95話 鴉と狼の夜更かし
星がひとつもない。しかし、手のひらよりも大きな月が、海と空の境目を淡くて照らす。
波の揺らぐ音や、静かな風音が大きな耳に心地よく響く。
ジャックは舵を取りながら、聖堂への道を辿っていく。月の光が差すその道は、とても幻想的だった。
空を見上げ、風で膨らむ帆を見上げ、潮の香りをめいいっぱい吸い込んだ。
遊撃隊にいる頃は、こんな単純なことも、楽しむ余裕がなかった。仲間の安全を守るために、仲間の居場所を守るために、いつもいつも、気を張りつめていた。
牙を剥き出しにしていないと、爪に土をくい込ませて立っていないと、何も守れない。だから、本来人狼に必要のない剣も、手放すことが出来なかった。
(──何と、言えばいいのだろう)
毎日押し付けられる無理難題のような命令も、達成出来ずに折檻される仲間たちの悲鳴も、もう無いのだ。
自分が生きている間に、こんな事が起きるなんて予想はおろか、希望さえ抱いていなかった。今更ながら、これは喜んでいいのか、まだ不安なままでいいのか、悩んでしまう。
「警戒は、怠らない方がいいんじゃなーい? 特に夜はね。お腹を空かせた鴉が、狼を啄みに来るかも知れないでしょ?」
ジャックは素早く剣を抜くと、自分の真上に突き上げた。
タタラが驚きながら、宙でくるりと一回転すると、舵の上に着地する。素足のタタラは、しゃがんでジャックと視線を合わせる。いつもの、貼り付けたような笑みで。
「なぜここにいる。鴉天狗の時間じゃない。夜は魔力が落ちるだろう。魔物に襲われないのか?」
「ボクらをその辺の魔族と一緒にしないでよね。常時魔力が持続する君たちと違って、魔力を操作する術に長けてるんだから」
タタラはひらりと舵から下りると、背中の羽を見えるように大きく広げた。
「『烏玉の隠れ羽』──魔物や他の魔族から身を隠す、鴉天狗固有の業。ああ、魔法って言った方がカッコイイ?」
「どうでもいい。が、無事に帰れるのならいい」
「あれれ? 心配してくれるのぉ? ジャックってばやっさしーぃ」
「違う。またケンカでもすれば、イルヴァーナ・ミロトハに怒られる」
「あーっそぉ」
タタラは相変わらずその行動の裏が見えない。何を考えているのかも、何をしようと企んでいるのかも。
タタラは羽をバサバサと動かして、空を見上げる。
「さぁてさてさて、ボクが来た理由がわかんない犬っころちゃん。ボクが彼女に会いに行ったら、多分うるさいサラム紋とディーネ紋とノーム紋に······いや、皆に半殺しにされちゃう。から、君に言伝を預けるよ」
タタラは真っ直ぐジャックを見つめると、羽を広げたまま、口を開いた。
「世界樹の聖堂に行くなら、エルフ紋の第一席に気をつけろ。あいつは、イルヴァーナの命を奪う、一番の敵だ」
ジャックにとっては元上司の男だ。そいつが、イーラを狙っている? そういえば、彼はいつもイーラに固執していた。連れているフィニには見向きもしない。いつも『捕まえろ』と命令していたのは、イーラの方だった。
ジャックに緊張感が漂うと、タタラは「それはイルヴァーナのだからね」とジャックの肩を叩いて力を抜く。
「で、こっちがボクから君への忠告。先輩としての優しさだよ。君がもしも、あの子に忠誠を誓うのなら、君が警戒すべきは外の敵じゃないよ。内側の敵だ」
「それは、どういう意味だ?」
「──死霊魔術師が、一度だけ聖堂に来たんだ。けっこー昔にね。その時、あの男がそいつを招き入れ、ボクに断りなく帰しちゃった。顔はローブで見てないし、ボクは離れたところで待機してたからぁ、声もイマイチ聞こえてないし? 誰かは知らないケド。その時の癖、立ち方、背格好は覚えてる」
「それが何だ。死臭を辿り、全ての死霊魔術師を殺せとでも?」
「あの時来たのは子供だった。ちょうど、あの子が連れてる子がよく似てるなぁって。ずうっと思ってたんだよねぇ〜」
ジャックは目を見開いた。
そんな馬鹿な、と言い返せばいいのだろうが、それさえも出てこなかった。
初めて会った時から、イーラとフィニはいつも一緒にいた。イーラはフィニを信頼している。フィニもイーラに気を許しているようだった。
でも、今のタタラの言い方では、まるでフィニが議会第一席と取引をしてイーラを狙っているように聞こえる。
──信用していいのか? タタラの本心を誰も読めはしない。いつもヘラヘラして、ぬらりくらりとした言動を取る奴だ。忠告自体が嘘の可能性だってある。
ジャックが疑っていると、タタラはふぅと息をついて、羽を広げた。
「信用出来ないとは思っていたさ。だぁって、ボクは誰にも本心を見せないからね。だから、信用出来る情報も教えてあげる」
彼女は静かに目を閉じて、いつもの無駄に明るい声ではなく、落ち着いた低い声で呟きをこぼす。
「魔力展開──『烏玉の隠れ羽』」
風がふわりと吹いて、タタラの羽を辺りに散らす。
タタラの真っ黒な羽は、ジャックとタタラの周りを一定の速さで舞い踊った。
「これで暫くは誰もボクらに気づかない。でもボクの魔力は帰りの分もとっとかないとダメだから、早めに話すよ」
タタラはそう言うと、「フィニアンとかいう死霊魔術師」と単刀直入に話し出す。
「彼の出身地は、『妖精の墓』と呼ばれる死霊魔術師の古代遺跡。死霊魔術師の生まれた場所って言われてる。鴉天狗は領域や文化は重んじるから、そういった聖地には踏み込まないから場所は分かんない。けど察してもらうように、一番死霊魔術師が多い所なんだ。そして聖堂に対する不満や怒りも一番多い」
「だからなんだと言うんだ。フィニアン・レッドクリフが聖堂に対する怒りを募らせているとでも? あんな気弱な子供が」
「『気弱だからそんな事が出来ない』、『臆病だからそんな風に思わない』······まぁ、そうだろーね。だからヒントをあげる」
「使われない十三席、ずっと残ってるよね」
タタラは「さっさと捨てれば良かったのに」と言って目を逸らした。
ジャックはそれで、ずっと疑問に思っていたことに仮説が生まれた。そして、フィニに疑惑を抱いた。
タタラはジャックの表情に、満足気に笑うと、羽を閉じて空に月を戻す。
「外の敵からイルヴァーナを守る人はいっぱいいるけど、内側の敵から彼女を守る人はいない。君がちゃあんと守ってあげてよ」
そう言って、タタラは船首に経つと、舳先を歩いて羽を広げる。ジャックはハッとして、「待て!」とタタラを呼び止めた。
「どうして俺たちに、助言を残す?」
ジャックの問いかけに、タタラは笑った。掴みどころのない、いつもの笑みだ。彼女は悔しげに言った。
「イルヴァーナがボクに貸しを押しつけたからだよ」
彼女は羽を広げ、夜と同化させていく。
じわじわと消えていくタタラは哀しげな表情で笑っていた。
「ボクらが思うより、あの子はかなり複雑だよ。だってボクらの真名を当てたんだ。ねぇジャック、君はもう一度世界の歴史を学び直すといいんじゃない? 呼ばれることの無い名前を呼ばれて浮かれてるけど、『終末の万能魔導師』にそんな芸当は出来やしないんだもん」
タタラは最後まで、思わせぶりな言葉を残して消えていく。
ジャックがその意図を尋ねようとすると、それを見越してタタラはその去り際にヒントを置いていった。
「世界の歴史の中で、魔族をちゃんとした名前で呼べるのは、たった一人しかいないんだよ」
──静かな夜が戻ってきた。
ジャックはポカンとして空を見上げた。
聞こえない羽音が、鴉の鳴き声が、耳に入ってくる。
ジャックは耳をパタパタと揺らした。舵を握り、月の導くままに船を進めていく。
魔物と魔族の違いとしては、
『魔物』→意思の疎通が出来ない異形のモンスター
『魔族』→意思の疎通が出来る人間に近い形をしたモンスター
としています。かなり後出しの定義ですみません。




