼の王子の評価など、すでにないものと同じなのであるが。
それがジークには面白くない。
(まったく、びっくりさせるよなぁ)
夕刻にジークが部屋を訪れた時には、王子の姿はすでになかった。傍に控えていたはずのルーシーも、王子がいなくなったことに全く気付いていなかった。
まさか誘拐!?
そう思い、慌ててグレアムに泣きついたのであるが、彼の調べによると、どうやらその可能性は薄いとのことだった。
おそらく変装し、商人の使う勝手口辺りから抜け出したのだろうというのが彼の見立てだ。
とすれば、王子は自分の意思でこの城を出て行ったことになる。あの王子が!
(そういやさっきも、なんだか様子がおかしかったし、何かあったのかな)
ジークが「無気力王子」こと、リザヴェール王国の第二王子であるフィリップに使え始めて六年になるが、王子があんな大声で叫んだことなど、これまで一度もなかった。
遅れてきた反抗期か、それとも何か他に理由があるのか。
事情はどうあれ、自意識が芽生えてきたのはいい傾向だ。とはいえ――。
(……情けないな)
あんなにお傍に仕えていながら、出奔するほど思いつめた主に気付いてやれなかったとは。
いつもどこか虚空を見つめて、掴みどころのないお人であったが、なんとかフィリップのお心に沿おうと努力してきたつもりだった。しかしそれは、形ばかりのものであったということだ。
(そんなことだから、いつまでたっても名前すら覚えてもらえないんだ)
物思いに沈んでいたジークは、奥の扉が開いた音で我に返った。
静かに、しかし足早にルーシーがこちらにやってくる。
「ん、準備はすんだの……か?」
うつむいていたルーシーが、いきなり胸ぐらに掴みかかった。シャツを掴む手に力を込めて、ジークに能面のような顔を近寄せる。
「ジーク様、ちょっとお話よろしいでしょうか」
見開いた眼が剣呑すぎて、正直怖い。が、気心の知れたこの侍女の、ジークへの対応がいろいろ酷いのは、今に始まったことではない。
「おいおい、ルーシーどうしたんだよ」
やんわりと拳をほどき取り成してみるが、表情筋が死んでいるはずの彼女の眉がほんの少しだけ歪んでいるのを認めて、どうやらただ事ではないことを悟る。
「貴方一体、誰をお連れになったのですか」
「誰って、王子に決まってるじゃないか」
「フィリップ王子は男性にございます」
(何をあたりまえのことを)
フィリップは美貌の青年である。男性にしては華奢な体と、きめの細かい白い肌。蜂蜜色の前髪から覗く形のよい眉。瞳を彩る濃い睫。ぴんと通った鼻筋。物憂げに開いた唇と、焦点の定まらない胡乱な紫瞳が神秘的でたまらない――などと、浮ついたことを言う女が絶えないくらいには。
しかし、いくら見目が麗しくとも、ついてるもんはついている。
「ですから、あの方は別人です」
ルーシーは相変わらずの無表情である。両の手をワキワキと動かしながらジークにきっぱりと言い切った。
「だってお胸がございます」
ついちゃいけないのがついていた。
ザッと血の気が引くのがわかって、ジークは「ハハハ」と力なく笑った。
「……嘘だろ?」