無愛想女子の恩返し
明後日から夏休みという、生徒の誰もが浮き足立った放課後。
帰る支度をしながら斜め前に座る朋花の背中を眺めていた。
步果さんがやって来たあの日以来、僕と朋花は会話をしていない。
元々口を利いていなかったのだし、そもそも僕は他のクラスメイトともほとんど会話をしていないのだから不自然なことではなかった。
でもこのまま朋花となんの繋がりもなくなってしまうのは寂しい。
一方朋花はそんな僕の気持ちなんて知るよしもなく、いつも通り教室の隅っこ暮らしだ。
僕にとって朋花は世界で唯一の存在かもしれないが、朋花にとっての僕はただのクラスメイトでしかないのだろう。
『能力の効かない相手にだけは関わってはいけないわよ』
耳許で囁かれたように、女神の言葉が脳裏に響く。
果たしてそれは本当なのだろうか。
あの性悪な女神の言うことだ。そのまま信用する気にはなれなかった。
なんとかもっと朋花と仲良くなる方法はないのか。そんなことを思いながら斜め後ろの席から朋花の肩ごしの横顔を見詰めていた。
朋花が机から取り出したノートを鞄にしまうのを見て、息が止まった。
そのノートはカッターで切り刻まれ、太字のマジックで落書きをされていた。
「ちょっと、朋花」
驚いて声を掛けると朋花はビクッと身体を震わせながら慌てて鞄を閉じた。
「そのノート、どうしたんだよ」
「ノート? なんのこと?」
「惚けるなよ」
「あ、ちょっと!」
僕は鞄を奪い、中からノートを取り出す。ズタズタに切り裂かれたノートには『キモい』『死ね』『陰キャ』などという罵りが書き殴られていた。
「ちょっと返してよ」
「これ、誰にやられたんだよ」
「知らないよ」
僕の惚毒に冒された誰かの仕業だ。すぐにそう確信した。
きっと二人でいるところを誰かに見られたんだろうか。それとも歩果さんがこないだの腹いせでうちの学校の誰かに僕たちが付き合っていると情報を流したのかもしれない。
僕たちのやり取りを周りのクラスメイトが注視していた。
「ねぇ、誰? 朋花のノートをこんな風にした人は」
ノートを掲げて呼びかけると、水槽に手を入れた時の金魚の動きに似た素早さでみんなが視線を逸らした。
窓際の席に集まっていた派手な女子集団はこちらをチラチラと盗み見ながら、何やら小声で話し合って笑っていた。その中には水澤亜莉沙の姿もあった。
先日彼女にカラオケに誘われたことを思い出す。あの時は断って、そのあとすぐに公園で朋花と会った。もしかすると尾行されていたのかもしれない。
ノートを持って水澤の前まで行く。
「なに? なんか用?」
水澤は醒めた目で僕を見た。
「この『死ね』って書いている脇に『死ね』って書いてくれない?」
「はあ? 筆跡鑑定しようとかしてるわけ? 馬鹿じゃない」
その表情は刑事ドラマでしらを切る容疑者に似ていた。
周りの女子たちも「ウザい」とか「犯人扱いとかあり得なくない?」と非難を浴びせてきた。
「もういいから。やめて、三田君」
朋花は迷惑そうに僕の手を引っ張った。しかし朋花がよくても僕が許せなかった。
「こういうことする奴、本当に最低だと思うよ」
「さっきからなに言ってんの? 私がやった証拠とかあるわけ?」
「証拠はない。でもこんな陰湿なことするの、水澤さんくらいだろうし」
「はあ!? ふざけんなよ!」
水澤は思いっ切り手を振りかぶって僕の頬を引っぱたいた。正直避けられる速度だったけど、敢えて避けずにビンタを受けた。
「行こう」と水澤がその場を立ち去り、仲間達が後をついていく。
教室内にはなんの根拠もなく水澤を犯人扱いした僕を非難する沈黙が訪れた。
異物を排除しようとする団結力を正義感と曲解した空気は、僕が教室を出ていくまでずっと続いていた。
「なんであんなことしたの」
あとを追い掛けてきた朋花はかなり怒っている。しかもその怒りの矛先は殴った水澤にではなく、僕に向いていた。
生き方が下手くそな人に限って、世渡り下手を見ると説教したくなるものだ。だから生きづらい思いを抱えた者同士は仲良くならない。
傷を舐め合えば、今より少しはマシになるのに。
「勘違いしないで。あれは別に朋花のためじゃない。自分のためだから」
「あれのどこが自分のためなわけ?」
「さっきのことで完全に水澤は僕に嫌悪感を抱いただろう。これでひとり、付き纏ってくる人が減った」
「なに、その無茶苦茶な作戦」
僕の説明を聞いた朋花は呆れながら笑った。
「その後、步果さんからは連絡あった?」と歩みを止めずに訊ねる。
「ううん。でも步果と同じ高校に行ってる人に訊いてみたら、本当に例の彼氏とは別れたみたい。よりも戻してない」
「そっか。よかったね」
步果さんにも憎まれた方がいい。
僕が女性を幸せにするためには、結局憎まれるしか道がない。出来損ないの童話みたいな、皮肉な話だ。
「步果さんが僕と朋花が付き合っているって情報を流したって可能性はないのかな?」
恨みとか疑りとかではなく、純粋な疑問として問い掛けた。
「それはないんじゃないかな。そもそも三田君が色んな女性に好かれているってことを步果は知らないんだから。三田君が誰と付き合ってるなんてことを言い回っても大騒ぎになると思わないでしょ」
言われてみればその通りだ。さっきの取り乱し方から見ても、やはり水澤達が犯人なのだろう。
「そうだ。僕のせいでノートが台無しになったんだから弁償するよ」
「なんで三田君のせいなのよ。むしろ私のせいで三田君に迷惑をかけていると思うけど」
殊勝なことを言ってくれるが口ぶりは淡々としており、迷惑をかけているという自覚なんてまるでないようだった。それがおかしくてつい笑ってしまう。
ノートを購入した後、二人で喫茶店に入った。朋花は悩んだ末に桃のタルトを注文する。
妹さんにも同じものをお土産用として注文しておくあたりはさすが朋花だ。
「実はこないだ二人ではじめて步果さんに会いにいった前日、僕は久しぶりに例の女神と再会したんだ」
伏せていた事実を伝えると、名残惜しそうにメニューを見ていた朋花は顔を上げた。
「女神ってあの触れた相手を惚れさせる力を三田君に授けたっていう?」
「そう。小学生の頃に初めて会ったとき以来、二回目だ」
女神との会話の内容を朋花に伝える。
罠のような一つだけ許された質問、惚毒が効かない相手に注意すること、そしてその人物と僕が既に出逢ってしまったことも、包み隠さず全て伝えた。
朋花はほとんど無感動でその話を聞いていたが、さすがに少しは驚いている様子ではあった。
「僕は正直惚毒が唯一効かない相手というのは『伊東まほろ』だと思っていた。僕があんな馬鹿げた力を女神に要求する原因となった初恋の相手である伊東まほろ。そのまほろにだけが僕を好きにならないという呪いをかける。いかにもあの性格のねじ曲がったあの女神が考えそうなことだ。でも違った」
「違った? なんでそう思うの。三田君はそのまほろさんに惚毒の力を試してないんでしょ?」
運ばれてきたアイスコーヒーにストローを挿しながら朋花はそう訊いてきた。
「試してはいないけど……でも実際、朋花には僕の力が効かないし」
「だからそれは私が誰にも恋をしないって心に誓ってるからだよ」
「そんなことであの力が効かなくなるなんて本当にあるのかな?」
あれだけ頑なだった步果さんだって効いたのだ。恋をしないと念ずるだけで防げるとは思えない。
それならば朋花が毒の効かない唯一の人だからと考えた方が自然だ。
「そんなに気になるんだったらそのまほろとかいう子に会って確かめたらいいじゃない」
朋花は面倒臭そうにそう言ってアイスコーヒーを勢いよく吸った。
「まほろに? いや、でも。どこにいるか分からないし」
「そんなもの、調べたら分かるんじゃない? 昔の同級生に訊くとか」
「それはそうかもしれないけど」
小学校時代の女友達は、それこそもう二度と顔を合わせたくない状況に陥った子が多い。なにせ能力を得て半年は好き放題その力を使って遊んでしまったからだ。
僕一人のせいでクラスの女子たちはあらゆる友情が破壊され、それに伴い男子たちも喧嘩をし、登校拒否をする生徒まで現れて、クラス崩壊の危機にまで陥ってしまった。
「その様子じゃとても小学校時代のクラスメイトに会わす顔もないって感じだね」
状況を察したのか、朋花は口許を歪めて笑った。
「分かった。私も三田君に助けて貰ったから、今度は私が助けてあげる」
「いいの?」
「まあまほろさんと会うことが三田君にとって救いになるのか、より苦しめるのかは分からないけどね」
「いや。このまま悩みながら生きるより確認しておきたい。それにまほろにも謝りたいんだ」
女神にかけられた呪いに抗うためには、逃げるのではなく戦うしかない。まほろと会うことはその第一歩のような気がしていた。