僕たちの敗北
食後はまた実験が再開する。
驚いたことに神経が通っていない髪の毛でもしばらく触っていると惚毒に汚染されることが分かった。頭皮から染みこんで入っていっているのかもしれない。
またメグルに目隠しをさせると毒が早く回ることも分かった。(ちなみに目隠しをさせた状況でこっそり朋花もメグルに触れてみたが、当然ながらその時はなんの反応も得られなかった)
改めてこうやって調べ、自分の持つ毒の恐ろしさを再確認した。
「お疲れ様。今日はここまでにしておこう」
ほとんど何も喋らなくなったメグルを見て、朋花がそう告げた。
「まだ大丈夫だし」
メグルが頬を染めた顔を上げる。
「ありがとう、メグル。でも疲れただろ? あまり一気にやると大変だよ」
「うっさい。昴は黙ってて」
怒る声にもいつもの覇気がない。やはりかなり毒が回ってしまっているようだ。
僕の実験のために身を捧げてくれているメグルには感謝している。毒に感染した人に抱く嫌悪感も、いつもより感じなかった。
「無理はするなよ。これだけあちこち触っちゃったんだから、かなり惚毒に汚染されてるはずだ。苦しいくらいだろ?」
「関係ないでしょ」
「隠さなくてもいい。いま気持ちが昂ぶっているのはメグルの気持ちなんて関係ない、毒の影響なんだ──」
「三田君っ!」
朋花の鋭い声に僕の言葉の続きは遮られた。珍しく大きな声を出した朋花は、次の瞬間取り繕ったような笑顔に変わる。
「一日中こんなことして疲れちゃったよね、メグルさんも。ストレス解消してみたら?」
朋花はメグルの肩を優しく撫でながら微笑む。
メグルはぐったりと弱った顔で朋花を見た。
「ストレス解消?」
「そう。たとえば三田君のほっぺたを思いっ切りビンタするとか、もしくは首を絞めるとか」
「ええっ!? それはちょっと勘弁してよ」
「もしくはこうやって」と言って朋花は両手をメグルの背中に回して抱き締める。
「ぎゅーって締め付けて苦しめてやるとか」
「ね?」と言いながら朋花はメグルに笑いかける。
「……うん。そうだね」
メグルは僕をキッと睨み、そして背後から抱き付いてきた。
「バカ昴。変な毒使いやがってっ」
背中に回した腕をギリギリッと引き絞りながらメグルが僕の耳許でそう呟いた。
僕は自分の手がメグルに触れないようにと必死だった。
その様子を見ていた朋花と目が合うと、彼女はさっと視線を逸らして知らん振りをした。助けてはくれないようだ。
メグルの身体の柔らかさや熱さに、どぎまぎさせられる。
「あー、すっきりした! じゃあねー!」
バッと一気に離れたメグルは荷物を持って逃げるように家を出ていった。
僕の身体にはまだメグルの身体のぬくもりや柔らかさが残っていた。
「ほら、早く追い掛けなきゃ。昨日と同じこと言わせないで」
「いや。今日は無理だよ」
冗談交じりの声でけしかけてくる朋花に首を振る。
「いまメグルを追い掛けたら、期待を持たせることになってしまうから」
僕の言葉を聞いた朋花の表情が冷たく引き締まった。
「いいじゃない。期待持たせたら。いつまでそうやって拗ねてるつもり?」
「拗ねてる?」
僕の顔も強張り、怒りを超えた笑いが口から漏れた。
「ええ、そう。可哀想な自分の身の上を嘆いて拗ねてるだけ。いい加減素直に受け入れたら? その力も、メグルさんのことも」
ここ最近穏やかだった朋花の表情が、以前のように冷たい無表情に変わる。
「あんなに一生懸命三田君のために頑張ってくれているんだよ。毒とかそんなことを抜きにしてメグルさんを見てあげたらいいじゃない」
「違う……そうじゃない。そうじゃないんだ」
辛うじて出たその言葉も震えてしまっていた。
「確かにメグルさんはいま惚毒の影響を受けているかもしれない。でもそれだけじゃない。ちゃんと三田君のことが好きなんだよ。だからこんなことまで手伝ってくれているんじゃない! 分かってあげなよ」
表情は冷静だけど、朋花もかなり気持ちが昂ぶっている。それは声色に表れていた。
僕の抱える闇の深さを朋花は知らない。その苦しみで胸が軋んだ。
実の母にまで惚毒が効いてしまっている。
その忌まわしい事実を朋花は知らない。
だからそんな無神経なことを気軽に口に出来るんだ。
これまでは僕の本当の苦悩を人に分かってもらいたいなどと夢にも思わなかった。
むしろそんなことを知られるくらいなら人から嫌われた方がマシだとさえ思っていた。
でも朋花だけは違う。
朋花にだけは分かってもらいたかった。
それはきっと僕の傲慢な独り善がりなのかもしれない。
僕の抱える闇など、聞かされても不快な気持ちになるだけだろう。
それでも朋花には、伝えておきたかった。知って欲しかった。
顔を上げて朋花の瞳を見詰める。
「朋花は父親の浮気や両親の離婚がきっかけで恋をしないと誓ったんだろ?」
「……そうだけど」
「繰り返す父親の不貞を、許しがたいし穢らわしい。そう感じたんだろ?」
僕の問い掛けに朋花は用心するように恐る恐る頷いた。
「もしかしてその父親は朋花にまで毒牙を向けた?」
「そんなわけないでしょ! なに言ってるのよ、最低!」
侮辱されたというような怒りで朋花が声を荒げた。
「いくらなんでも実の娘に──」
そこまで言った瞬間、朋花はハッと息を飲み、顔を青ざめさせた。
「まさかっ……」
「僕の惚毒というのは、容赦がないものなんだ。女性であれば、誰だって罹患してしまう。たとえ血が繋がっていようがね」
「そんなっ……」
朋花は魂が抜かれた顔をして、ゆるゆると首を振る。
「僕に姉や妹がいなかったことが、唯一の救いだった。でも、残念ながら母親はいた」
「嘘っ……そんなのっ……そんなの酷すぎるっ」
「自分の親に異性として意識されるのがどれほど気持ち悪いか、きっと体験しないと分からないだろうね」
朋花は真っ赤に充血させた潤んだ目で僕を見ていた。もはや言葉も出ないのか、口を半開きにさせたまま固まっていた。
「まあもちろん母と禁忌を犯してはいない。でも見てしまったんだ」
あの洗濯機前で屈んだ、不気味でおぞましい母の姿を話すと、朋花は手で顔を覆ってその場に崩れた。
「恐怖だったよ。意識しないようにと、忘れようと、努力をすればするほど、記憶に擦り込まれていく。母の視線が、声色が、顔が、優しさが、作った料理が、吐く息が、みんな穢らわしかった」
「そんなの……ひどすぎる」
「なにせ一つ屋根の下で毎日暮らしているんだからね。毎日が地獄だったよ」
朋花は苦しそうに顔を上げ、震える瞳で僕を見た。
「もちろん母は直接僕に手を出したりはしなかった。でも目が違った。あれは息子を見る眼差しではなかった。そんな恐怖に苛まれ、遂に夢の中にまで母が現れた。そしていやがる僕を縛り付け、無理矢理に……生まれて初めて夢精した夜の話だ」
「もうやめてっ!」
朋花は耳を抑えてしゃがみ込む。
「僕もやめて欲しかったよ。でもこの力はどんなに願っても、消えることはなかった。やめたくてもやめられないんだ。この毒さえなければ、こんなおぞましい経験をすることはなかった」
どんな感情なのか説明がつかない涙がこぼれ落ちた。
「それからだよ。僕はこの惚毒の力に惹かれた人に嫌悪感を抱くようになったのは。理屈じゃないんだ。本能的に受け付けられないんだよ。愛されるということにアレルギー反応を起こしてしまったんだと思う」
「ごめん。ごめんなさい……」
朋花は顔を覆って声を上げて泣いていた。
「なんで朋花が謝るんだよ」
「だってそんなことも知らず……甘えだとか、受け入れろだとか……わたし本当に最低なことを」
「仕方ないよ。知らなかったんだから」
親の浮気を憎んだ朋花には、僕の苦しみが普通の人より理解できるのだろう。
「ううん。そうじゃないの。知ってるとか、知らないとか、そんな簡単な問題じゃない。もっと根本的なところを、私は間違っていた」
「根本的なところ?」
「悩みを抱えている人に寄り添い、助けている気になっていた。そのくせ自分が納得のいく展開にならなくて悩んでいる人を突き放して責めるようなことをしてしまった」
朋花は自分に向けた怒りで顔を歪ませていた。
「不登校の児童を適当に励まして、説得して、それでもすぐに変わらないその子を詰るいい加減な人と変わらない行為だった。ごめんなさい」
そんな過去を経験したのかもしれない。朋花は膝の上に置いた手をギュッと握り締めて深々と頭を下げた。
その瞬間だった。
僕は急激に朋花のことが愛しく感じた。
心も、声も、顔も、謝る姿も、身体も、足先も、柔らかな手も、すべてが愛おしくなってしまった。
いや。とっくの前から僕は朋花が好きだったのだろう。
僕が触れても惚毒が効かないと知ったその瞬間から、きっと僕は朋花に惹かれていたんだ。
ただそれを認められなかっただけで。
毒が効かないから好きだというのは、結局その力の影響から抜け出せていないということだから。
「朋花はそんないい加減な人間じゃない。一緒にまほろを探してくれて、僕の忌々しい力について調べてくれた。それは上辺だけ心配する人間なんかには出来ない行為だよ」
本当は朋花を抱き締めたかった。このまま想いを伝えたかった。
しかしそれは朋花を裏切ることのような気がして出来なかった。
誰にも恋をしないと誓った朋花に恋慕の想いを向けるのは、きっと許されないことだ。許されない裏切り行為だ。
そのとき耳の奥であの酔いどれの女神の声が聞こえた。
『この偉大なる力が効かない唯一の女性に恋をしてはいけない。必ず不幸になる』と。
なるほど。上手いこと出来てやがる。
まんまとはまって、はじめて罠だと気付く。
もはや怒りも笑いも起きなかった。
「ごめんなさい。こんな実験も、三田君を追い詰めるようなものだった」
「そんなことない。実験を続けていけば、どれくらいまで接触できるか分かるし」
「そうじゃないの。私は、この実験を通して、三田君とメグルさんが結ばれればいいと思ってやっていたの」
朋花は罪を告白するように、苦しげに語った。
「こうして毎日顔を合わせ、実験を続けていくうちにメグルさんの真摯な気持ちに三田君が気付いてくれるといいと思ってた。毒の影響なんて乗り越え、普通に恋に落ちてくれるかもしれないって。そんなお気楽なことを考えていたの」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。朋花は蹲った姿勢のまま何度もそう繰り返していた。
「いや、いいんだ。ありがとう」
その肩に触れようとして、手を止めた。そしてそのまま立ち上がり、朋花の家を出た。ドアが締まるのを待っていたかのように、朋花のすすり泣く声が聞こえた。
——その夜、まだ家に帰れない僕の元に朋花から短いメッセージが届いた。
『実験は今日で終わり』と。
僕は負けた。
あの女神に負けた。完膚なきまでに。
僕たちの敗北を告げる、静かな幕切れだった。