ミダス王の悲劇
それから数時間の記憶は、すっぽりと抜け落ちてしまった。
自己嫌悪と酔いどれの女神への恨みを交互に繰り返し、気がつけばビジュアル系バンドの歌詞みたいに宵闇の中を彷徨っていた。
(まだだ! まだ終わっていない! あの忌まわしい女神に負けてたまるかっ)
僕はホームセンターに立ち寄って買い物をし、その足で朋花の住むアパートへと向かった。
今ではすっかり見慣れた朋花の住む古びたアパート。キッチンに灯りがともっているのを確認してチャイムを鳴らした。
「三田君……どうしたの?」
突然の来訪に朋花は戸惑っている様子だった。
「ちょっと、いいかな?」
「うん、まぁ……」
承諾したというより断る言葉が思い付かなかったという様子の朋花を連れて近所の寂れた神社に移動した。
こうして顔を合わすのは実験を中止したあの日以来だから十日ぶりだ。夏の盛りだというのに日焼けをしていない白い肌の朋花は、その落ち着いた態度も相俟って涼しげに感じられる。
「お母さんが帰ってくる前に料理を済ませないといけないんだけど?」
相変わらず醒めた口調でそう言いながら暗い森に視線を巡らせていた。
なにか罠があると思っているのか、やけに警戒心が強い。懐かない澄ました猫のような女の子だ。
「呪いをかけた女神に負けない作戦が浮かんだんだ」
「えっ、そうなの? 」
僕の言葉に朋花はそれまでの素っ気ない態度を崩した。
「その手伝いを朋花にしてもらいたくて」
「私に出来ることなら」
朋花は静かに頷いて承諾してくれた。
どんな時でも真剣に相談すると真摯に応対してくれる。朋花はそういう奴だ。
「でも本当に勝つ方法なんてあるの?」
「勝つ方法じゃない。負けない方法だよ。あの酔っ払い女神の裏をかく驚きの作戦がある」
僕が熱を帯びすぎていたのか、それとも言い回しが気になったのか、朋花は不安げな顔になる。
「僕の手で触れた女性はみんな毒に冒されて僕に惚れてしまう。だったら」
そこで言葉を切ってホームセンターの袋を逆さまにすると、入れてあった鉈が落ちて地面にザクッと突き刺さった。
朋花の「ひっ」と息を飲む短い悲鳴が聞こえた。
「手を切り落とせばいいんだよ。手首辺りから。そうすればもう僕は誰にも惚毒をばらまかなくて済む」
朋花の目が異常者を見るときのそれに変わった。
「なに馬鹿なこと言ってるの? 冗談に付き合うほど暇じゃないの」
「冗談でこんなものまで用意しないよ」
大振りの鉈を手に持ち笑いかける。
ずっしりと重いそれは、しかし一振りで手首から先を切断はしてくれないだろう。
「右手を切断したらもう左手を自分で切断できない。だから朋花に左手をお願いできないか?」
「ふざけないで。そんなことしたら出血死するに決まってるでしょ」
「その時はその時だよ」
鉈を持った手を高々と振り上げ、息を止める。手首さえなくなれば、もう惚毒に苦しめられることもない。
そのことだけを頭の中で繰り返し思った。
「やめてっ!」
「うわっ!?」
朋花に押し倒され、握っていた鉈を奪われた。
どこにそんな力があるのかと思うほどの力強さだ。
「返してくれっ!」
縺れ合って草の上を転げまわる。しかし朋花は鉈を掴んで放してくれなかった。
「何考えてるのよっ! 馬鹿じゃないのっ!」
朋花は目尻を釣り上げ、激しく声を上げた。こんなに感情的な朋花を見るのははじめてだった。
彼女の興奮が伝播した僕も、激しく昂ぶってしまっていた。
「これしか方法がないないんだよっ! 手で触れたら駄目ならば、手首を落とすしか——」
僕の怒鳴り声は、朋花の顔に付着した血を見て止まった。
「血っ……朋花の顔に血がっ」
「ちょっと腕を怪我しちゃったみたい」
朋花は忌々し気に自らの腕を見る。それほど深くはないが、斬れてしまっているようだ。
縺れ合った際に鉈が当たってしまったのだろう。
「ごめんっ! 大丈夫!?」
「大したことない怪我だから。ていうかこんなこと計画しておいて今さら血を見たくらいで騒がないでよ」
朋花はハンカチで怪我した場所を抑えながら呆れたように僕を叱った。
「手首ごと切り落としたら絶対死ぬし、それこそ女神の思う壺でしょ」
情けないことに朋花の血を見た僕はすっかり意気消沈してしまっていた。
一番大切な人を傷つけてしまうなんて、僕は本当に最低な奴だ。
「本当に、ごめん」
情けなくて、申し訳なくて、本当に死んでしまいたくなる。
「きっとあるよ。ほかに方法が」
朋花の呆れたような笑顔がささくれだった僕の心を優しく癒してくれた。
「一緒に考えよう。何とかなるよ、きっと」
「ともか……」
「情けない顔しないでよね、もう」
突然朋花は僕の身体を包み込むように抱きしめてきた。
あまりの突然背に驚いてしまい、僕は動くことも出来ずに硬直してしまった。
「特別だからね。普段は妹の令奈にしかしてあげないんだから」
「う、うん。ありがとう」
「ほら。三田君も私の背中に手を回してぎゅってしたら? 私だったら大丈夫だから」
「うん」
朋花に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
人の肌の温かさというのは、これほどまでにありがたかったんだ。改めてそれを噛み締めていた。
肩甲骨を、頭部を、肩を、腰を、その感触を確かめるように手で撫でた。
「ちょっと! 誰がそんなエッチな触り方していいって言った?」
朋花はぎろっと上目遣いで睨みながら両手で僕を押し退けた。
「あ、ごめん。つい、嬉しくて」
「惚毒が効かなくても、触られるのは普通に抵抗あるから」
「そりゃそうだよね」
珍しく朋花は頬をほんのりと赤らめていた。
少し距離を置いて座り、夏の虫の声を聞いていた。
「ねえ、三田君」と朋花は顔を僕に向ける。
「ミダス王って知ってる?」
「ミダス王?」
「多分その名前は知らなくてもその存在は知ってると思う。『王様の耳はロバの耳』で有名なミダス王よ」
「ああ、ロバの耳の王様か。それだったら知ってる」
耳がロバであることを隠していていたけど、結局みんなにバレてしまう話だ。
しかし朋花がなぜ突然そんな話をしたのかは分からない。
「ある日ミダス王は神を酒宴でもてなした。そうしたら何でも願いを一つ叶えてやると言われ、触るものすべてを黄金に変える力を下さいってお願いしたの」
「触るものすべてを黄金に?」
神様に願いを叶えてもらったというところも含めて、僕の現状によく似ていた。
「どうやったら三田君の呪いを解けるか、私なりに考えて調べていたの。そしたらその神話が目について」
朋花はその憐れな王様について教えてくれた。
触るものすべてを黄金に帰る力を得たミダス王はすぐに後悔することとなる。なにかを食べようとしてもすべて黄金になってしまったからだ。
「僕とよく似ている。餓死してしまうという意味ではそのミダス王の方がよっぽど深刻なんだろうけど。でもロバの耳の王様がそんな不幸な力を手に入れてしまい死んだなんて知らなかったな」
作り話とはいえ、その憐れな王様に同情と親近感を抱かずにはいられなかった。
「いいえ。ミダス王はその力のせいで餓死したわけじゃない。むしろそのあとに耳がロバになってしまうんだから」
「えっ!? それって、つまり」
「ええ。ミダス王はその呪いを解くことが出来たの」
実際に起きた事件ではなく神話だと理解しながらも、瞬時に心に明光が差し込んだ。
「どうやって?」と訊きたいのに興奮で喉が動かない。朋花はそんな僕の顔を見詰めながら頷く。
「ミダス王は川に身体を横たえて、その呪いを洗い流したんだって」