本当の恐怖に気付いた夜
自宅に着いたのは午後九時半だった。
僕は静かに鍵を挿し、音を立てないようにロックを外す。
しかしそんな努力も空しく、カンッという金属音がこだまする。それに反応した室内では慌ただしい足音が近付いてきた。
諦めて素早くドアを開け自室に向かったが、そんな努力も空しく母親に捕まってしまった。
「お帰り、昴。どこに行ってたの?」
母が優しげな声で訊ねてくる。
その表情に狂気が宿っている気がして顔は見られなかった。
もう何年も、母の顔を直視していない。
「ちょっと遠くに」
返事がないといつまでも付き纏われるので短く答えて部屋のドアを開ける。
「外泊するならちゃんと言いなさい。心配するでしょ?」
「分かった」
泊まりで出掛けることは置き手紙だけで伝えていた。そうしないと警察に届け出を出すような人だ。
まだなにか言いたそうな母を無視して部屋に逃げ込み、自分で取り付けた閂タイプの鍵を閉める。
ほんの僅かなやり取りだったのに僕はぐっしょりと汗をかいてしまっていた。
耳を澄ましてドアの前に立っていると二分後に立ち去っていく足音が聞こえた。二分間もドアの前にいた事実にゾッとする。
もしかすると耳をドアに当てて物音を聞いていたのかも知れない。そんな光景を思い浮かべると恐怖で叫びそうになってしまった。
そう。
女神が僕にかけた呪いはどこまでも容赦がなかった。
たとえ実の母でも、その力は有効だった。
それを知った時の僕の恐怖と嫌悪は今でも忘れられない。
この力を手に入れて一ヶ月ほど経ったときのことだった。深夜に目が醒めてトイレに行くとき、目撃してしまったのだ。
忙しない息遣いが聞こえ、足音を忍ばせて浴室に行くと、洗濯機の前で母が身体を丸めて蹲っていた。
手には僕の下着を持ち、それを鼻先に当て、もう片方の手は下腹部に添えられてモゾモゾと動いていた。
あのおぞましい光景も、歪な熱に魘された息遣いも、生臭い香りも、未だに鮮明に思い出せる。
記憶のフラッシュバックに叫びそうになってしまい、慌てて手の甲を噛んで耐えた。
あのとき以来、僕はこの力で好意を持つ女性に嫌悪感を抱くようになった。これはもう理屈ではない。本能的なものだった。
実の母からも恋慕の情を向けられた。
僕がこの力を嫌忌する真の理由は、それだ。
このことだけは、さすがに朋花にも言えなかった。
家の外ならまだ何とか出来る。しかし家の中では逃げることが出来ない。
真の地獄はこの家の中にあった。
もちろん母には絶対に触らないようにしている。家の中では真夏であろうが手袋を二重に着けている。
「くそっ……」
悔しくてギュッと歯を食い縛る。
あの女神に勝たなくてはいけない。失った僕の人生を取り戻す。
でもいったいどうすれば勝てるのか。
ほとんど私物のない部屋の隅で、電気もつけずに僕は身体を丸めてそのことばかりを考えて、いつの間にか眠りに落ちていった。
まだ日が上る前の時間に目覚めた僕は、物音を立てないように静かに家を抜け出した。
行くあてなんてどこにもない。ただここにいるよりはマシという理由で家を出ただけだ。
夏はまだいい。
こんな時間でもほとんど寒くないのでいくらでも時間を潰すことが出来る。
行き交う人もほとんどいない風景の中、とにかく家から離れる方向に歩いて川沿いの公園にやって来た。
ベンチに座り、見るともなく空を見上げると、ヒマラヤの峰のような巨大な雲が朝焼けで赤く染まっていた。
そんな景色の下、ほとんど乗客のいない始発電車が川に架かる橋を渡り通り過ぎていく。
今日も一日が始まる。
目覚めてから寝るまで休まる時のない地獄のような一日を繰り返して生きてきた。
僕はこのまま一生女性を避け続け、怯えながら生きていかなくてはならないのだろうか。
薄手の白手袋を嵌めた手を見つめる。
いや、そうはさせない。
あの女神の思い通りにさせてたまるか。必ず解決方法はあるはずだ。
折れた心を叱咤する。
こんな立ち向かう勇気が得られたのは朋花のおかげだ。触れても影響を受けないという彼女の存在は、今や僕の希望だった。
あの女神の裏を搔いて勝つためには朋花の力が必要だ。そう確信していた。
日が上ってから気温が上昇するのは早く、僕はコンビニエンスストアで時間を潰した。
常識的な時間になってから朋花にメッセージを送る。しかしまだ寝ているのか、それとも気付いていないだけなのか、返信はおろか既読にすらならなかった。
仕方なくいつも利用している図書館へと向かう。
無料で涼めて静かな図書館は、僕にとってかけがえのない避難場所だった。女性が多いという難点を除けばこの世の楽園だろう。
目的もなく適当に書架を眺めながら館内を彷徨いていると、ポケットに入れていたスマホがブブッと振動した。
メッセージは朋花からだった。
『可能なら今から家に来て下さい』
用件を伝えるだけの短いメッセージが朋花らしい。その文章のどこにも愛想がないことが、むしろ喜ばしくて口許が弛んでいた。