僕の手のひらに宿る力
僕が恋をしたのは、僕に恋をしない女の子だった。
そんな風に言うと「ああ、叶わぬ恋の話か」と思われるかも知れないが、そうではない。
文字通りの意味で僕は『僕に恋をしない女の子』に恋をした。
これは手で触れるとどんな女性からも想いを寄せられてしまう呪いをかけられた僕と、決して恋をしない女の子の、歪な恋の物語である。
「暑っいなぁ」
恨めしげに呟いて空を仰ぐ。まだ六月の半ばだというのにこの暑さでは先が思い遣られる。
「もう無理。手袋を脱ごう」
ここまで来ればもう知り合いと会うこともないだろう。
手袋を外して大気に晒された手は、メンソールでも浴びたようにスーッと心地よく冷たくなる。
汗まみれの手を拭こうと鞄の中からハンカチを出そうとしたその時、急速に迫ってくる自転車の車輪の音が聞こえた。
振り返る暇もなく次の瞬間──
「おらっ!!」という叫び声と共に背中に衝撃が走った。
「うわっ!?」
蹴飛ばされた勢いでそのまま道端の草むらに転げ落ちる。
ようやく顔を上げたときには、僕を襲った二台の自転車は笑い声を上げながら遙か遠くへと逃げ去った後だった。
制服からして、同じ高校に通う生徒だろう。
「はぁ……またか……」
きっと自分の彼女が僕に惚れてしまって捨てられた男の逆恨みだろう。
もしくは自分が正義の側に立つと信じて疑わない『正義マン』の犯行かもしれない。
「まあ、別にどっちでもいいけど」
立ち上がろうとすると足首に痛みが走り、バランスを崩してまた転んだ。
擦り剥いた肘に血が滲んでいるのを見て大きく舌打ちをした。
「なにが『偉大な力』だ。呪いだ。こんなの、呪い以外のなにものでもないだろ」
立ち上がるのすら馬鹿馬鹿しくなり、乾いた笑いを上げながらその場に寝転ぶ。
咽せるほどの青臭さを放つ雑草は昼に降った雨の残り露で濡れており、僕の身体を湿らせる。
綿を極限まで引き伸ばしたような薄い雲越しに見る空は、僕の心とは正反対に清々しかった。
「大丈夫?」
「わっ!?」
視界を遮るように突如ぬっと覗き込む顔が現れた。
「志津野……」
「立てそう?」
心配そうな雰囲気もなく淡々と訊ねてきたのは、うちのクラスの志津野朋花だった。
物静かで誰とも関わろうとしないのは僕と同じだけれど、彼女の場合は僕と違いきっちりと存在を消し去ることに成功している。謂わば存在の空気化のプロだ。
もっともそれが彼女の望むところなのかは知らないが。
「ああ。平気だよ。気にしないで」
「そうもいかないでしょ。ほら立てる?」
志津野は面倒そうに手を伸ばしてくる。でもその手を掴むわけにはいかなかった。
なにせ僕は手には厄介な力が宿っているのだから。
「大丈夫。一人で立てるから」
「平気なんだったら早く立って」
志津野は素早く僕の手を握り、勢いよく引っ張り上げる。まるで倒れていた自転車を立たせるような、そんな面倒くさそうで事務的な動作だった。
「わっ!? ちょっと!?」
慌てて立ち上がり、手を振り払ってから朋花の顔を見る。
これだけ思いっ切り素手を握ってしまったのだから彼女に影響がないはずがない。
ところが志津野は先ほどまでと同じように無表情で僕を見ていた。
「あの、志津野。大丈夫? なんともない?」
「は?」
志津野は怪訝そうに眉をしかめた。
「……それ、私のセリフなんだけど?」と擦り剥いた僕の傷を見る。
「そ、そうだよね。ははは……」
どう見ても彼女の視線は好意を抱いている相手に向ける類のものではなかった。
志津野は僕の手に触れても恋に落ちない?
まさか!?
彼女がその選ばれた唯一の女性、ということなのか!?
驚きのあまり目を見開いて志津野の顔をまじまじと見詰めてしまった。
「どうしたの? もしかして頭とか打った?」
「い、いや。なんでもない。平気だよ。ありがとう」
不審げに首を捻る彼女に慌てて否定して礼を述べた。
「何があったんだか知らないけど、大変だったら先生とか親に相談した方がいいよ。イジメとかだったら一人で抱え込まない方がいいと思う。まあ、よけいなお世話だけど」
それだけ言うと朋花は僕に背を向けてさっさと駅の方へと歩いて行ってしまった。
僕は惚けたようにその背中が視界から消えるまで見詰めていた。
世界中のどこかにいるという僕が手で触れても恋に落ちない唯一の女性。
ずっと探し求めていたその人物は、意外にも高校の同級生だった。
僕の持つ不思議な力。それは『手で触れた女性から想いを寄せられてしまう』という厄介なものだった。
何かのいやらしい比喩ではない。文字通りの意味で僕はそんなふざけた能力を持っている。
僕はそれを『惚毒』と呼んでいた。
その惚毒の力を手に入れたのは今から五年ほど前の、小学六年生の頃だ。
当時の僕は『伊東まほろ』という女の子に片想いをしていた。クラスでもまほろが好きな男子はたくさんいるという典型的な美少女キャラだった。
僕とまほろは六年生になってから急速に仲良くなっていった。
一緒の塾に通っていて、帰りはいつも二人きりで並んで帰る仲だった。
「まほろも夏期講習に出るの?」
塾の帰り道さり気ない口調で訊く。もしまほろが参加するなら自分もすぐに申し込もうと決めていた。
しかし不意に立ち止まった彼女の返事は、イエスでもノーでもなかった。
「ごめん、三田君。私、引っ越しするの」
「えっ!?」
突然の告白に頭が混乱し、もはや夏合宿のことなんて跡形もなく脳内から消えていた。
「いつ?」
「今週の日曜日」
「えー!? 今週の日曜って……今日が金曜日だから明後日じゃん! 絶対嘘だ」
あまりにも急すぎて、まるで現実感が湧かない。嘘をついているとしか思えず笑った。
しかしまほろは愛想笑いも浮かべず、静かに首を振った。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ!」
悲しいとか寂しいとかじゃなく、無性に悔しかった。
つい責めるような口調で少し大きな声を出してしまうと、まほろは少し怯えた様子で半歩後退る。
「僕たち友達だろ? そんな大切なことなんで隠してたんだ!」
「親の都合だよ!? 遠くに行っちゃうんだよ!? そんなこと昴に言ったってどうしようもないでしょ!」
まほろは悔しそうな顔を歪ませ、走って逃げだそうとした。
「待ってよ、まほろっ!」
慌てて追い掛けた僕は、バッタを捕まえるかのような勢いでまほろの手を掴んだ。
思えばこの時、僕は初めてまほろの手を握った。その細さや肌の温かさにドキッと胸が震える。
「離してよっ!」
まほろは僕の手を振り払って汚らわしいものを見るような目で睨んできた。
どう考えても告白するタイミングじゃない。
今の僕ならそれくらい分かる。
でもこのときの僕はその一言さえ告げれば何かが変わる。何故かそう思ってしまっていた。
「好きなんだよ! まほろが大好きなんだ!」
「えっ……」
「ずっと好きだった! だからどこにも行かないでくれよ!」
何故そんなことを言ってしまったのか、よく分からない。きっとその頃観ていたドラマかマンガの影響だったのだろう。
家庭の事情で引っ越す女の子に「君が好きだからどこにも行かないでくれ」などと言って、どうなるものでもない。あの時の僕はどんな奇跡を夢見て、あんなことを口走ったのだろう。
「もうやめてよ! 昴なんて大嫌いっ!」
まほろは怒りを露わにして、駆け足で逃げていってしまった。
期待していた展開とも、ドラマで観るような展開とも、もちろん違っていた。
一人残された僕は、馬鹿みたいに呆然とその場にしばらく立ち尽くしていた。
フラれてしまったこと。
彼女が遠いどこかに行ってしまうこと。
傷つけてしまったこと。
嫌われてしまったこと。
自分が何もできないこと。
初めて味わう人生の大きな挫折だった。
フラれたショックとまほろがいなくなってしまうという絶望に苛まれ、一人でフラフラと当てもなく夜の街を彷徨い、気がつけば飲み屋街の裏路地を歩いていた。
時刻は午後十時を回ったくらい。夜の繁華街ではまだ宵の口でも、小学生の僕にはとんでもなく遅い時間だった。
そんな時間に見覚えのない路地で迷子になり、少し焦っていた。
そろそろ帰らないといけないと駅を探しながら歩く。知らない角を適当に曲がる度に、より深みに嵌まっていくように見知らぬ景色に変わっていった。
(こんなところで迷子になったのも、まほろのせいだ!)
八つ当たりをしてみたが、泣きそうな顔をしていたまほろを思い出すと胸が痛んだ。
焼き鳥の香ばしい煙が店先からもうもうと立ち上がり、お腹がぎゅるると音を立てる。
さすがに子供が一人で赤提灯の暖簾を潜るわけにも行かず、空腹を堪えながら小走りでその角を曲がった。
──そこで酔い潰れて壁にもたれて地面に座る女の人と遭遇した。
先ほどまであれほど賑やかだったのに、何故か周りに人は誰もいない。ちょっと異様な気配を感じた。
でもその人が心配で思わず声を掛けてしまった。
「あの……大丈夫ですか?」
「んー?」
その女性は気怠そうに顔を上げる。
長い髪をバサッと顔の前に垂らして、その隙間からぎょろっと大きな目で僕を見上げた。
まさにホラー映画で見るような、あんな感じだった。
恐怖のあまり僕は悲鳴を上げることすら出来なかった。
「酒……お酒を持ってきて」
酒臭い息でそう訴えてくる。お父さんが酔っ払ったときとそっくりだった。
「もうお酒はやめといた方がいいですよ」
僕は近くにあった自販機でミネラルウォーターを買ってその女性に差し出した。
お父さんが酔っ払ったときはいつもお母さんが水を飲ませている。それに倣った行動だった。
「ありがと」
その人は僕から水を受け取るとキリッと封を切り、一気に五百ミリリットルを煽ったと思うと、「ぶふぉっ」と吐き出した。
「何これ!? 水じゃないの!」
水にそんな即効性があるとはとても思えないが、その女性は急にシャキッとして立ち上がった。
「飲み過ぎはよくないよ、お姉さん」
「生意気なこと言うのね」
その女性は忌々しげに僕を睨んでいたが、急に何か閃いたような笑顔を見せた。
「ま、いいわ。おかげで酔いも醒めたし。お礼に何か一つ、『偉大なる力』を授けてあげるわよ」
「いいです、そんなの」
明らかに怪しい。二三歩後退るとその女性は静かに微笑みながらにじり寄ってくる。
「怪しいものじゃないのよ。私は女神なの」
怪しさしかない。
本気で怖くなって足が動かなくなってしまった。
でも今に思うと、恐怖で足が竦んだのではなくて、女神の力で動きを封じられたのかもしれない。
「ほら。言ってごらんなさい。何か嫌なことがあったんじゃないの?」
——嫌なこと
そう言われた瞬間、まほろに手を振り払われた記憶が甦った。汚らわしいものを触った時のような、あの激しい拒絶の動きを。
きっと女神の質問は僕にそれを思い出させる誘導尋問だったのだろう。
「あるでしょ。こうなったらいいのにと思う願望。その力をあなたに授けてあげるわよ?」
女神は妖艶に微笑みながら僕の頬を撫でる。
鳥の羽のように柔らかく、氷のように冷たい、不思議な感覚だった。
3DCGのようにシンメトリーで美しい女神の顔立ちに魅せられ、頭の中がカッと熱くなった。
「触った人を」
僕は何かに憑かれたように自分の手を見詰めながら女神に願いを語り始めていた。
「この手で触った女性、全てが僕に恋をする能力を下さい」
何故たった一つの願いをそんなことに使ってしまったのか、悔やんでも悔やみきれない。
お金でも学力でも才能でも、他にいくらでも望むものはあったはずだ。
もっとも幸運を与える振りをして僕を苦しめた女神のことだ。違うことを叶えてもらったところで、ろくなことにはなっていなかった可能性は高い。
「お安い御用だわ」
女神は僕の眼前に手を翳した。
次の瞬間、眩い光が溢れて僕の網膜を刺激した。
「うわっ!?」
理科の実験でスチールウールを燃やしたときの眩しさより更に激しい光で、とても目を開けていられなかった。
光が収まったあともまぶたの裏には白い残像が残っており、なかなか目が開けられなかった。
「約束通りその手で触れた女性全員があなたに恋する力を授けたわ。ただしこの世の中に一人だけ、あなたのその能力が通用しない女の子がいる。その子にだけは恋をしないことね。可能ならば近づくことも避けた方がいい。必ずあなたに不幸をもたらすことになるから」
眼球が焼き付いてしまったかのような真っ白な視界の中から、女神の意地悪そうな声の忠告が聞こえた。
「えっ!? その通用しない人って」
ようやく視界が戻ったとき──
「あれ……?」
僕はいつの間にか自宅の前に立っていた。先ほどまで繁華街の裏路地にいたはずだ。
辺りを見回しても先ほどの女神の姿はなかった。
その時から僕は触る女性全てから惚れられてしまうという、この忌まわしい力を手に入れてしまった。