毒を流す方法
僕と朋花は図書館脇を流れる川にやって来ていた。
つい数時間前にメグルを深く傷つけた、あの河原だ。
「本当に川に入るの?」
「朋花が教えてくれたんだろ」
「あれはあくまで神話であって、実際にそれで力がなくなるかは分からないよ」
「いや、案外悪くない気がする。常識で考えられない呪いをかけられてるんだ。常識で考えられない方法で解けるかもしれない」
それに駄目ならそれでもいい。
せっかく朋花が僕のために調べてくれたんだ。試してみたかった。
川に手をつけてみると、その冷たさに意志が折れそうになる。外気温の関係もあるのだろうけど、昼間に触れたときより川の水は遥かに冷たく感じた。
いくら真夏とはいえ夜中に川で身体を横たえるのはかなり覚悟がいりそうだ。
「着替えもないんでしょ? それに暗いから危ないよ。明日のお昼に水着を持ってきてした方がいいよ」
朋花の言うことはもっともだ。
しかし長年苦しめられてきた惚毒を祓い落とせるかもしれないという状況なのに、冷静になれというのが無理な話だった。
長年研究してきた科学者が閃きを得ながらも、実験はまた明日にしようと思えないのと一緒だ。
靴を脱ぎ、靴下もその中に丸めて入れる。
ズボンの裾を捲りかけて手を止めて自嘲した。
これから全身を水に浸そうとしているのに裾が濡れることなんて気にしてどうなる。
とぷっと足を入れ、川底を踏む。藻が生えているのか、ヌルッとした感触がなんだか不衛生に感じた。
滑って転ばないようにゆっくりと慎重に歩を進めて川の中を進んでいく。
濡れるのは構わないが転んで怪我をするのは勘弁して欲しい。手首を切り落とそうとしていた僕がこんなことを言うのも、なんだけれど。
「大丈夫? 気を付けてね」
不安そうに声を掛ける朋花に振り返って親指を立てると、呆れたような笑いが返ってきた。
サムズアップなんてする人の気が知れなかったけど、やってみて分かった。強がってみせるには最適なポーズだ。
子供が水遊びする川だから油断していたが、意外と流れは急だ。転ばないように歩く姿は一昔前の二足歩行ロボットのようにぎこちなかった。
ミダス王はどれくらい身体を川に沈めたのだろう。
きっと著者もまさかそれを実践する人が現れるとは思ってないだろうから、詳しくは書かれていないのだろう。ぎりぎり顔が川から出るくらいにしておけば問題ないはずだ。
ある程度の深さのところに辿り着き、逡巡の後にしゃがんだ。ズボンが濡れる感触は独特の気持ち悪さがあった。
財布やスマホは靴と共に岸に置いてきたから心配ない。
一気にドボンと身体を浸けてしまいたかったけれど心臓麻痺を起こしそうなので、ゆっくりと水温に慣らしながら川の中で寝そべっていく。
手頃な石を枕にして川の中に身体を横たえると、川の流れが聞こえてきた。空には夏の夜空が広がっている。
寒さを我慢すれば心地いい。
底が見えない宇宙を、川の底に寝そべって見上げる。
不思議と自然に抱かれた安らぎを感じた。雑音はすべて水流の音で消され、自分の心と向き合える。
この忌まわしい毒の力も、人と関わる煩わしさも、それでも人と繋がりたいと思う気持ちも、これまでの人生の失敗も成功も喜びも嫉妬も、全て俯瞰して見えてくる。
どれくらいそうしていただろう。何十分も川に浸かっていた気もするし、まだほんの数分しか経っていない気もする。
水の冷たさに慣れ、感覚が麻痺しはじめてきた。これで毒は流されたのだろうか?
なんとなく僕の身体から毒素が抜けていってる気もする。
(このままここで寝てしまおうかな?)
そんなことを半分本気で思いながら目を閉じたとき、水の跳ねる音がした。
顔を上げると不安で歪んだ顔をした朋花が川に入って僕の方に駆け寄っていた。
僕は驚いて身を起こした。
「朋花。なんで川に入って来るんだよ」
「もうやめてよ! 風邪引いちゃうから!」
水を蹴り跳ねさせながら叫んでいた。
「分かったから落ち着いて! 危ないから。藻が生えていて結構滑りやすいんだから」
「きゃあっ!?」
僕の警告も空しく、朋花は足を滑らせその場に転んでしまった。
「朋花っ!」
慌てて駆け寄り抱き上げる。
「自分で歩けるから」と暴れるがそのまま川岸まで連れて行く。
大して深さもない川だが、油断していたら怪我をしかねない。手を怪我したあと川で転んでずぶ濡れになるなんて、僕に関わったために朋花も災難続きだ。
「大丈夫?」
「私は平気。それより三田君は大丈夫なの? いくら夏だって夜にそんなに濡れたら風邪引くよ」
そう言う朋花だってびしょ濡れだ。Tシャツが肌に貼り付いて、下着を透けさせてしまっていた。
慌てて目を逸らすと朋花も自分の姿に気付いたようで、慌てて腕で胸元を隠す。
「エッチな目で見ないでよ」
「み、見てないし!」
「うそ。いま絶対やらしい顔してたし! こんな地味な顔して黒いブラつけてんのかよって顔してたしっ!」
「してないって! てか、だいたいピンクだったろ!」
思わず口走ってしまった後で慌てて口を塞いだが遅かった。ジトーッと軽蔑の眼差しを受けながら身を縮める。
メグルみたいに口汚く罵ってこられるのもキツいが、朋花のように無言で軽蔑の眼差しを向けられるのはもっとキツい。
「……もう一回川に浸かってくる」
居たたまれなくなり、川に逃げ込もうとしたとき、吹いてきた風に濡れた身体が冷やされ、くしゅんっとくしゃみが出た。
「あー、ほら。やっぱり寒いんでしょ。ガタガタ震えてるよ」
「これくらい平気だって」
「駄目。風邪引くよ」
確かに凍える寒さだった。しかしこんなに濡れてしまっていては、寒さを凌ぐのにコンビニにすら入れない。
「帰ろうよ」
「いや、でもまだ」
家に帰るには早過ぎる時間だった。この時間に帰ればかなり長い時間家で過ごさなくてはならない。
その事情は語らなくても朋花も分かってくれたようだった。
「もう。仕方ないなぁ」
朋花は僕の手を引いて面倒くさそうに歩き出した。