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23:おてんば娘の帰宅

「へーっくしょい!」


 と、盛大なくしゃみ。


「どこぞの御令嬢にでも噂されましたか」


 声の方向を一瞥してルーシーが尋ねた。老若男女を誑し込む人たらしのスキルを大いに活用して、数多の女性と浮名を流す彼への、完全な嫌味である。


「だったら光栄なんだけどな。あいにくと、ただのくしゃみだ。外が案外、冷えてたんだよ」


 ジークはといえば、嫌味を嫌味とも思わぬように、平気な顔をして人差し指で鼻の下を擦っている。なんとも憎たらしい。


「先回りして戻って来たんだが、まだ鍛錬してるのかな、あいつら。あー、寒い」


 凍えるような仕草を見せるが同情などしない。未だクレオと顔を合わせようとしないジークの、完全なる自業自得だ。


「修練場の窓からデバガメなどしているからですよ」


 さも見て来たかのように言ってやると、図星だったのか、ジークがくしゃりと顔をしかめた。


「仕事だよ仕事! 責務を全うしろといったのはそっちだろう」


「こそこそ覗き見ることしかできずに、何が責務です。護衛騎士が聞いて呆れます」


「うぐっ」


「うぐっ、じゃありません。いいかげん腹を括ってクレオ様と向き合ってくださいませ」


 耳障りのいい言葉と、人懐っこい笑顔、泣き落としで人を丸め込むのを得意とする男である。

 たかが一人の町娘にここまで手をこまねくなんて、ジークにしては珍しいことだ。しかし珍しがってばかりもいられない。カサンドラ王女との婚姻を控えた大事な時期であるからこそ、当の王子が護衛騎士も連れないで出歩くなんて、本来あってはならないことだ。


 そんなことは、ジークだって重々承知しているはずなのだが。


「あのな、ルーシー。物事にはタイミングってものがあってだな」


「私の目にはとっくに逸したように見えるのですが」


「うぐぐっ」


「うぐぐっ、じゃありませ――」


 バタン! と勢いよく扉が開いてハッとする。

 ルーシーとしたことが、会話に気取られ部屋に近づく足音を聞き逃していた。

 慌てて出迎えの姿勢をとる。


「ただいまー!」


 と、元気なクレオの声。


「おかえりなさいませ」


 深々と下げた頭から、部屋の様子を覗うが、目の前にいたはずのジークの姿はどこにもない。どうやらまた逃げたらしい。


「お疲れさまでございました。今日の鍛錬はいかがでしたか?」


「うん、楽しかったよ! 今日はね、グレアムに一対複数の必勝法を教えてもらったんだけど、それがさ――」


 笑顔で話し出すクレオを眺め、ルーシーはほっとする。

 王妃の組んだぎゅう詰めのカリキュラム。愚痴もこぼさず、毎日真面目に取り組んではいるが、そろそろ限界なのではと心配していたのだ。


 そんな彼女の息抜きになればと認めた鍛錬であったが、どうやら良い指南役を見つけることができたようだ。楽しそうなその姿に、表情が薄いといわれるルーシーでさえ、思わず目を細めてしまう。


「それにしても、だーれも私を王子と信じて疑わないのにはビックリだね。私って、そんなにフィリップ殿下にそっくりなのかな?」


「……何かおありになったのですか?」


 改めてそんな疑問を口にするクレオを探るように見つめる。クレオはその言葉を待っていたように「実はね」と、輝く紫瞳でルーシーを見つめ返した。


「さっき、修練場にジェラルド殿下がお見えになってね」


「ジェラルド殿下が?」


 犬猿の仲と言われる兄王子がわざわざ弟の鍛錬を見に来るなど、一体どんな風の吹き回しか。もしや当てこすりにでもあったのだろうか。


「それでさ、なりゆきで手合わすることになっちゃって」


「手合わせ」


「なんとか勝負には勝てたんだけど」


「勝ったんですか!?」


「グレアムには無茶するなって怒られちゃった」


「当たり前です!」


 当てこすりどころの話ではなかった。ガチンコの体当たりだ。それにしても、士官学校時代から負けなしと言われたジェラルドと、手合わせとはいえ勝つなんて。

 いったいどんな手を使ったのか、考えるだけでも恐ろしい。


「それで、お怪我はなかったのですか?」


「ああ、平気、平気。ちょっと擦りむいただけだし」


「してるじゃありませんか! どこを擦りむいたのです。早くお見せください」


「大丈夫だってば。こんな掠り傷、ツバをつけとけばすぐに治るよ」


「とんでもございません!」


 間違ってもそんな手当てを許すわけにはいかない。


「今、薬箱をお持ちいたします」


「手当は後でいいよ。それより先にお風呂に入りたいんだけど」


「え」


 まずい。


「お湯の準備はしてあるんだよね? グレアムもジェラルド殿下も手加減なしだから、体中埃だらけで――」


 非常にまずい。


 ルーシーはもう一度、部屋に視線を走らせた。

 部屋にジークの姿はない。物陰に潜んでいる様子もない。部屋から出ていった様子もない。

 そんなふうに消去法で考えなくとも、慌てたジークが飛び込みそうな場所といえば――


「どうかしたの?」


「ああ、いえ、それよりも」


 ルーシーはクレオの肩をしっかり掴んで、どすんとベッドに座らせた。


「お風呂より、傷の手当てが先でございます」


 天蓋を素早く下ろすと、クレオの方を振り返る。


「私はこれから薬箱をとりに、少し席を外します。直ぐに戻りますので、クレオ様はここを離れないでください。特に風呂場には絶対に近づいてはなりませんよ」


「えっ、どうして?」


「どうしても」


 無表情なその顔をクレオにずいっと近づける。

 クレオはわずかに仰け反りながら、オウム返しで聞き返した。


「絶対に?」


「絶対に」


 ルーシーは深く頷く。


「いいですか、風呂場には絶対に近づかないこと。絶対ですよ。絶対ですからね!」


「絶対に」と何度も何度も繰り返し、おてんば娘に後ろ髪を引かれながら、ルーシーは天蓋の外に身を翻した。




***




「……行ったかな?」


 いつも冷静なルーシーにしては慌ただしい足音が扉の外へと去っていく。座っていたベッドから立ち上がると、クレオは天蓋からひょっこり顔を出し、部屋に誰もいないことを確認した。


「ほんの少し怪我をしただけでも大騒ぎなんて、王族ってけっこう大変なんだなぁ」


 大変といえばお風呂だってそうだ。王族はお風呂だって一人で入れない。

 服を脱ぐところから、体を流すところまで、ここではルーシーがつきっきりで世話をする。クレオがいくら一人で出来ると言っても「お任せください」の一点張りで聞く耳ももたないのだ。


 ルーシーに入れてもらうお風呂は確かに気持ちがいい。

 香りのよいハーブの湯で体を温めたあとは、もっちりした泡で爪の先まで磨かれる。そんな体験、市井にいてはそうできるものではない。が、それも毎日となると話は違ってくる。クレオは祖母が亡くなって以降、独り暮らしが長いので、誰かに世話をしてもらうということに慣れてはいないのだ。


 足音が戻ってこないことを確認すると、クレオは天蓋から出て風呂場へと向かう。

 ルーシーは絶対に近づくなといったけれど、それはきっとクレオを一人で風呂に入らせてはならぬという、侍女としての使命感から出たものだろう。


 ルーシーの気持ちはありがたいし、極上体験もいいけれど、たまには独りのんびり湯につかりたいこともある。


 ドレッシングルームに入るなり、シャツの下に隠されたコルセットを外しにかかる。紐を解くのももどかしく脱ぎ捨てると、分厚い革製のコルセットがゴトンと音を立てて床に落ちた。それから何重にも胸に巻かれたさらしを外して、ようやくひとごこちつく。


 汗と埃にまみれた服を脱ぎ捨てて、ひとしきり開放感を味わうと、今度は壷の並んだ棚に手を伸ばす。そのうちの一つを選ぶと蓋を開けくんくんと鼻を鳴らした。


「うふふ、これこれ」


 壷の中身は乾燥させたカモミール。

 林檎のような甘く爽やかな香りが鼻をくすぐる。


「これを入れるといい香りがするんだよね」


 バスルームを仕切るカーテンの向こうには、猫足のバスタブが待っている。

 鼻歌を歌いながら、壷を抱えて、クレオがカーテンに手を伸ばす。


「よせ! 開けるんじゃない!!」


 ドレッシングルームのカーテンはすでに開け放たれた後である。

 湯気であぶられた赤ら顔を腕で覆う声の主を見つめ、クレオは呆然と立ち竦む。


「なん、で……」




 ――安心しろ、俺がついてる。




 彼の言ったその言葉を何度思い出したことだろう。

 無事でいるのか、声が聞きたいと思っていた。

 どこにいるのか、顔が見たいとも思っていた。


 だけど――


 だけど、それは今じゃない。


「なんでこんなところにいるのよ――!!」


 ガッシャーン、と壷の弾ける音がした。


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