29:カサンドラ王女
気合十分で貴賓室の前まで来たものの――。
クレオは大きく目を見開くと、廊下の途中で思わず足を止めてしまった。
扉の前に立つ銀髪の男。
眼鏡の奥の細い瞳がジロリとこちらを見つめている。
(なんで……なんで、こんなところに)
「……王子?」
ジークの小声で我に返る。
「どうかしたのか?」
「な、なんでもない」
このまま廊下に留まっていては怪しまれてしまう。クレオは再び廊下を歩き始める。
ドクドクと早鐘を打つ心臓。
なんとか体裁を整えようと細く息を吐き出してみたが、胸の鼓動はますます速さを増していく。
貴賓室の扉は、もう目の前だ。
「フィリップ殿下、お待ちしておりました」
細い目をさらに細めて、眼鏡の男は口元に緩やかな笑みを浮かべる。
「わたくし、カサンドラ王女の執事を務めております、カミュ・クロイセンと申します」
名前を聞いたことで、疑念は確信に変わる。
間違いない、彼だ。
紅柘榴亭の使用人頭であり、クレオに商人のいろはを叩き込んだ心の師匠。
(生まれ故郷の国に帰るって……店をたたむって、そう言ってたはずなのに、それがどうしてお城にいるの? しかも王女の執事って、いったいどういうことなの)
頭の中でぐるぐるとそんなことを考えながら、胸に手をあて恭しく頭を下げる彼に、クレオはぎこちない笑みを浮かべる。
「さ、どうぞ中へ」
クレオに続いて入ろうとしたジークの前にカミュがすっと立ちふさがった。
「申し訳ございませんが、お連れ様は外でお待ちください」
「私は王子の護衛です」
「カサンドラ殿下はフィリップ殿下とお二人でのお茶会をご所望です」
「しかし!」
「なにとぞご容赦を」
ジークが詰め寄っても、カミュは穏やかな笑みを浮かべたまま一歩も引く様子をみせない。
(理由はわからないけれど、カミュは確かにここにいる。ということは、この中にいる彼女はつまり……)
ここが正念場ということか。ギュッと拳を握りしめる。
「……いいよ。私も王女と一度ゆっくり話がしたかったんだ」
私は大丈夫――そうジークに目配せをして、クレオは部屋に足を踏み入れる。
貴賓室の分厚い扉がギィッと重い音を立て閉じていく。
これで部屋には、王女とクレオの二人きり。
大きなガラス窓の前にカサンドラ王女が立っている。しなやかな体のラインを惹きたてる異国情緒溢れるドレス。小麦色に焼けた肌は長い船旅によるものなのだろか。腰まで伸びた見事な赤髪が、明るい陽の光を浴びて炎のように揺らめいている。
「ひさしぶりだね」
(ひさしぶり?)
カサンドラとフィリップは婚約者同士だ。面識があって当然かもしれないが、なにせ引きこもりの王子様のことである。顔合わせを済ませた、なんて話はジークからも聞いていない。
だとすれば、この挨拶はいったいどちらに対するものなのか。
「フィリップ・サンクトゥス・リザヴェールです。失礼ですが……貴女にお会いするのは、これが初めてだと思います。それにしても、私の婚約者がこんなにお美しい人だったなんて。もっと早くにお会いしたかった」
カサンドラ――紅柘榴亭の女主人キャシーは、クレオを見つめ、その目をゆっくり細めていく。
なんとも迫力のある、美女の微笑み。えも言われぬ緊張感で喉はすっかりカラカラだ。
「商売柄、ほうぼう走り回っているもんだから、立ち寄る暇もなくってね。……しかし、不思議だねえ。あんたを見てると、なんだか初めて会ったような気がしないんだ」
そりゃそうだ。四年も一緒に仕事をしてきた仲である。この顔に親しみだって湧くだろう。
それにしても、ここにいるのが誰であるのかお見通しとでもいうかのような、王族らしからぬ砕けた口調。もしかして正体なんて、もうとっくにバレているのではないだろうか。
そんな気がしないでもないが、たとえそうだとしてもオリヴィエとの約束がある以上、みすみす白状するわけにもいかない。
「いやだなぁ」
干からびた喉からなんとか声を絞り出し、クレオは無理やり笑って見せた。
「一体、誰と間違えたんですか? 婚約者としては、とても気になるのですが」
「知り合いの店子にとても似ている子がいてね……フフッ」
ふと思い出したように、キャシーが忍び笑いを零す。
「ど、どうかしましたか?」
「いやなに、ずいぶんおっちょこちょいな子だったなと思ってね」
「え」
「仕入れの数を0ひとつ書き間違えたり、青磁の古壷を箒で叩き割ったり、なかなかやらかしてくれたもんだよ……クククッ」
キャシーはそれからそれはそれは楽しそうに、愉快な店子の失敗談を語りだした。
「店に報告に来た船乗りをチンピラと勘違いして叩き出したときなんて、そりゃあ凄い騒ぎだったんだよ。女だてらに大立ち回りを演じて、止めに入った使用人頭をのしちまってさ――」
あまりにも臨場感あふれる話し方なので、うっかり昔に逆戻りしたような感覚に陥ってしまう。その後、たんこぶをつくったカミュにこっぴどく叱られて船乗りたちに平謝りしたことまで思い出して、頭を抱えたくなってしまった。
「はぁ、そんなことがあったんですね」
ぎこちかい笑顔で相槌をうつクレオを目の前に、キャシーの思い出話は止まらない。昔話を5つほど聞かされたところで、そろそろいたたまれくなってくる。
(あうう…もう勘弁してぇ)
知らん顔して聞いているのも限界だ。穴があったら入りたい!
「そうそう、いつだったかはバカみたいに高い香辛料が入った壷をひっくり返して」
「違います! あれはわざとじゃなくて……あ!」
思わず両手で口を押えたクレオだったが、もう遅い。
キャシーはニヤリと笑みを浮かべ「まぁ、座りなよ」と、クレオを席に促した。




