第7話:幻想対水月
汐ノ目学園第3屋上。
南校舎の最上階に学園最大のプールはあった。
7月の陽光煌めくこの場所では今まさに2人の人物が向き合うようにして立っている。
────1人は現Itafリーダーにして歴戦の猛者、有片真也。
────もう1人は季節にそぐわぬ袴と道着を纏った少女、その手には大振りの木刀が1つ。
著しきは彼らの立場、足元にあるべき場所に床など無く、替わりに水面が凪いでいる。
如何なる手法か、両者は文字通りプールの上で重力に逆らい対峙しているのであった。
共に拳と剣を構え合う寸刻。
それは不意に吹いた風―――1つの波紋によって破られた。
開幕、真也は水面を踏み切り距離を詰めきる。
その腕が狙った少女は一寸ばかり後退し、即座に水平切りの弧を描く。
真也もまたその一撃を頬へと流し、間髪を入れず反撃に転じる。
踏み込みは先ほどよりも深く、加速された拳を機関銃の如く、放ち、穿ち、貫き通す。
しかして、いずれも不発。
【絶対刹那】による動的時間の添加、それ故に速度において真也が圧倒される道理などあるはずが無い。
それでも尚、少女は必要最低限の足取りと剣筋をもって彼の乱打をかわし、往なし、それどころか次なる一撃をも狙い澄ましているのだ。
深追いは禁物と、真也は木刀の間合いを抜けようとする。
刹那、少女は水面に剣を振るった。
一見無駄な動作である。
しかし異なる時間軸を生きる真也の目に、それはしっかりと映っていた。
弾けた幾つもの飛沫が中空にて明らかなまでに加速し、まるで矢の如くこちらへと向かってきている、そんな一部始終を。
ただの水滴には違いない。
それでも真也は直感的に拳を握り直し迎撃した。
その手に伝わる感覚は水とは思えない程に重く、弾幕と何ら相違ない。
彼の視界の奥では少女が再び木刀を振り上げ既に第二撃を進行させている。
このままでは旗色の悪さは変わらない。
最後の飛沫を目前に、真也は攻勢に転じるべくその布石を打った。
前傾姿勢のままに右の掌を突き出し最後の飛沫を受け止める。
時間を奪われ停止したその一滴を足掛りに踏み切り、真也は燦々たる空へと飛び立つ。
途切れることの無い時の流れが如き攻勢、それこそが【絶対刹那】の本領である。
尚も繰り出される水の弾丸をも足場とし更なる跳躍、目指すは決着の一撃。
彼の眼に映るのは剣士たる少女の次なる動作。
飛び道具が裏目に出つつある為か、その動きは自暴自棄というか、怒り任せに水面を叩いただけに見えた。
無論これまでの彼女の動作は終始無駄無く、その全てに次なる剣技への布石が打たれている。
これもまた同様に、しかし異常に。
剣が弾いた水面は一度大きなうねりを見せ膨張し、やがて空へと落ちる滝となった。
3対ばかりの水柱を眼下に見据え、真也はかの大蛇殺しの英雄はこんな気持ちだったのだろうかと想いを馳せる──────ほんの一瞬。
恐怖はあれど彼の行く先は最早下方にしかない。
ベルトに付けたモーターを震わせ、彼は高速の降下を開始した。
四方から襲い来る激流の大蛇。
真也は早々に一匹目を四散させ二匹目を突貫。
三匹目の背を駆け抜け更に加速、残る全ては拳をもって打ち砕く。
圧倒的な水量に溺れそうになりながらもあと一歩、もうすぐ少女の間合いに入るはず。
その一歩を見誤ったことが仇となった。
水の壁を抜けた真也が繰り出した拳。
彼の一撃は少女の左脇をすり抜け、不発。
同時に、これ以上無き間合いによる木刀の突きが放たれる。
こうなってしまっては速度など関係無い。
吹き飛ばされた真也はプールサイドの壁に背から激突してしまう。
薄れゆく視界の中、微かに動いた少女の唇が何かを告げている。
「人が如何ほど手を伸ばそうと、水面の月には届くまい?」
彼の意識はそこで途絶えた。
◇
「―――――というわけで左手骨折しちゃってさ?」
「しちゃってさ? じゃねぇ!」
ギプスを見せつける真也に小手川がシャウトする。
その日の午後、Itaf本部には動揺が広がっていた。
メンバーの中で最も実戦経験の豊富な真也、彼の敗北は今回の事件が如何に一筋縄ではいかないかを示すのに十分過ぎる出来事である。
「会長を倒す......それもほとんど動かずに、となると......まさかなぁ」
「どんな相手だったんですか、有片先輩?」
蛍の質問し対し、
「ああ、もう相手の調べはついている」
真也は続ける。
「――――――神凪八重、汐ノ目学園4年の剣道部主将。どういう訳か2日前から屋上のプールを勝手に占拠中だ」
「剣道部主将……やはり五元将案件ですか」
先程まで難しい顔をしていた明智が口にしたのは蛍の聞きなれない単語だった。
「あのっ、すみません。『五元将』って何ですか……?」
「おっと、蛍にはまだ話してなかったか? 『五元将』ってのは、言ってしまえば学園内でも最強クラスのトップ5人。下手に暴れられたら困るんである程度の優越権が与えられた生徒のことさ」
「トップ5人……そんなに強いんですか?」
「能力どころか、それを差し引いても足りない秀才揃いだとも。特に彼女―――神凪八重は3年前に剣道の関東大会で一度優勝している。それ以降の経歴は特筆出来ないんだが」
「試合の記録って、その一度だけなんですか?」
「ああ。それ以来公式戦を出禁になっているからな」
一同、絶句。
それは最早一般生徒の域を逸脱しているのではないかと誰もが震える。
「……では、こう遠距離から不意討ちとかは?」
恐る恐る蛍が発案するも、
「やったよ、交渉決裂と同時に」
「どうなったんですか……?」
「音速の石を弾いてやんの」
再絶句。
飛び道具をもねじ伏せる木刀がこの世にあるとでも言うのだろうか。
「しかも、だ。厄介なことに能力の詳細がまだ判明していない」
「それなのに1人で戦ったんですか!?」
「いや、解析の為に零も連れてったんだが――――――」
「お力になれず申し訳ありません……」
ずぶ濡れで塩素臭くて誰だか分からないので今まで触れずにはおいたが、蛍はようやくそれが頭を下げた零だと察した。
体育座りの体勢でバスタオルに包まっている様子はマイナーな来訪神と言われても疑い難い有り様である。
「先輩の戦闘中【青空電波】を展開してはいたのですが……」
可愛らしい能力名を明かしつつも、零が差し出したスマホの画面には以下のような文字が乱雑に表示されていた。
『いな、きょひだ』
『しあうかな』
『みぎっ!』
『うつった!』
『ひだりっ!』
『とめっ!』
一同、首を捻る。
「この様に、あの方は戦闘中殆ど思考をしていないと考えられます」
人間にそんなことが可能なのか、などという疑問を蛍は口に出さずして飲み込んだ。
彼が汐ノ目学園の一年生となりItafとして活動を始めてから早数ヶ月、この世界に常識たり得るものは少ないと痛感させられた。(彼の能力も大概だが)
そも能力者とは歩く奇跡のようなものなのだ、と。
「いずれにせよ、流石の俺もこのザマじゃしばらくは戦えない。加えて最近は若者の深刻な近接戦離れが進んでいると聞く」
なんだそりゃ。
「てな訳で、この件は蛍と零。お前たちに一任しよう」
――――――なんだそりゃぁぁあああ!!?
蛍と零、新人2人は激怒した。真也の横暴に怒りを覚えた為である。
「何でよりにもよって僕等なんですか!?」
「俺以外に直接攻撃が出来る奴って少ないじゃん?」
「ならせめて先輩方も来てくださいよ!!?」
「いやぁ3、4年って明日からオリエンテーションあるからさ? 抜け出すとヤバいんだよねー」
「無茶ですってぇ! 死んじゃいますからぁ!」
少女マンガばりに涙の輝かしい蛍である。
とは言え、自由人ばかりのItafにおいて全ての業務を統括する真也に理由も無く逆らうことは難しい。そのお陰で作戦が気持ち悪いぐらいにヌルヌル進行していくのも事実だが。
ちなみにこの間、零は混乱し過ぎた結果人智を超えた罵詈雑言を最低5つは生み出した。
真也のメンタルが999下がった。
「あ、小手川。お前は諸々の事情で今回休みな?」
「理不尽すぎィ!?」
◇
「―――しかし、だ。このまま丸投げってのは流石に恨まれるだろうな」
「それで修行、ですか......」
真也と蛍、そして零。3人の水着姿は学園の地下にある第二プールにあった。
屋上のプール程では無いものの、彼らの人数にとっては十分過ぎるまでの広大さである。
「フェンシングなんかをやっていた僕に白羽の矢が立つのは解ります。しかし......あの、その......」
「明らかに不要な私などを指名してくださるということは、何か策があるのですね?」
さも当たり前のように自らを卑下してみせる零に対し、蛍は以前から話しかけられないでいた。
「す、すみません……そんなつもりで言ったんじゃ……」
「構いません。事実ですから」
余計に遠ざかりそうな2人の距離をまぁまぁと真也は詰めようとする。
「ああは言った手前、実は何となく神凪八重の能力が分かった気がするんだ」
「五元将―――五元素が由来ならばあの方は明らかに『水』と考えられますが」
「よく分かったな? そして俺の読みが正しいなら、この戦いには君が不可欠だ、零」
人呼んで『人たらしの真也』ここにあり、である。
とにかく! と真也は一度区切りを設けた。
「水泳部がうるさくってな。期限は3日、プール開きの前日までに俺が出来る限りの対策をお前達に叩き込む! すまないが、死ぬ気で喰らい付いてくるように!」
「「はいッ!!」」
◇
「あの……零先輩? お疲れ様です」
特訓1日目の休憩中、プールサイドで膝を抱えていた零は蛍を見上げた。
【幻想装備】という未知の力の影響か、30分に及ぶ変身が解けて尚その瞳には英雄足り得る光に満ちあふれていた。
「はい、蛍……くん? ちゃん?」
「えっと、一応男……です」
「申し訳ありません。訂正します、蛍ちゃ……くん」
そういえば会話のキャッチボールが劇的に下手な2人である。
これが寸劇なら『了』がいくつあっても足りないだろう。
「あの、蛍くん?」
次に口を開いたのは零の方だった。
「蛍くんは何故Itafに入ることを良しとしたのですか?」
学年で言えば零の方が一学年上の先輩である。しかしItafの加入タイミングで言えば2人は同期であり、彼女には少なからず蛍に対する興味があったのかもしれない。
蛍は腫れた手首を擦りつつ暫く考え、そして差し支えないように言葉を選んだ。
「兄が―――元々Itafに所属していたんです」
「兄は調査班でもトップクラスの成果を出したとかで、守秘義務を破ってまで幼い僕に大冒険の話を聞かせてくれました。……そんな兄の嬉々とした顔が、僕は大好きでした」
──────家族。
一人っ子の零にとって家族とは父と今は亡き母のみだが、蛍の言う類のそれもまた家族の温もりとして羨ましいもの、輝かしいものである。
「―――――ですが、3年前。全盛期のItafは滅びました」
「ッ!!?」
「たった一人の敵に一掃、だったそうです……」
蛍の顔に影が入るのが見えた。
「兄は辛うじて生き延びましたが、あまりの惨状に発狂―――今でも立ち直れていません」
「......非常に、辛かったのですね」
「............だから、せめて兄が好きだった居場所を、1人残されたあの人を助けてあげたいんです」
零は思う、この少年からは私と同じものを感じる。
大切なものが擦り減っていくか、もしくは一瞬で奪われていくか。その程度の差でしか互いの心情に違いを見い出すことは難しいのかもしれないのだ、と。
「あっ、す、すみません! こんな暗い話で!」
「いえ、ありがとうございます。でしたら尚更、特訓に打ち込まねばなりませんね?」
「はいッ!」
プールの方から声が聞こえる。
ほんの少し、心を通わせた新人2人は水上にて木刀を待つ真也へと再び立ち向かっていく。
無限に繰り出される殴打の嵐へと蛍が身を投じる最中、零はふと先程の会話の一節を思い返していた。
『1人残されたあの人』
それって、もしかして――――――――――
◇
神凪八重は水の如き生き方を実践し続けた人間である。
汐ノ目の地域でも古参たる神凪神社の跡取りとして生を受けた彼女は自らに課せられた使命や期待に何ら疑問を持つこと無く巫女となり、同時に一族に伝わる異能と剣技を妹達と共に継いだ。
過酷な修行の日々の中であっても自らの境遇に不満は無く、絶えぬ努力は自ずと彼女を最強の武人にまで押し立てた。
しなやかに、冷ややかに、何より絶え間なく、その剣を前に膝を着かぬ者などいなかった。
しかし、最強とは所詮つまらないものである。
以前戦ったあの男ならまだしも、成立すらしない試合に価値などあるのだろうか。
このままでは自分が何のために剣聖となったか分からず終いだった。
―――嗚呼、誰か吾を楽しませてくれないものか。
そんな八重の静寂を再び破る者が現れるのに大した時間はかからなかった。
以前彼女を久々に楽しませたあの男が夕日の射すプールサイドに訪れたのである。
「ほう、また来るとは関心だが......その腕で吾を負かそうとは思っているまいな?」
対する真也は落ち着き払っていた。
「はは、まさか。それに、君を倒すのは俺なんかじゃない」
ここで真也は背に控えていた蛍と零を前に出るよう促す。
歩み出た2人は未だ特訓の傷が癒えず、到底誰かを負かすような雰囲気は感じられない。
「ウチの精鋭2人、それぞれ半人前×2で一人前。これで十分だとも」
「……正気か?」
「試せば分かるさ」
「フッ、ならば死合うのみぞ」
水上にて立ち上がり、八重は大振りの木刀を構えてみせた。
プールサイドにて相対する零は慣れないながらも同様に木刀を構えてはいる。
しかし事もあろうに蛍は無刀のまま、ただ手をだらんと下げ憂いの無い顔で前だけを見据えていた。
そんな様子が余計に八重の心を逆撫でる。
退屈しのぎに勝負を受けたはいいものの、どうも面倒な仕込みがされているらしい。
八重はこの戦いを早々に終わらせる気でいた。
初手、先に動きを見せたのは蛍だった。
ただでさえ無防備な状態にも関わらず彼は八重の領域である水面へと踏み出そうとしている。
これをいち早く察した八重は即座に木刀をもって水面を打ち上げる。
跳ね上がった水流は斬撃を模したように飛翔、左下から右上へのその一撃は2人を巻き込み駆け抜けていった、
はずだった。
「……何?」
大量の飛沫が散る最中、2人の内少女の方は身を屈めつつ疾駆していたが、直撃をくらったはずの少年は何処にも見当たらない。
代わりに、25mのプールには八重を取り囲むようにして何かが浮かんでいる。
赤黒い漆の光るそれは大量のお椀だった。
(これはいったい―――)
あまりに唐突な事態に八重が困惑したその時、彼女の頬を冷たい感覚が伝った。
拭ったそれは日に照らされ解し難かったが間違いなく彼女自身の血である。
咄嗟に辺りを見渡す八重だったが水上に彼女以外の人影は無く、代わりにプールの後方、水栓のある場所へと向かう零の背中が見えた。
「それが狙いか!」
己の能力の肝である大量の水、相手がそれを奪おうとしてくることを八重自身は想定していない訳ではなかった。
零の元へと一蹴で飛ぶべく八重は両膝を折りたたもうとする。
その刹那、彼女の目は確かに襲撃者の影を捉えていた。
指先程の大きさのそれはお椀を足場とし、八重の目前にまで迫っている。
横薙ぎに木刀を振るうも手応えは無い。
否、その影は木刀の鎬に乗り移り彼女へと迫っていたのだ。
流石の八重もこの間合いには堪らず、木刀の刃先を掴むと寸前にいた影ごとそれらを水に叩き付けた。
しかし更なる怪異が八重を襲う。
尚もかく乱を続ける影を浮かぶお椀諸共渦で吹き飛ばしてしまおうとしたその時、水面は膨れ上がる事無く、それどころか彼女は弾みで水から足を踏み外しそうになったのだ。
神凪八重は剣聖である。
全国を行脚しあらゆる流派、あらゆる剣客を倒しては経験してきた。
しかし、未だかつてこの様な相手がいただろうか。
何の細工も無しに足場となる椀を展開し、
そこに出来る僅かな影に体躯を潜め、
目にも止まらぬ速さで皮を裂く。
それはこれまでの何にも似通わない未知の能力だった。
「―――神凪八重さん、貴方の能力は『水に映った剣を武器にすること』ですね?」
不意に、どこかから聞こえた声が八重に問い掛けた。
「......何だ、貴様最初から知っていたのだな?」
「いえ、誰の手引きか貴方は知っているはずです」
「成程。やはり貴殿の入れ知恵であったか、有片真也?」
向かいのプールサイドで見届け人に徹していた真也が答えることは無かった。
真也の予想通り、八重の能力【鏡花水月】は水や鏡に映る自身の持ち物(この場合は木刀)を『そこに存在する物体』として扱う、というものである。
これにより彼女は水面に映る木刀の上に直立し、また飛ばした水滴に刀身を映すことでそれら全てを『剣による突き』として扱ってみせたのだ。
水の五元将という二つ名を冠しながらも、その実態は概念寄りの光系能力者―――それこそが神凪八重の正体であった。
「では吾も推理たいむと行かせてもらおうか。否、至極当然よな? 椀にまつわる体の小さき者、ともなれば少年、貴様の能力は『一寸法師を模すこと』だろう?」
「......大体正解、ですかね」
蛍の能力【幻想装備】―――自らが読んだ物語唯一の主人公にまつわる技能を様々な制約下で取得する能力、これこそが隙の無い神凪八重の意表を突けると真也は踏んでいた。
そして実際その狙いは的中していた。
敢えて牽制以外では距離を詰め切らず、一寸法師となった蛍がかく乱に徹したことで零は既にプールの栓を抜き終え物陰に待機している。
「加えて、藍川先輩は近距離でなら貴方の能力を無効に出来ます。出力が落ちている自覚があるのではないですか?」
零の能力【青空電波】―――自身のスマートフォン周辺に残留する思念を取込み、それを文字として出力する能力。
本来はテレパシーの一種として機能するこの力だが、その応用として物質操作の能力における指示も吸収出来る(と最近になって判明した)。
蛍が懐から取り出してみせた零のスマホ、そこには絶えず木刀の虚像に対しての指示がタイプされていた。
「もう直プールの水も無くなります。どのような事情があるかは分かりませんが、どうかここから退去していただけませんでしょうか?」
針の剣を構えつつ、蛍は出来る限りの説得を終えた。
両者は沈黙したまま対峙し、やがて配管に流れ込む水の音だけが残る。
ここにきて互いの死地を意識してしまい、蛍の精神は密かに疲弊していた。
しかし、先に折れたのは八重の方だった。
「............ふむ、これが一杯食わされるというのものか。存外悪くないものよな」
事実上の『詰み』であった。
「了解した。しかし、条件を付けさせてもらおう」
「ッ……何ですか……?」
彼女はこれ以上何をするというのだろうか、蛍は勝者にも関わらず戦々恐々としていた。
だが、それもここまでだった。
「貴殿も、剣士ならば最後の礼まで付き合え。当然だろう?」
八重が初めて見せる年相応の笑顔に対し、蛍の選択肢は1つしか残されていない。
前を向き、剣を構え、程よく脱力し、後は答えるのみ。
「――――――はい!! よろしくお願いします!」
本当の戦いはこうして幕を開けた。
◇
翌日、蛍はオカ研の部室に来て早々真也の元へ駆け寄った。
「有片先輩、先日はご指南ありがとうございました!」
「ああ、流石は期待の新人、とでも言うべきか」
結果として、その後蛍は剣士としては敗北した。
純粋な実力を前に同様の戦術は長続きせず、そのまま【幻想装備】のタイムリミットを迎えてしまったのである。
しかし神凪八重は約束通りプールから立ち退き、現在は自宅にて謹慎中だという。
「先輩、そういえば八重さんがプールを占拠した理由はもう分かったんですか?」
「うーん......それがだな? 猫、だそうだ」
「猫?」
「そう、猫。何カ月か前に野良猫を拾ったらしくてな? 家じゃ飼えないってんで仕方なく人気の無いプール監視室に泊めてたらしい」
「まさか、それを隠す為だけに……?」
「いや、それプラスああやって構えていれば強い奴と戦えるから、だとさ」
やれやれと渋い顔をする真也。
蛍は全身全霊をもって脱力する、というより最早笑うしかなかった。
「おっと、零もよくやってくれたな! お陰で放課後はプール使い放題、だそうだ」
向かいの席で零は相も変わらずスマホを弄っていたが、俯き気味のその顔はこれまでに無くデレデレしていたという。
尚、その日の帰り際に零と蛍はファミレスにてドリンクを酌み交わす程の仲になるのだがそれはまた別の話である。
◇
後日のこと、
「......ほう、また貴殿か」
剣道場にいた八重を訪ねる者がいた。
「以前はどうもありがとう。謝礼の饅頭、ここに置いとくよ?」
「良いのか? 吾はただ暇を潰したに過ぎないのだが」
「滅相も無い! 新人研修はああでもしなきゃ、最悪俺が相手だったからな。自然なシナリオとか無いんだよそれだと」
「とは言え吾も驚いたぞ? 負けて早々に『新人2人を相手してくれ』などと頼む貴殿の気が知れぬわ」
「いやぁ、まともに取り合ってくれる五元将なんてアンタくらいだからさ?」
「............まさか、この為に自らやられに来た訳ではあるまいな?」
「ははは、まさか。俺ってばそこまで器用じゃないし? ただアンタの強さに惚れただけだとも!」
そう言って青年はギプスを付けた左手を振りその場を後にした。
このやり取りを知る者は彼らと1匹の子猫だけである。