過去編:炎に濡れた一輪の花
最初に見た景色は、濃淡すらも不確かなまでの赤色だった。
燃え盛る世界の只中に一人、こうして立っている。
聞こえるのは火花の産声。
そして、誰かの鳴き声。
赤子だろうか、喉の奥底から絞り出されたような声が今にも絶えそうな生命の在処を呼び叫んでいる。
手探りで踏み出す一歩は体の芯へ染み込むように熱く、痛みより耐え難い感覚が皮膚に染み込んで離れない。
───どこだ。どこなんだ。
されどこの体は前進することを止めない。
答えを探すように、狂気に満ちて、しかして冷静に。
理由までは分からない。
それでも尚進まなければいけない、そんな脅迫染みた意思だけがこの背を押している。
───その生を止めるな、その怒りを絶やすな。
そうして伸ばした左腕は、ある筈のないその手は、赤子の指先に触れた気がした。
◇
俺がその少女を見つけた時、彼女はまだ幼かった。
木陰に預けたその体は煤と泥に塗れ、一糸も纏わぬ肌を辛うじて隠している。
驚くと共に俺は鞘を落としながらも少女の元へ駆け寄っていた。
ここは国内のとある山中、地図にも載らないような未開の地……見覚えの無い人間がいること自体不自然極まりない。
瞬間、左肩の古傷に走る痛みの波紋。
その時熾った感覚は、何時ぞやかに見た夢と酷く似通っていた。
少女の元で屈んだ時、俺は改めて事の異常さに気付く。
それは彼女の四肢で小さな炎が燻っている事でも、一方で火傷らしい痕が見当たらない事でもない。
生い茂った藪の向こうから覗いた景色に対して、その時の俺は少なからず畏怖を覚えていた。
黒く焼き払われた地平、燃え立つクレーターの淵……。
山の中腹が爆心地の如く焼失している。
それが彼女との出会いであり、俺が見た故郷の最期であった。
◇
俺は少女を捨て置けず、その日の内に現在の住まいである隣山の庵まで運んだ。
幸いにしてその体は羽毛のように軽く、鍛えているとは言えこの老体が壊れることはなかった。
しかし、本当の面倒はそれから暫くの間続いていく。
まず目を覚ました少女は体から溢れる炎を御しきれず畳が全焼、更に見知らぬ俺を避けようと熱線を向けてきたのだ。
その時は俺の能力で抑えることに成功したが、結果として庵は全焼、引っ越しを余儀なくされた。
新しい住居を見つけるまでにも苦労は絶えない。
そもそも、この時点で少女の衣服が無いことが何よりの問題だった。
これは決して老後の山暮らしが困窮している訳でも、俺がその手の趣味を持つ訳でもない。
有り余りの服を着せようにも彼女の発火能力によって瞬時に燃えてしまうのだ。
後に分かることだが彼女の体内は常に高温を維持しており、小さな掠り傷1つからも凄まじい熱を放散するらしい。
この問題は我が家に伝わる宝物、不燃の効果を持つ『火鼠の衣』を着物に仕立てることで解決したが、お陰で俺は家宝を失い、加えて少女の面倒を見る羽目になってしまった。
町の養護施設に託そうにもいつ能力が暴走するか分からない。
更に「おじいさま」などとなつかれてしまっては、最早手放す訳にもいかなかった。
◇
「おじいさま、おじいさま! 今日の修行は如何様に?」
「そうさな……やはりお前は熱の扱いがまだ雑把と見える。ならば基礎を固めるべきだろう。これより儂が振るう炎刃、その流れを見切るのだ」
「承知しました!」
茅葺の廃屋に越してからというもの、俺は自らを「儂」と呼ぶことが多くなった。
若い頃は父の影響でよく使っていたが、ある日を境に使う気が失せていた……そんな一人称を今日も口にする。
実質的な娘が出来たことで歳を自覚したか、将又彼女の手前威厳ある義父を演じたかったか。
いずれにしても少女の存在が俺……否、儂の在り方を、怒りの在り処を変えたのは確かだろう。
「上段……下段……次は袈裟懸け!」
「……宜しい。では続いて、今の炎の流れを真似してみよ。再三述べるようだが傷口は最小限に抑えるのだ」
少女が取り出した短刀を手に宛がうと、傷口から漏れ出た炎が昇竜の如く噴出する。
非常にショッキングな発火方法だが彼女自身に痛覚は無く、傷口は任意で塞がるらしい。
炎熱のコントロールを学び始め早3ヶ月。少女は自力で炎を抑え込める程度には成長していた。
相変わらず細やかな気の操作は不得手な様だが、純粋な火力においては少なからず儂を超えていると見ていい。
しかし一方で能力への理解や知識は未だ乏しいと言えよう。
それもその筈、今の彼女には圧倒的に経験というものが足りない。
一般知識然り、成功経験然り……自分の扱うそれが普通の炎でなく、熱という概念そのものへ昇華されつつある、そんな事実すらも閉塞した山の生活で知る術はほとんど無いだろう。
そんな事を考えると、少女の将来が尚更不安になってくる。
ただでさえ、隠し事は多いというのに……。
◇
「…………義父様?」
数年が経ったある日の夜分、玄関へ向かう儂の背を少女が呼び止めた。
既に就寝時間だというのに、足音を消した儂の気配に気付けるようになったらしい。
「少し用事があっての。遅くなる故お前はもう寝るといい」
「今宵も往かれるのですか……?」
「…………」
少女の成長は予想を遥かに上回っていた。
儂が日頃から夜遅くに外出していること、それを知った上で、よりにもよって今日に声を掛けたのだ。
そう云えば、最近少女には修行の折に相手の気の差異を見極めるよう言ってある。
ともなれば彼女は、儂の心持が普段と違うことに気付いたのか。
……或いは、この心に出来た陽だまりが慢心を招いたか。
いずれにせよ隠し事はやがて暴かれるということなのだろう。
「……ああ、役所で手続きをせねばならぬ」
「はぁ……どうかお気を付けて……」
「……もし、お前が……」
「……?」
「お前が信じる道を持った時は、犀の角の如くお前の道を往くがいい…………例え、儂の道と違える事になったとしてもな……」
「あちきの、道……??」
「いや何…………夜道は危険という話だ。聞き流してくれて構わぬよ」
そうして、儂は振り払うようにして家を出た。
麓の街唯一の駅から目指すは東京、汐ノ目の街。
人ならざる少女を『普通』たらしめてくれるのは、世界広しと言えどあの場所しか無いだろう。
やはり彼女には安寧の世を生きてもらいたい。
人の道と交わり、常識を知り──────どうか、儂の二の舞とならないでほしい。
しかして、そう思う一方で罪悪感が首筋を撫でている。
故郷から逃げて、社会から外れて、道徳を捨て、在り方を歪めて──────そしてこの日、儂は少女を突き放したのだ。
◇
「──────血の臭いがするね」
それが久々に会った友人の第一声だった。
「同じ言の葉を返せるのは何故だろうな?」
「さぁ? こればかりは企業秘密というヤツだ」
「近頃の貴殿はそればかりだな。本人なのか確かめたいところだが…………」
「正真正銘、私は藍川紫皇だよ。どこにでもいる、普通の経営者さ」
談話室に放った言葉を自らはぐらかしては崩していく。
そんな不定形な人格が最近の“彼らしさ”というものだった。
始めて知り合った頃は仕事に、子育てに、1人奮闘する青年といった印象しかなかった。
しかし最近は不穏な言動や役者染みた態度が目立つ。
まるで別人が乗り移ったかの様な、そんな男を今宵は説得せねばならない。
「さて、君の養子を我が汐ノ目学園並びに学生寮に入れたいとの件だが……少々そちらに条件が良すぎるのではないかね? 私を頼ってくれたのは嬉しいが、こちらもビジネスという事を君は分かっているのか?」
「重々承知している。その上での頼みだ」
「そうは言うが、金銭面だけの話ではないのだよ。君の話を聞く限り、その子は間違いなく“次世代の君”だ。隔絶された村の悪習、呪術紛いのカルトが生んだ、世界の被害者にして加害者に他ならない」
「それ故になのだ。あの子はまだこの世の闇を知るべきでない」
「もう知っていると思うがね。一度生贄にされた以上、生前の記憶を取り戻すのは時間の問題だ。君が剣士として堕ちたのも、元を辿れば同じだろうに」
「…………」
旧友が言葉を発する度、あるはずの無い左腕が幻痛に震える。
この様な時にもかかわらず記憶の奥底へと沈んでいく意識。
どうやら過去は決して儂を逃さないようだ……。
◇
儂が生まれた村は長らく貧困に喘いでいた。
山々に囲まれた未開の地に文明が入り込む余地は無く、発展という概念すら村民の脳内には無い。
数百年に渡り農業と村八分だけで食いつないできた地域である、豊かになるという発想すら生まれないのだろう。
村に名前が無いのもその表れである。
個人の願いも、夢も、この場所では今日を生きる糧にはなり得ない。
少なからず、子供の儂は人の眼の輝きというものを見たことは無かった。
しかし、この村の異常さは別の点にある。
宗教もまた数百年…………否、数千年単位で変化していないのだ。
村を仕切っている神主や老人達しか詳細は知らないが、どうもこの地域一帯は元々拝火教の神が祀られていたらしい。
土地神にして祟り神たる存在を抑え奉るべく一族は外界との行き来を遮断し、持てる全ての財産を信仰へとつぎ込んだ。
詰まる所、村そのものが荒ぶる神への供物だったのだ。
その証拠に、この村では十数年に一度託宣により選ばれた村人が人柱として生贄に捧げられる。
儀式を経たその者は生ける炎となり、死ぬまで燃え続けるという。
今思えば、表情一つ変えず子供たちに話すような昔話ではない、狂った大人が漏らしたエゴでしかないと言えよう。
そんな村の異常さに気付き始めたある日、儂の人生を一変させる出来事が起きた。
「───不知火少年、君には村から去ってもらう」
祭事の近付いた夏の頃。
物心が付いたばかりの儂に、大人は犠牲になれと言った。
神のお告げとは言っていたが、信仰に支配された村にとって客観的な視点は害悪なものだったのだろう。
でなければ、身体の一部を欠損させた状態で山に放つような事はしない。
目を抉り、足の腱を切る必要もただの村八分にあるはずがないというのに。
今までの犠牲者達、その末路を知っていた儂は一目散に逃げ出していた。
──────やはり、この村は狂っている。
雑木林を駆けながら、改めて儂は恐怖していた。
痛みすら鈍い左腕は皮一枚を残して肩にようやく繋がっている。
まさか実の父に切られるとは思わなんだ。
失血により倒れるのは時間の問題だろう。
背中の方からは言葉にすらならない怒号が聞こえてくる。
この様子では儂がどこを目指しているのか追手達も気付いたらしい。
木の根につまずきながらも持てる力を振り絞り山の斜面を駆け登る。
どうせこのまま死に絶えるならば、いっその事全てを壊してやろう。
限界を超え朦朧とする視界に、村の中心たる神殿が映る。
やるべき事は決まっている。
乱雑に扉を開け、倒れるように社へ侵入する。
人柱が“生ける炎”となるならば、逆に言えば“燃えている限りは死なない”と同義ではないか。
床に血溜まりを作りながらも、神体と思しき炎の前まで這っていく。
何でもいい、なるようになれと、
左腕を千切り取り、炎の中へ投げ入れる。
刹那、世界が赤に染まって──────
誰かの悲鳴が聞こえて──────
そこから先は、あまりよく覚えていない…………。
◇
「そうして君は“神を奪った”。“火種”でありながら人として、傭兵として、人殺しとして───今をのうのうと生きている。そうだろう?」
「…………」
「これは私の予測だがね、恐らく村の人々は“神の代わり”を作ろうとしたのさ。君が村を去った後、一部の人間達の利益を維持しようとした。残り火でもあったのか、適当な少女を見繕い新たな“火種”に仕立てようとした…………その末路が暴走とは、何とも滑稽な話じゃないか」
「……ッ!!」
気付いた時には、切っ先より先に肩から漏れ出た火が友人の首を焼失させていた。
行き場の無い憤怒が、過去が、黒煙と共に燻っているのが分かる。
あの時の儂が愚かだったのか、あのまま死ぬべきだったのか。年老いた今も尚その答えは出せていない。
「……失敬、失敬……お互い悪癖が出てしまったようだ」
顔を上げると───既に首を再生させた友人が微笑んでいる。
嗚呼、この男も儂と同類なのだろう。
誰かを殺めなければ生きていけない───人の形をした怪物だ。
この腐敗した世界を脅かす、矛盾を抱えた復讐者。憎しみに魅入られた信徒なのだ。
そんな者達が果たして、誰かの人生を決めて良いものか……?
俯く儂に構わず友人は話し続ける。
「さて、お詫びと言っては何だが1つ妥協案がある。四……ではなく、五元将という制度を知っているかね? 特別な監視プロトコルの発案と自衛戦力としての任を呑んでくれるのであれば…………どうした? 顔色が悪いじゃないか?」
愕然と、流されるまま、儂は首を縦に振っていた。
◇
程なくして、少女の汐ノ目学園入学が決まった。
あの男に貸しを作ったのは癪だが、彼女の実力ならば少なくとも一方的にされるがままといった状況にはならないだろう。
しかし、尚も不安が残るのは儂自身がこの選択に疑念を抱いている証拠だろう。
ただでさえこの手で多くの未来を絶ってきたというのに、幼子に満足な明日すらも見せる事の叶わない、そんな自分への嫌悪なのだろう。
数年が経った今でも思い出す。
儂が積み重ねてきた生は、この世界を、誰かの道行を如何程に変えてきたのだろうかと。
「やはり、別れとは寂しいものじゃのう…………」
ふと出た言の葉を飲み込んで、今宵も紅色の柄に手を掛ける。
あの日触れた感覚を思い出すかの様に、指先から心臓へ熱を灯していく。
瞬間、抜き放った刃は眼前の誰かを焼き切り、散華させる。
目標は後3人。救済の名の下に怯えた背中を追いたてる。
悲しい哉、やはり残されたこの腕は遍く命を刈り取る為にあるらしい。
ならば自分の出来る手段で世界を変えてみせる。不完全で、救われないこの世界を。
この身が神に食い尽くされるより前に─────
─────全ては、新たなる世の黎明を見る為に。
この話をもって短期集中連載は一区切りとさせていただきます。
次回以降についてはまた期間が空いてしまうかもしれませんが、必ず完結まで継続する所存です。
時折更新しているかもなのでチェックしていただけると幸いです。
それでは皆様、2日間お付き合いいただき誠にありがとうございました!




