19:我慢の限界
目の前にある重たいブーツの両踵が、カツンと音を立ててぶつかるのを見て、クレオは来客に気が付いた。
見上げるグレアムは敬礼の姿勢をとったまま、やや緊張した面持ちで修練場の入り口を凝視している。つられるようにその方向を振り向いたクレオは、燃え立つような赤髪の貴公子が、こちらに真っすぐやってくるのを見た。
(あれ、あの赤髪どっかで……)
そう思ったのも束の間、貴公子の鋭い眼光がクレオを穿つ。
「こうして兄がわざわざ会いに来たというのに起ちあがりもしないとは、相変わらずだなフィリップ」
親しげとは言い難い、嫌味たらしい尊大な声に名を呼ばれ、クレオは慌てて立ち上がる。
(兄……? 兄!? 兄って言った!!)
もしかしなくとも、フィリップ殿下の兄上君、ジェラルド殿下に間違いない。
ジェラルド第一王子――彼は、二十年前に病死したサティリア前王妃の実子であり、現王妃オリヴィエの息子であるフィリップの異母兄にあたる。
血筋の違う王子が二人。普通であれば後継者争いが勃発してもおかしくないところであるが、愚鈍な無気力王子を担ぎ上げる者などいるはずもなく。実父であるグリフィス王のみならず、継母のオリヴィエ王妃までもがジェラルドを庇護しているということもあり、現状第一王位継承者の名を欲しいままにしている。
理知的な性格であるが、それゆえに発言にやや独善的な部分があり、風紀を乱してばかりいるフィリップとはまさに水と油。兄弟仲はあまり良いとは言えないかもしれないわね――とは、王妃オリヴィエの談である。
まったく、とんでもない人が現れたものだ。
「噂は本当だったようだな」
「噂? なんのことですか」
クレオはまっすぐ背筋を伸ばして、こてんと首を傾げて見せた。
「決まっている。これまで鍛錬という鍛錬から逃げ回っていた我が弟が、とうとう剣を習い始めたという噂だよ」
(嫌味たらしい言い方だなぁ)
そうは思うが顔には出さない。そしらぬ顔で立つクレオを、顎に手を添えたジェラルドが睨め付けるように見下ろしている。
「王族としての自覚が出てきたのは喜ばしいことだが、誰に剣を習っているんだ」
「彼です」
クレオはすいと斜め後ろに下がると、背後のグレアムを紹介した。それを受け、グレアムが深々と膝を折る。
「憲兵団第三部隊隊長、グレアム・ヴァーミリオンと申します」
値踏みするような視線が、今度はグレアムに向けられる。
「グレアムとは少々縁がありまして、私から剣を教えて欲しいと頼み込んだのです」
「お前から頼み込んだ? 第二王子ともあろう者が、一介の憲兵に頭を下げるとは、お前にはプライドというものがないのか」
(プライドねぇ)
いちいち癇に障る言い方をする御仁だ。
フィリップのことをとことん上から見下ろしている、そんな言い方にカチンとくる――が、そんな気持ちはおくびにも出さない。
こういう言葉は、深く考えず受け流すのが一番だ。
――相手の心情に寄り添うのです。決して歯向かってはなりません。
面倒な輩のあしらい方は、紅柘榴亭でカミュから嫌というほど学んでいる。
「返す言葉もありません」
クレオはしおらしく頭を下げる。
それで事が済めばよかったのだが、ジェラルドはなにやら納得いかない表情で、ぐるりと辺りを見渡した。
「それにしても、ジークは何処にいる。主の行いを諌めるのも従者の仕事だというのに。あの家柄だけの三男坊め、自分の任務も満足に果たせないとは、呆れてものも言えんな」
(なんにも知らないくせに)
そう言いたいのを、頬肉を噛んでなんとか耐える。
(ジークはねぇ、あんたのいなくなった弟を必死に探しているんだよ!)
平穏な成り代わり生活を送るなら、面倒事は避けて通るべきだ。ただでさえ不仲な兄弟である。今ここで言い返して、諍いに発展するのは避けた方がいい。
頭ではわかっている。わかってはいても、向けられる悪意を目の当たりにすれば、心中穏やかではいられない。
(モノが言えないってなら、ちょっとは黙ってなさいよ!)
これ以上、グチグチ、ネチネチやられたらどうにかなってしまいそうだ。
苛立ちも最高潮のクレオの気持ちなど、ジェラルドが気づくはずもない。失望を隠しきれないといった表情で、ジェラルドが「はぁ」と盛大に溜息を吐いた。
「まぁいい。グレアムと言ったな、今までご苦労。指南役は交代だ」
ジェラルドを見上げるクレオの瞳がほんの少しだけ細まった。
「どうしてですか?」
「決まっている。王家には歴とした剣術指南役がいるだろう」
「だとしても、勝手に変えられては困ります」
「なにが困るのだ? 下賤の剣など王族には必要ないものだ。お前はもっと自分にふさわしい剣を……」
今度はクレオが大きく溜息を吐く番だった。
「少々、お言葉がすぎるのでは?」




