触れられる手
デッキでは朋花が壁にもたれて文庫本を読んでいた。
僕とメグルが二人きりで話が出来るよう、席を外してくれたのだろう。無愛想なのに気の利くやつだ。
「こんなとこにいたんだ」
声を掛けると朋花は本を閉じて僕の顔を見る。
「結局まほろさんが惚毒の効かない人間じゃなかったね」
「ああ。そうだね」
「まほろさんの嫌な面を見た後でこんなこと言うのもあれだけど。三田君がまほろさんを好きなら、その力を使ってでも好きにさせて恋人になってもよかったんじゃないの? ずっと後悔してきただけじゃなくて、ずっと好きだったんじゃないの、まほろさんのこと」
朋花は半分ほど僕の方に顔を向けてそう訊ねてきた。
その表情も、声も、いつも通りの無機質なほど冷静なものだった。
「それは無理だよ」
首を振って静かに答える。
「まほろの本性を知って幻滅したとか、そういう問題じゃない。この能力に毒されて僕に好意を抱いた人を、生理的に受け付けられないんだ」
「じゃあ」と言って朋花は僕の目をジッと見詰めた。「メグルさんは?」
まほろのことじゃなく、本当はこっちが言いたかったのだろう。朋花の様子から何となくそう感じた。
「……メグルだって一緒だよ。この力を使ったら、たとえ誰であっても」
「でも彼女は惚毒に冒される前から三田君が好きだった」
「それはそうかもしれないけど」
「メグルさんはわざわざ東京まで三田君を案内してくれたんだよ。親切心でそんなことする人に見える?」
ガラスの自動ドア越しにメグルの後頭部を見る。
「力が働いたっていいじゃない。それも一つの自分のアイデンティティだと受け入れたら? 背が高い、見た目が恰好いい、お金持ち、頭脳明晰。そういう要因でモテる人は、それに釣られる女の人を毛嫌いしないと思うよ」
朋花の言葉は分からなくもなかった。
しかし朋花の考えには僕の抱える大きな問題点が欠けている。でもそれはたとえ朋花にでも、口に出していうことが憚られた。
「そういう問題じゃないんだよ。根本的に無理なんだ。この毒にはどうしても嫌悪感を抱いてしまうんだ」
朋花は納得のいかない顔をして、首を傾げた。
「僕はこの手で女性を触ることすら出来ない。その苦しみは、誰にも分からないよ」
僕は忌々しい自分の手に視線を落とした。
「触れるよ」
朋花はなんの躊躇いもなく僕の手を握った。
「ほら。簡単に触れる。何ともない」
細い彼女の指が僕の手をギュッと握る。その柔らかくて繊細な感触が僕のささくれだった気持ちを解きほぐしてくれた。
「なんてことない普通の手。大丈夫。きっと私以外にも、もっと沢山いるはずだよ。三田君の手を握れる人は」
「朋花……」
感情が溢れてしまい思わず強く握り返す。
「痛い痛いっ! ちょっとやめてよね!」
朋花は怒りながら僕の手を振り払ってしまった。そんなに力を込めたつもりはなかったけれど、華奢な朋花の手には痛かったのだろう。
「ごめん。つい力を入れすぎた」
「とにかく三田君は思い詰めすぎだよ。もっと楽に考えた方がいい」
「うん。ありがとう、朋花」
そうだ。きっと解決する方法はあるはずだ。
朋花のように毒が効かない人もたくさんいるかもしれないし、やがて力が弱まっていくかも知れない。
この時の僕は本気でそんなことを思っていた。
酔いどれの女神がどれほど怖ろしい存在なのか、甘く見ていたとしか言いようがない。
新幹線を降りたのは昼過ぎだった。
日の高いうちに迎える旅の終わりというのは、どこか味気なくて尻切れトンボのような落ち着かなさを感じてしまう。しかし仲良し三人組でもない僕たちはそのままそこで解散となった。
真っ直ぐ家に帰る気になれず、当てもなく街中をぶらぶらと彷徨き、気が付いたときは日も沈んだ夜になっていた。昼間は閑散としていた裏通りが主役となる時間だ。
帰ろうと駅に向かっていたはずなのに、角を曲がるとまた例の『知らない街』に繋がってしまっていた。
マズいと思ったときは、もう手遅れだった。
「ご苦労様。東京まで行ってまほろちゃんに会ってきたみたいね」
壁により掛かった女神は薄ら笑いを浮かべて話し掛けてきた。手にはアルコール度数の高い缶チューハイが握られている。
「見ていたんですか?」
「もちろん。愉しませてもらったわ。君もなかなか意地悪なことするのね。見直しちゃった」
女神は危なっかしい足取りでふらふらと近付いてきて、僕の肩に手を回してグイッと引き付けてきた。
「まほろちゃんも可哀想に」と耳元に酒臭い息を吹きかけて囁いてくる。
「でも、もっと可哀想なのはギャルのメグルちゃんのほうかしら?」
相変わらず性悪ぶりに自然と眉を顰めさせられる。
「そもそもあんたがかけた呪いのせいでこうなってるだろ!」
「あはは!」と癇に障る笑い声をあげながら女神は僕から離れる。
「ちゃんと触れた人を惚れさせる力はまほろちゃんにも効いたでしょ。感謝してよね」
グイッと缶チューハイを煽った女神は空になったその缶をぐしゃっと潰して道端に捨てた。
「あの子にフラれたのが原因で惚れさせる力を望んだんでしょ? だからちゃんとまほろちゃんにも能力が効くようにしてあげたのよ。私は優しい女神様だからね」
「ふざけるな! もういい加減にしてくれ! この呪いのせいで僕の人生は滅茶苦茶なんだよ!」
「なんでそんなにその力を嫌うのよ? 諦めて自分の力の一部だと思って受け入れなさい。そもそもはあなたが望んだことなんだから」
女神は僕の怒る顔を期待している。それに気付いて無理に表情から怒りを消した。
すると女神はつまらなさそうに眉を少し歪めた。
ほんのわずかな反応だったけれど、それははじめてのことだった。
女神はいつも僕をいたぶってせせら笑っていた。しかし今、僕が怒らなかったことで確実に不快を示す表情を見せたのだ。
ほんの僅か、見落としてしまいそうな程度だが、思い通りにならなかったことに不快感を見せた。
「なるほど」
遙か高みにいて人間である僕を玩具にして退屈しのぎをしているように見えた。でもそうじゃない。
この女神にも弱点はある。僕が勝てる可能性もあるはずだ。
十五階建てのビルの屋上から飛び降りて死なないレベルの可能性かもしれない。だけどゼロではない。
しかしどうすれば勝てるのかは見当もつかなかった。
「何かを企んでる顔ね」
女神は再び嬉しそうに微笑み、鞄からウイスキーの小瓶を取り出してグイッと煽った。
「でも私に刃向かおうなんて考えないことね。あなたごときではとても太刀打ちできないわよ」
「年増のババアだけに手強いって訳ですね。うっ!?」
軽口を叩いた瞬間呼吸が出来なくなった。
「舐めた口利かないでね。次にババアって言ったら殺すわよ?」
女神は蟻を踏み潰す子供の目をして僕を睨んだ。
息が出来ないだけでなく、肺から酸素が奪われるような苦しみに見舞われた。怒らせて感情的にさせる作戦は二度としない方がよさそうだ。
「せっかく素晴らしい力を与えたのだから愉しみなさい。なにも躊躇わず、本能のままにね」
女神はゆっくりと消えていく。彼女の姿が完全に消えた瞬間、ようやく呼吸が元に戻った。
僕は無様に咽せて転げ回りながら、貪るように息を吸った。
本当にあの酔いどれの女神に勝つ方法なんてあるのだろうか。