37:王子様の帰宅
ルーシーはそわりと、時計を見上げる。
時刻は五時を過ぎたばかり。ついで窓に目を向けると、窓の外はすっかり菫色に染まっていた。日が暮れるのもだいぶ早くなってきた。
そろそろクレオたちが視察から帰ってくる時間だ。
そばだてていた耳に廊下を蹴る靴音が聞こえてきて、ルーシーはぴしりと姿勢を正す。
キイッと入口の扉が開いて、真っ白なジュストコールを身に纏うクレオがすまし顔で部屋へと足を踏み入れた。その後にジークが続く。
「おかえりなさいませ」
ルーシーが慇懃に頭を下げる。
「……はあぁ、ルーシーただいまぁ」
扉が閉まる音と共にあがる気の抜けた声。ルーシーが頭をあげたときには、クレオはくたりとベッドの上に倒れ込んでいた。
ジークが、仕方ないなとでもいうように眉を顰める。
「こら、行儀が悪いぞ」
「そんなこと言わないでちょっとだけ休ませてよぉ」
ベットのシーツに埋もれながら、クレオがもぐもぐと情けない声をあげる。初めての公務で気が張っていただけに、疲れもひとしおなのだろう。
「クレオ様、お風呂をご準備しておりましたが、お入りになられますか?」
そう声をかけると、クレオがガバッと勢いよく飛び起きた。
「入るー! さすがはルーシー」
「今日はとくにお疲れのご様子ですので、よろしければバスルームでマッサージなどはいかがでしょう」
元気よく腕を上げていたクレオの紫瞳が、思案するようにくるりと回る。
クレオはお風呂にいつも一人で入りたがる。これまで平民としてすごしてきた彼女にとっては敷居の高い習慣なのだろう。
しかし、お傍仕えの身としては介添えも立派な仕事であるので、いくら主人の願いであろうと気安くうなづくわけにはいかない。だからこうやってあの手この手で毎日声をかけているのだが、付き添わせてもらえるのは三日にいっぺんくらいだ。どうやら今日は、そのいっぺんの日であるらしい。
長いまつげがパチリと揺れて、申し訳なさそうにルーシーを見上げる。
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
クレオを動物に例えるなら、きっと猫だ。
気品にあふれ、どこか近寄りがたい雰囲気のある美麗な猫。気高く警戒心の強そうなその猫が今、甘えたような仕草で無防備にルーシーだけを見つめている。
(んんっ……!!)
絶えず平常を保ち微動だにしないはずの己の表情筋がくにゃりと緩むのを感じて、ルーシーは迷わず天井を見上げた。
クレオが自分たちを気が置けない仲間だと認めてくれたのは喜ばしいことだ。喜ばしいことなのだが。
(この上目遣いは、ダメだ)
いかんせん、破壊力がありすぎる。ルーシーでなければ、心の臓を射抜かれてきっと倒れていたことだろう。事実、射抜かれて再起不能に陥った侍女たちを何人も目の当たりにしている。堪えた自分を褒めてやりたい。
(アドバイスすることがもう一つ増えてしまった)
大きく深呼吸して体裁をと問えるとクレオと向き合う。
「もちろんでございます」
いつものように慇懃に頭を下げる。
そうして、ルーシーがクレオを伴いバスルームへと姿を消した数刻後――中からけたたましい叫び声が響いた。
***
「ア――――――――ッ!」
自分の胸元を見つめ、クレオはありったけの大声をあげた。
きっつきつに締めあげられたコルセットの紐を緩めていたルーシーがギョッとしたような声をあげる。
「どうなさいました!?」
「どうかしたのか!?」
脱衣所の扉が勢いよく開き、慌てたジークも飛び込んでくる。
「ギャ――――――――ッ!!」
叫び声をあげるクレオの背後で、ルーシーが棚の壺をむんずと掴む。
足を上げ、大きく振りかぶった。
「ご退室願います!!」
放たれる剛速球をジークが顔面で受け止める。
辺りに白いカミツレの花弁が飛び散った。
***
「それで一体、なんの騒ぎだったんだ……ったた、ルーシー、もっと優しく」
椅子に座り込んだジークの鼻に、ルーシーが薬をぐりぐり塗りつける。
「主のドレッシングルームに押し入るようなまねをする従者に手加減の必要などあってたまりますか」
「でもそれは叫び声が……あっ痛ぅ!?」
ルーシーがぐりゅんっと指先に力を込めた。
「なんのために私がいるとお思いで?」
「申し訳ない俺が悪かった止めてくれこの通りだ」
涙目で謝るジークの鼻は、幸いなことにちょっぴり赤くなっただけですんだ。治療を終えた手を布で拭いながら、ルーシーがクレオを見やる。
「……もしや、失くされたのですか?」
ギクリと体を強ばらせ、シャツの胸元をギュッと強く握りしめる。
なにをとは言わないが、着替えを手伝うルーシーはクレオのペンダントの存在にどうやら気づいていたようだった。
そのペンダントが、今はどこにも見当たらない。
「失くした?」
聞き返すジークにクレオはコクンとうなづく。
どうやら初めから説明するしかなさそうだ。




