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生活の終わり



 不眠で靄のかかった頭を抱えて、家から出た。大雨は止んで、晴れた昼下がりである。徒歩数分で着く聖堂へ向かう。今朝弟へ言いつけた時間よりは前に着いておかなければ。自分も礼儀知らずではないのだから。


 今日、言わなければ。明日の収穫祭でピアノは弾けないと。これを前日に言うのも無茶が過ぎるかもしれないが、弟ならそれをやってのけるという信頼があった。


 無論、弟の才を恨み嫉妬する自分にとって、その信頼は悔しいものではあったが、それ以外頼る物が無い自分の不甲斐なさ、情けなさの方が大きかった。


 正面に座する女神像の隣に、ピアノが一台置かれている。下手な演奏も、おそらくこれが最後だろう。ピアニストの夢との決別を意して、ピアノの鍵盤葢を開いた。


 こうして自分は、司教の厚意に甘えて借りた聖堂と、大きなピアノを弾いていた。七色のガラスから降る斜陽に当てられ、華やかな腕前になれたらと思ったが、期待は虚しく、騒音を並べるだけの演奏だった。


 一音一音が野盗の悪声のようだった。ピアノの悲鳴、とでも名人は言うかもしれない。雑音かもしれないし、ノイズかもしれない。言い換えても「酷い演奏」と言う部分で共通するだろう。


 小鳥の鳴く声が聞こえる。もしかすると自分の演奏に嘆いているのかもしれない。「どうして僕らのように軽快に指を動かせないの? 」 そう言いたげな様子だ。


 自分もどうして、この腕が華麗に動かないか悩んだことがある。その時はパリの街並みを澄んだ川に沿って歩いた。快晴の下で青々とした陽樹を横目に歩いていたのだ。




 腕を切り落とせば、はたすると耳も切り落とせば、元も考えなくていいのではないか。快活に動く民衆の一人に、こんな憂鬱な男が混じっていた。無論、その男は自分なのだが。


 ただ、俯瞰してみると自分の苦悩もちっぽけな気がした。自分はパリの民衆の一人である。そうただの人である。その人のある苦悩なんて些細なものだ。自殺する人間に比べれば、ピアノが弾けないなんてどこまでも小さい悩みではないか。そこまで重く捉える必要はないかもしれない。


 そうして自分は太陽を浴びて少しばかり元気になった。日中の散歩はメンタリティも良好にするらしい。大道芸人が変哲なピエロマスクを被っているのを見て、微笑を浮かべるほど余裕ができた。


 とりあえず悩みを後回しにできたので(この頃から一日の大半を、悩みを後回しにするためだけに浪費していたのです)さあ帰ろうと足を後ろへ向けた。


 すると、急に寂しくなった。自分の帰るべき部屋が、寂れきった灰色のおぞましい故郷に見えた。今帰っては、駄目だ。せっかく悩みを後回しにできたのに。


 そうしてやはり前に進むことにした。パリの街並みを澄んだ川に沿って歩いた。快晴の下で青々とした陽樹を横目に歩いた。


 大雨が降ってきた。それでも、まだ自室は寂れきった灰色で滲んでいる。くしゃみが出ても構いはせず、歩き続けた。


 雨が止んで夜が来た。そうするとだんだん闇夜が怖くなって、やっと帰路へ足を進めることができた。雨で青々とした葉が路頭で散乱していた。川にも落ちている。もう川も澄んではいない。濁流である。


 不安によって逃げ出し、不安によって帰る。


 自室での寂しさは、散歩する前より酷いものへ悪化していた。その時気づいた。自分はもう帰ろうとした時点で、あのまだ清涼な川に飛び込めばよかったのだ。そうすれば幸福の絶頂で安死できたろうに。


 たとえ、自殺しようとする時に「君より辛い人はたくさんいるんだぞ!」と言われても、自分の苦しみは自分だけのものである。人に査定されて、この生に引き留められるなど、迷惑な話だと言えばよかったのだ。




 自分の演奏に嫌気が刺してきたので、ピアノから手を引いた。ピアノから手を離す時、一流は肉体が分離する感覚まであるという。自分の手足がどこかへ行く時のようにピアノを惜しむらしい。


 鍵盤には一切の印象も抱けない。自分の慣れ馴染んだ肉の部位、という感じも勿論しない。むしろ、自分の指から離れてピアノが歓喜しているようにさえ見えた。


 自分は一流ではない。おそらく根本的に合わないのだ。誰かに他人の皮膚を張りつけても剥がれるように、この指と鍵盤は相容れないものなんだろう。弟はどうやら指に馴染むらしいが。


 弟のそれを才能だと言うのなら、自分は非才だ。弟が天才なら、自分は凡才だ。早く生まれて多く練習した。同じ事を父から教えられた。それなのに開いたこの大差は、自信の喪失を孕んだ。姦悪が育ち、偏屈者となった。


 真正面に座した女神像に願った。あなたは嫉妬を大罪の一つとしますが、自分の嫉妬は、あなたが世に放った才能のせいで起こっているのです。天才を殺してください。どうか凡人のみ生きる世界へ変えてください、と切望した。


 「願えば叶う」というのは、些か都合が良すぎるとは思っていた。神が願いを叶えなかったのは、偶像崇拝の趣味も信仰も無いせいかもしれないが、とにかく、大聖堂の扉を弟が開いたという事実がそこにあり、確かに自分の願いは叶えられなかった。


 「兄さんどうしたの? 呼び出すなんて珍しいじゃないか」


 席の合間を歩きながら喋る弟。


 「ああ…初めてかもしれない。面と向かって話すのも久々だ」


 「うん、そうだね。それで今日はどうしたの?」


 死んでくれ。なんて言えるはずがない。つい先程までお前の死を神に祈っていたなど、言えないのだった。


 「明日の事だ。収穫祭はお前に譲る。お前がピアノを弾け」


 「え、いやそんなの……僕には無理だよ」


 お前が無理なら当然自分も無理だということになる。謙虚は美徳というが、度が過ぎると横柄な性格の裏返しとなる。


 だがこの弟にそんな悪意は無い。この弟は賢いくせに察しが悪い。自分を正しく評価し、少しの侮蔑を持っていれば、「自分の兄は祭りの前日にもなって怖じけて、弟を頼るような人間なのだ」と考えるだろうに。


 こいつは、変に兄を慕い、敬って、それが返って神経を逆撫でするような、無意識だろうが癪に触れることを心がけるような人間だった。これが本当に悪意を持っての行動なら、まだ暴力に訴えかける事もできた。それがないうちは、下手にこちらも手出しができず、日々苛々とし、鬱憤は血のように体へ流れるだけであった。


 「……私は体調が優れない。これで明日を待ち望みにした、紳士淑女らをがっかりさせるわけにもいかない」


 「風邪でも引いた? 病気とかはもう父さんで十分だからね。あんな思いはもう懲り懲りなんだから」


 葬式は自分ら兄弟だけで済ませた時、(これは父の頼みでもあった。豪勢な式はどの道難しかった為、この遺言は罪悪感を与えない為の父の優しさだったのかもしれない)弟が泣いていたのを覚えている。自分は悲しくもなく、ただ呆然と俯いていた。


 「分かっている」


 「父さん、死ぬ前までお酒飲んでたもんね。ふふっ」


 あの人の酒好きは筋金入りだったが、ただの飲んだくれではなかった。ピアノの才能に恵まれ、儚げな弟と比べ、楽しそうにピアノを弾く人だった。どうしてあそこまで酔漢になる必要があったのか分からない。もしかすると、あのお気楽道化師の仮面の裏には、自分のような陰惨な顔があったのかもしれない。


 「え、でも兄さん本当にいいのかい? 」


 弟が繰り返す。やはり、そこに悪意は無い。その確認作業が、自分にとっての敗北の証明になるとは、露知らずな顔である。ただ心配の色を浮かべている事が、自分にとって何より憎たらしく、そして何より惨めで情けない事なのか、こいつは知らない。


 「だから、そう言っている。明後日の収穫祭に私はピアノを弾かない。」


 「うーん、そっかー。絶対兄さんの方が良かったのにな。僕なんかが出て申し訳ないよ」


 「ピアノなんて誰も聞いちゃいない。お前が弾いても私が弾いても大差は無いんだ」


 そう、きっとそうだ。馬鹿に騒ぎたい連中だけに、誰が弟の天才性に気づくだろうか? もしや、私が弾いても結果は変わらなかったのではないか? 無理に代わってもらう必要もなかったのではないのか? 


 「そうかな、僕は弾き手が上手だと場が盛り上がる気がするよ。父さんなんてその典型だったから」


 だがもう遅い。今更「やはり私が弾く」と言ったらどうするだろう。体調が優れないという嘘はどう説明する? きっと惨めになるだけだ。それは今よりもずっと。


 「うん、明日は任せてよ。きっと成功を収めてくるから。父さんに負けないくらいに素晴らしい演奏を皆に届ける」


 「じゃあ明日は安静にね。そうだな、収穫祭の果物でも持っていくよ」


 そう言う弟をもう見たくなかった。これ以上……自分を……私を惨めにしてほしくなかった。


 「オレンジとかどう? 確か兄さん、好きだった……よ……ね……」


 もう何処かへ行ってしまえ。


 「兄さんっ!! 危ない!!!」


 私は気づかなった。女神像が倒れて来ている事に。突き飛ばされて、椅子から転げる。ピアノが潰れた。そして庇った弟も同じく下敷きとなった。


 鍵盤が赤く染まる。いつもの華奢な腕が無惨に曲がり、指もどこへ向いているか分からない。




 その光景を、私はどうしてか美しいと感じた。弟という天才の血で、ピアノと女神像が赤く染まるのが酷く甘美に見えてしまった。


 そして私は走った。今私はするべきことがあるからだ! 聖堂から出た後、ひとしきり叫んだ。怪我人の事は伝えた。


 パリの街並みを澄んだ川に沿って走った。快晴の下で青々とした陽樹も知らずに走った。川を見ると、水面に口元を歪ませた狂人が居た。無論、その男は私である。


 私はその狂人の顔目掛けて飛び込んだ。夢は叶った。神よ。弟を殺してくれて、ありがとう! 心から感謝する! いや、もはや死んでなくともいい。何故なら私がこれから死ぬからだ! 


 人生の絶頂で安死しなければ。


 死ぬ機会があり、死ねなかった自分。これを逃せばもう今度こそお終いだ。


 気道に水が入り込む。苦しい。溺れる苦しみは酷いと聞くが、この程度か。この程度で人生などと言う地獄へ戻ってやるものか。


 自殺する時、「君より辛い人はたくさんいるんだぞ!」と言われたら、今ならこう答えるだろう。


 「そんな訳がない。今、私は世界で一番不幸な男だ」


 私より不幸な人間がいて堪るものか。


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