27:フィリップ王子の婚約者
その日、クレオは朝から講義のため王立図書館を訪れていた。
図書館にいくつかある小部屋の一室。そこで待っていたのは、本日の講師である宰相秘書官のシーラ女史。
王妃肝煎りの講師を迎え、座学はいよいよ第二段階に入ろうとしている。
「フィリップ様にはこれから、こちらに掲載されている貴族について全て暗記していただきます」
ずっしり重い貴族名鑑を受け取りながら、化粧っけのない顔をまじまじと見つめる。
「全てですか」
「全てです」
しっかりと頷く瓶底眼鏡の秘書官に、ほんの少しだけ気が遠くなってしまったクレオである。
「暗記するといっても、馴染の顔もありますでしょうし、私の講義はおさらいのつもりで気楽にお聞きいただければと――」
(気楽にねぇ)
年に一度リベリア国内の有名貴族を招いて行われる、王室主催の園遊会。
商売柄、顔と名前を覚えるのは得意な方だと自負している。
とはいえ、今回はフィリップの婚約発表も兼ねた盛大なもので、招待客は実に百数名に及ぶ。主要な人物を押さえただけでも数十名。
もしもの事態に備え、彼らの顔と名前だけでなく、経歴や人柄すべてを頭に叩き込まねばならない。はっきり言って無茶苦茶なのだが、残念ながらクレオはノーと言える立場にない。
「王宮では国王陛下の側近として、宰相オルドリッジ卿を初めとした貴族たちが政務を務めており、その中でも指折りの名家たちを十家紋と呼ぶのは王子もご存じの通りだと思います。またリザヴェール王国は、内海に面する王都を中心に大きく四つの地域に分けられ、それぞれの地を四つの公爵家が治めております。この四大公爵家と十家紋により国の均衡は保たれているのです。」
(早い早い早い早い)
王妃様直々のご指名とあって気負いもあるのか、まくしたてるように講じる秘書官。
「王子、聞いておりますか!?」
「聞いてます! 続けてください」
貴族名鑑を必死でめくりながら、クレオが応える。
「それではまずは四大公爵家の経歴について――」
「大変だぁ――――っ!!」
突如響きわたった大声にビクリと身を震わせて、クレオは飛び跳ねるように声の方角を振り返った。
勢いよく小部屋の扉を開け放ち、飛び込んできたのはジークである。
「王子王子王子王子――!」
「図書館ではお静かに!」
シーラの鋭い叱責が飛ぶ。
「申し訳ない! しかし火急の要件なのです。講義はまた後日という事で、失礼しますッ」
ジークは手短にそう伝えると、クレオを抱えて図書館の外へと連れ出した。
「そんなに慌ててどうかしたの!?」
クレオを小脇に抱えたままジークが小走りでかけていく。視線を上げると、斜め上にある顔が心無しか強ばっているのが見て取れた。
嫌な予感がする。
「来たぞ」
ぼそりとジークの声。クレオはこてんと首を傾げた。
「誰が?」
「君の婚約者」
カサンドラ・アラファート・クディチ。
海洋国家クディチの第三王女であり、フィリップ王子の婚約者。
クディチの開祖、海洋王として名高い祖父の血を色濃く継いだ凄腕の商人として名を馳せている。
王女が商団長を務めるアラファート商会といえば、商人であれば一度は耳にしたことのある大商会。
数多の商人、船員を束ね、自ら先頭に立って船を駆る破天荒なお姫様――そんな彼女を乗せたアラファート商会の交易船が、今朝がた港に着いたという。
***
「いくらなんでも急すぎるよ! まさかこんなに早く会うことになるなんて、心の準備が……」
思わずぼやくと、クレオにビロードのジュストコールを羽織らせながらルーシーが言った。
「他国での取引ついでに寄港されたようです。型破りな御方らしいですから、仕方ありません」
王女来城の報を受け、大急ぎで身支度を整える。カサンドラは王との謁見を早々に済ませ、フィリップが来るのを貴賓室で待っているらしい。
着慣れない長上着はなんだかモコモコして着心地が悪い。目端の効く相手だからこそ油断がならないと、体型をごまかせる厚手のものを着せられた。袖口に施された豪奢な金糸の刺繍を見つめて、ため息をつく。
「海を跨いで交易かぁ……」
なんと夢のあることか。商人の端くれとして憧れずにはいられない。
カサンドラという人はきっと、大空をはばたく海鳥のような人なのだろう。
「でも、そんなに凄い人なら別に結婚なんてしなくても、悠々自適に暮らしていけそうなもんだけど」
カサンドラは現在二十四歳。十六歳のフィリップとは八歳ほど年が離れている。
歳の差婚は貴族の間ではめずらしくもないとはいえ、女性のほうが年上という話はあまり聞かない。十八歳を過ぎると売れ残りの烙印を押されてしまう貴族令嬢としては異例といっていいだろう。
そもそも誰かに頼ることでしか生活できない彼女らとは違い、カサンドラは商人として自立している。結婚になど目もくれず、仕事に邁進する破天荒なお姫様のお相手が、当代きっての無気力王子だなんて、悪い冗談にもほどがある。
そんな結婚、王女の足枷にしかならないだろうに。




