98話 相対する望み
アルバートと名乗った男は、余裕そうに笑うとイーラの前にしゃがむ。
スイレンがイーラを自分に引き寄せて守るが、アルバートはそれも気にしない。
イーラは睨むような目で、彼を見下ろした。
アルバートは「ああ···」と感嘆を零す。
「マシェリーによく似た目だ。とても綺麗な緑の瞳。彼女に出会った時のことを思い出すなぁ」
「······会ったことがあるのね。母に」
「もちろんだとも。君とも会ったことがあるんだよ。覚えていないだろう。そうだ。君はまだ赤ん坊だったから」
アルバートは愛おしそうに目を細める。それがどうにも胡散臭い。
エミリアはアルバートとイーラの横顔を交互に見比べ、ちょっとだけ首を傾げた。
「こんな小さな体で、この聖堂まで来たのか。それはそれは大変だったろう」
アルバートは微笑んだまま、イーラをじっと見つめる。
「あれから何年経っただろう。彼女の予言を聞いてから、あれから何年悩んだだろう。もう、悩むことはないのか」
アルバートは不穏な事を口ずさむ。
そして、イーラの首に手をかけた。
「世界の終わりから出向いてくれるなんて!」
その瞬間、アルバート目掛けて一斉に魔法が放たれた。
スイレンの水砲弾は至近距離で、ギルベルトの炎の弾丸は雨のように降り注ぎ、アルバートの真下からは土が剣山のようにせり出して、その体を風が木っ端微塵に切り裂く。
爆発音と共にアルバートは土煙の中に閉じ込められる。
確実に仕留めた! 誰もがそう思っていた。
「······ゲホッ、激しい歓迎だなぁ。そんなにその子が大事か?」
イーラは信じられない光景に、あんぐりと口を開けた。
アルバートはふわりと空を飛び、自身の周りを水の膜で守っていた。そもそも、土煙の中にすらいなかったのだ。
ギルベルトはアルバートに向かって引き金を引く。
アルバートはすい、と手を動かして土の盾を作り出し、弾を受け止める。
もう片方の手を動かすと、ギルベルトの手前の土が突き出して、槍の形を成す。視認するより早く、土の槍はギルベルトの腹を貫いた。
イーラは悲鳴を上げた。
エミリアは杖で槍を叩き、砂に還すとその砂で矢を形作る。
杖を引き、更に多くの矢を作り出した。
スイレンはギルベルトの腹の傷を塞ぐ。イーラもエンユトウエキスで、治癒の加速化をはかった。
「お前たちは、その子がこの世界にとってどんな存在か知っているのか」
「もちろん知っていましてよ。けれど、イルヴァーナさんが私たちにとって、どのような存在かをあなたは知らないでしょう」
「その娘は悪魔の子供だ」
「お前こそが悪魔だ!」
「土よ 我が魔力を糧として 立ちはだかる者を撃ち落とせ」
エミリアが祝詞を唱える。ジャックはエミリアの隣に立つと、大きく息を吸った。
「荒れろ! 大地の試練!」
「共鳴する狼の遠吠え!」
エミリアが矢を放つ。それと同時にジャックは遠吠えを上げた。
放たれた土に、ジャックの魔力が共鳴する。土の矢は狼の牙のように鋭くなり、より威力を増す。遠吠えに押されて加速した矢は、アルバートが防御する隙間を縫って、彼の頬に傷をつけた。
「ちっ、一ヶ所だけですか」
「それでも傷をつけた」
悔しがるエミリアを見下ろし、アルバートは頬の傷に触れる。指先についた、確かにある血にほくそ笑む。
「これしきのことで、喜ぶな。子犬共め」
アルバートが手刀を縦に下ろす。すると、エミリアの足元が割れ、エミリアがその溝に落ちる。
「エミリア!」
「焦ることはありませんわジャック。這い上がればいいだけのこと」
「違う! そうではない!」
ジャックはエミリアに手を伸ばした。地面が揺れる。エミリアが落ちた溝が、塞がり始めていた。
エミリアは急いで手を伸ばすが、ジャックの指先まで微妙に届かない。
杖を突き出し、ジャックに拾い上げて貰うと、ジャックは見えない風に切り刻まれた。
「ジャック!」
その場にうずくまるジャックに、イーラが薬をかけて急いで治療をする。
エミリアは杖を突き立てアルバートに土の茨を伸ばすが、アルバートは風魔法で更に上へと逃げてしまう。
イーラが男に構わずジャックの治療をしていると、急に体が浮いた。
それと同時に、首に手をかけられているかのような苦しさが加わる。
アルバートは首を絞める動作をしていた。遠隔でイーラの首を絞めているのだ。
イーラがもがいている間にも、イーラの体は空へと浮かぶ。
スイレンは青筋を立てて怒り狂った。スイレンが水晶玉を握り潰す勢いで呪文を唱える。
──スイレンの手から水晶玉が落ちた。
そして、スイレンの腕には薄汚れた札が巻き付けられる。
スイレンはその札を見て、貼った主を見た。そして、驚きと絶望を隠しきれない瞳で、「どうして」と問いかける。
フィニは、申し訳なさそうに唇を噛んでいた。
***
「どうして、こんなっ······ことを」
二人だけになった空で、イーラはもがきながらアルバートに尋ねる。
アルバートは平然とした顔で、イーラの首を絞めながら答えた。
「君は自分の運命を知らないのか。誰も教えてくれなかったのか。『終末の万能魔導師』だということを」
「終末······? ばかげ、たことを!」
イーラには魔力なんてない。骨身に染みるほど感じた己の非力さと、偉大な母への劣等感。何度だって繰り返されては、煮えくり返るような怒りに振り回されてきた。
「私はっ······魔力、な、んて」
「ああ、マシェリーが封じたのか。だから今まで紋章が発現しなかったんだな」
驚くイーラとは反対にアルバートは「なるほど」と納得する。
母がイーラの魔力を封じた?
もしも魔力が封じられていなければ、自分はもしかしたら魔導師になっていたのかもしれない。そうしたら、自分が今まで抱いてきた劣等感は、怒りは、本当は不必要だった?
アルバートの行動よりも、母の過去の行動に、イーラは深い疑問を抱いた。
アルバートは「哀れな女だ」とマシェリーを嘲笑う。
「娘を早く殺していれば、私の言うことを聞いていれば、死ぬことはなかっただろうに」
アルバートの歪んだ笑顔が目に焼き付いた。
イーラは霞む視界の中で、今は亡き母に問いかけた。
(──どうして、私が苦しむ道を選んだの?)
マシェリーが答えるはずがないと、知っていながら。イーラはそう問いかけた。
(──どうして私はずっと、怒っていなくちゃいけなかったの?)
(──どうして私はずっと、比べられなくちゃいけなかったの?)
(──どうして私はずっと、魔力を封られてきたの?)
(──大好きな母さん。もう、あなたが信じられないわ)
イーラは眉間にシワを寄せる。
息も絶え絶えで、視界は霞む。もう抵抗する力さえ残っていない。
イーラは首を掻きむしる手を止めた。
「────大嫌いよ」
その言葉を最後に、イーラは空から落ちた。
アルバートはそれを、喜ばしく見送る。
落ちゆくイーラの体を、誰かが優しく抱きしめてくれた。
それは、懐かしい温もりと、深い慈しみを持った人だった。
『愛しいイルヴァ。どうか、私だけを憎んで』
その人は、イーラを助けてはくれない。助けられない。それでも抱きしめたくて、手を伸ばしていた。
『あなたを苦しめたのは、私だけよ。私だけなのよ』
イーラの額に、優しい口付けを落とす。マシェリーは、涙を零しながら、その手を離した。イーラは母が触れたことも、最後まで慈しんでくれた事も知らない。
落ち続けるイーラを、誰かが体を掴んで助けてくれた。




