生活の悪夢
囁く程度の小雨で、自分は目を覚ました。窓を叩く雫は大きな音を立てていない。それが返って煩わしく、ざあっと土砂降りしている方がまだ自分の眠りを妨げないように思えた。
酒を飲み始めてからというもの、どうしてか眠りが浅い気がする。自分は聖職者という立場であったときから、あまりに眠れない夜は酒に頼ると良いと知っていたので、コップ一杯半を時間をかけてじっくり飲むこととしていた。その習慣は今も続いている。ベッド横の勉強机には底を尽きている酒が見えた。雨に打たれてまで買いに行くほど自分は酔漢でないため、どう眠ろうかと考えなければいけなかった。
瞼を閉じても眠れない。寝返りをうっても眠れない。こうしていると、いつも寝ている時はどうしているのだろうと気になってくる。ああ駄目だ。考えたら眠れないのだ。そうだ空でも思い浮かべよう。煩雑に並んだ雲と溢れんばかりの晴天を俯瞰しようとした。晴れやかな風景と聞こえてくる雨音は随分と対照的で、その想像で眠るには少し難しいように思えた。
仕方ない。眠くなるのを待とう。ベッドに腰掛けているとあくびが出た。あくびが出ると長い夜の前兆のように思える。自分の眠る時期を、体が勝手に決めているようで気持ち悪い。あくびに従ってベッドに横たわり、眠れた試しがない。ふと目が覚めて、そのまま眠れなくなるのはこれが初めてではなく、経験から故意に眠ることはもう不可能だと感じた。持て余すには惜しいが、だからといって何もすることがない時間だった。
雨が強くなってきた。屋根から落とされた雨粒が水溜りに落ちる音。窓を叩いてはねる雫。それら一切をかき消す雷鳴。家を打ちつける大雨。先程の小雨よりは眠れそうだったが、雷まで加わるとなると今度はうるさく、やはり眠れそうになかった。
自分の部屋は殺風景そのもので、ベッドと本棚、勉強机の上に置かれたオイルランプと中身の無い酒瓶、そしてピアノしかなかった。縦に積んだ本のせいで本棚としての機能をしていないし、オイルランプは埃が降り重なっていた。ピアノもここ一ヶ月弾いていない。自分の物はーーーー例えばピアノはピアノであることを忘れ、音が鳴るというのも完全に忘れ、自分が自分であることも忘れているのではないか。本棚も、オイルランプも、完全に死んでしまったのではないか。自分が殺してしまったのではないか。
なんとなく罪悪感。それと少しの好奇心(もしかしたら本当に死んでしまって音も出ないかもしれないと思ったのです)によって、ピアノを弾いてみることにした。幸い外は大雨。近所にも聞こえまい。自分のピアノの鍵盤葢を久々に開く。鍵盤は当然だが白黒だった。
華やかな曲を弾いたつもりだった。自分がその時弾いた曲はショパンの「夜想曲」第二番。川のような流麗さと、羽が踊るような軽やかさが美しかった。
ただ、自分が弾けばそれは酷く暗い曲になるようで、清涼な川は黄色い汚水に変わり、羽はその汚水を含んでべちゃりと音を立てる。美しく儚い曲であればあるほど、自分はその名曲を汚してしまいそうな気がした。
きっと明後日もこうなのだ。明後日は夏の収穫祭のため、この街にある噴水に出向いて、背景曲を演奏しないといけない。昨年までは父がその演奏を務めていたが、もうその父はこの世にはいないのだ。ただ、自分はこの祭りがどんなものか知っていた。陽樹が点在する広場、中心には大きな噴水、収穫された果実や穀物料理が振る舞われ、ある老夫婦は踊りだし、恋人達はテーブルの料理をよそう。白い地面と人の影、ドレスやスーツには、木漏れ日が斑点のような模様を作る。その光景はさながら絵画の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」であった。
無理だと思った。自分がそんな華やかな場所で優雅に演奏できるわけがないのだ。そんな場にふさわしい心構えも、技量も何もかもが自分には不足している。諦めようと思った。
幸い自分には代役がいる。弟がいる。彼は素晴らしいピアニストだから。父にも追いつけず、弟にさえ才能で劣る。毎年父がしていた役目はお前に譲ろう。無理に自分が引き受けて悪かった。そう言えば良い。そう言ってしまおう。ああルノワール、あなたの絵画に合う男がいます。それは決して自分ではありません。見方によっては名人こそが残酷な人ではなかろうか。あなたの絵画で自分の音楽は閉ざされた気さえしたのです。ああ残酷な人よ。ああ本当に……
鍵盤を閉めた。今思えばどうして開いていたのかわからない。もうピアノは一生使わないだろうなと思った。
眠気が襲ってきたので、好機と思いベッドに入る。
大雨はまだ続いている。