96話 朝焼けに溶ける
朝焼けが海を照らす。
紫色の海は、じんわりと熱を持ちながら光を放つ。
ジャックが悩んでいる間に、空は眠りから覚めていた。
エミリアが甲板に出てきた。朝焼けの海を眺め、うんと背伸びをする。
「おや。ジャック、おはようございます。ギルベルトと交代しなかったのですね」
「······少し、考え事がしたくてな」
エミリアは少し驚いたような表情をし、「私もです」と言いながら、杖を立てた。土魔導師の祝詞を唱え、杖に魔力を溜め込む。エミリアの表情は、少し強ばっていた。
ジャックは、「そういえば」とふと思ったことを尋ねようとした。
「おい、エミリア・ロックハルト」
「何です駄犬。まだ私を──え、今。へっ!? 名前を?」
「ああ、呼んだ。間違えていたか?」
「い、いえ。え? いや、間違えてはない、ですが。え? どうして、私の名前を? いや、どんな心境の変化で」
不意をつかれたエミリアにジャックは少し、ばつ悪そうに顔を背ける。
彼女の名前を呼ばなかったのは、嫌っていたからでもわざとでもない。単純に、呼べなかったのだ。
「······人狼は、親しくない相手の名前はフルネームで呼ぶ。逆に、ファーストネームで呼ぶのは、相手を信頼し、親しみを持っている証だ。俺は············元々、敵だ。仲間になったからといって、ファーストネームで呼ぶような厚顔無恥な真似はしない。お前だけ、フルネームが分からなかった。だから、あの名で呼ぶしかなかっただけだ」
それだけだ。エミリアを何度も怒らせても止めなかったのは、そういう理由があったからだ。でもエミリアに名前を聞いたところで、きっと怒って教えなかっただろう。
ジャックも分かりにくいが、途方に暮れていたのだ。カナの助け舟がなかったら、きっと旅が終わるまで、呼ぶことはなかったと思う。
「なるほど、しかし、どうやって私の名前を? まさか、イルヴァーナさん?」
「いいや、カナトネルラ・キニアランだ。彼女が教えてくれた。······すまなかった。お前が、ファミリーネームを名乗りたくない理由も聞かずに」
カナは以前、ジャックにだけ聞こえるように、教えてくれた。
『あのね、エミリーは苗字を名乗りたくないんだよ。エミリーは昔、悪いことしてたから、それを『自分だけの罪』にしておきたくて、苗字を名乗らないんだよ。両親と自分を繋ぐ大事なファミリーネームだから、それを汚したくないの』
ジャックはカナから聞いたことを濁して伝える。
カナに見透かされていたことに、エミリアは少し悔しげにするが、それと同時に安心したような表情をしていた。
「いいえ、構いません。カナトネルラがいる以上、いずれ知られることでしたから。私も、人狼の習慣、ルールを知らずに罵倒しました。何も聞かずに勝手に思い込んで行動するのは、愚かでしたね」
「お互いにな。だが、罪はどんな形にしようと、本人だけのものだ。それが他者に被ることは無い。······人間がどんな風に扱うかは地域や魔導師によって変わるだろう。が、お前は罪を認め、償おうとしているように見える。なら、恐れることはないのではないだろうか」
どう言えばいいのやら。それすらも分からない。
ジャックは捕まえる側だった。罪人の懇願も、言い訳も、聞き飽きるほどに聞いてきた。
『裁け』と言われたら裁く。仲間手出しされないようにするために。
そんな理由で動いてきた身で、偉そうなことを言った。
だが、エミリアは「そうですか」と納得すると、「そうですね」と笑った。肩の荷が降りたようなスッキリとした表情だ。
「私が犯した罪は、私一人のもの。それが他人が被ることのないようにすればいいだけのことですわ。そこに、名前なんて関係ありませんね。ジャック、私はあなたの事を信頼します。ですからあなたも都合の良いタイミングで、私を呼び捨てなさい」
彼女はまっすぐジャックを見つめていた。
ジャックは、「これでいいのか」と悩みつつも、「分かった」と約束を交わす。
「それはそうとエミリア・ロックハルト。お前はイルヴァーナ・ミロトハの事をどのくらい知っている?」
「え? イルヴァーナさんですか? 私も、詳しいとは言えませんけど」
ジャックが覚えている限り、初めて出会った時、イーラはフィニとエミリアと行動していた。フィニに尋ねても、きっとジャックの圧に負けて震えて終わりそうだ。ならば、まだ堂々としているエミリアに尋ねた方が早い。
エミリアはそう尋ねられると、ポツリポツリと断片的な情報をこぼす。
『薬剤師』『ヴォイシュ近くの小さな村の出身』『短気だが優しい』『誰よりも勇気がある』『差別しない』『右利き』『くせっ毛を気にしている』『病気に詳しい』『母は偉大なエルフ紋』『マシェリーに劣等感がある』『フルーツが好き』『フィニと一番仲がいい』『体調が悪いとレモンを食べる』『好き嫌いはない』『でもナスは苦手っぽい』『陽気な音楽が好き』『スイレンの魔法薬が気になる』『傷薬の調合がお気に入り』『船のロープの結びがまだ苦手』『最近は異世界ものの本を読まない』『仲間の体調管理記録を書くのが日課』──······
エミリアに尋ねて正解だった。エミリアの口からはイーラの情報が沢山溢れ出す。スイレンよりも、いや、フィニよりも知っているんじゃないかというほどに。「詳しいとは言えない」なんて、謙遜が過ぎる。
エミリアはジャックが止めるまでイーラの事を話し続けた。そして、「それが何だ」と言いたげに片眉を上げる。
しかし、ここまで来てようやく、ジャックにはイーラの一番の敵だと言われた、エルフ紋の男の正体を知った。
「ジャック?」
「······昨日の夜、タタラに会った」
「!? イルヴァーナさんはっ!」
「襲われてない。俺と話をしただけだ。『第一席の男に気をつけろ』と言われただけだ」
「しかし、相手は七宝の」
「本当に話をしただけだ」
「そう。なら、いいですわ」
エミリアは不安そうに俯いた。ジャックは無表情で、航路を見据える。
エミリアは「ジャック」と声をかけた。
「······一人で抱え込まぬように、忠告します。あなたがどう思っていようと、どう距離を置こうと、私たちは、仲間ですから」
ジャックはエミリアの真っ直ぐな言葉に「分かった」と、薄っぺらく返した。エミリアは神妙な表情で海の先を見つめる。そして船室へと戻って行った。
ジャックは一人、ぼぅっと海の向こうを眺めていた。
「イルヴァーナ・ミロトハ」
イーラの名前を呟いた。
そして、タタラの言葉を思い出す。
『ボクらが思うより、あの子は複雑だよ』
「──本当に、複雑だな」
ジャックの独り言は、波音がかき消してしまった。




