01:いつもの朝のはずだった
ボーン。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
柱時計の鐘が鳴る。
窓の外はまだ暗い。クレオは今にもくっつきそうな瞼をこじ開け、のそのそとベットを這い出した。
「……しごと、いかなきゃ」
くあぁ、と大きなあくび。それから背伸びを一つ。
冷たい水で顔を洗って、慣れた手つきで髪を結う。飾り気の無いシャツに袖を通し、ズボンを履いたら準備完了。
竃に火を入れ朝食の準備を始める。
街外れに住むクレオの朝は早い。勤め先である「紅柘榴亭」までは、ここから歩いてたっぷり二時間はかかる。朝食だけはしっかり食べろ。そんな祖母の格言を守ろうとすると、この時間に起きるしかない。
フライパンを熱し、チリチリと音がしてきたところでベーコンを入れる。肉の焦げるいい匂い。なんて贅沢!
よく焼けたベーコンを黒パンにのせ、壷に残っていた最後のミルクをコップに注ぐ。テーブルにつくと手を合わせ、今日の糧に感謝を捧げた。
「店長、今日もありがとうございます!」
捧げる相手は神じゃない。こんな自分を雇ってくれる、紅柘榴亭の女主人だ。
クレオの母はクレオを産んですぐに亡くなり、父も四歳の時に亡くなった。残されたクレオを女手一つで育ててくれたのが祖母のメルバだ。
メルバはレース編みの名人で、それで生計を立てていた。彼女の仕立てる小物たちは街でも評判だったらしい。そんな技術を継承しようとメルバも躍起になっていたが、残念なことにクレオが作ると全ての生糸が毛玉になった。
今にして思えば、自分の死後クレオがどうやって生きていくのか、心配してのことだったのだろう。
そんなメルバも五年前にこの世を去り、彼女の心配はまさに現実のものとなってしまう。ほどなくして生活資金が底をついてしまったのだ。
孤児院を頼るという手もあった。実際、祖母は昔馴染みのシスターにクレオと頼むと言い残していた。
祖母の死後、シスターが孤児院に来るよう何度も説得に足を運んでくれたが、結局クレオが首を縦に振ることはなかった。
思い出が詰まったこの家だけが、クレオの守るべき「我が家」だった。
とはいえ、そんな意地だけで食っていけるほど、人生はそう甘くない。
覚悟を決めて街へと出てはみたものの、仕事はなかなか見つからず。やっとのことで就いた仕事も割のいいものとは言い難く、なんやかんやと天引きされて、給金なんて雀の涙。祖母の格言など守るどころの話ではない。
ひもじさのあまり、危うく母の形見のペンダントを手放すところまで追い詰められたクレオを救ったのが、件の女主人というわけだ。
紅柘榴亭で働くようになってからというもの、食うに困ることは無くなった。クレオを拾ってくれた彼女は、まさに救いの女神なのだ。
食事の後片付けを終えて外に出る。
「おはよう、クレオちゃん」
人懐っこい声の主は、お隣のマーゴおばさんだ。メルバの茶飲み友達だった彼女は、遺児であるクレオの面倒を何くれとなく見てくれる、とても気のいいご婦人だ。
「今日も帰りが遅いんだろ? お腹すいてたら遠慮なく声をかけるんだよ」
「マーゴおばさん、いつもごめんね」
「なぁに言ってんだい、水くさい! あんたの死んだお父さんにはずいぶん世話になったんだから、これくらい当然だよ」
亡くなったクレオの父は町はずれで医者を営んでいた。
医者になるには高等教育が必要だ。治療費も法外で、医師の治療を受けられるのは上層階級のごく一部の人間だけというのが当たり前。そんな中にあって、父は僅かな治療費で親身に接する名医だったとメルバがよく話してくれた。
父は没落したどこぞの貴族の出だったらしいが、クレオが覚えている限り身分を鼻にかけたことは一度もなかった。そんな父の教育方針のおかげもあって、父が亡くなってからも貴族とは名ばかりの質素な生活を送ってきたが、クレオはそれをむしろ誇りに思っている。
「どうもありがとう」
意志の強そうな紫の瞳を綻ばせ、クレオがふわりと微笑むと、マーゴもまた嬉しそうに笑う。
「あんたの笑顔が見れるんだから、安いもんだよ」
いってらっしゃい、と手を振るマーゴにクレオも小さく手を振りかえし、街を目指して歩き出す。
ささやかで何気ない日常の始まり――の、はずだった。