94話 不安と希望
夕日が沈む。空が紫がかっていく。
白い星がチラホラと見え始めた頃、タタラは羽の籠からもそりと出てきた。そろそろ住処に帰らねば。夜の魔族に襲われても文句が言えなくなる。
タタラはくぁ、と欠伸をして立ち上がった。
「······おっとと、っと。ありゃ? ······あららぁ〜」
ガクンと揺れた体を支えようにも、足元がふらついて全く立てない。タタラは不思議に思いながら足元を見ると、一本下駄が片方、バッキリと折れていた。何十年履いても割れなかった下駄が、たった一度の戦いで折れた。
魔族の戦いなんて珍しくもない。自然に身を置くもの達にとっては当たり前の、命のやり取りだ。でも暴走するまで戦いはしない。
今回はそれほど激しい戦いだったのか。タタラはめんどくさい、と呟きながら頭をかいた。
下駄を脱ぎ捨て、素足で岩場に立つ。
······また、海を見た。
魔導師やジャックに沈められた仲間たちを、タタラはまだ弔っていなかった。近隣に落ちた仲間なら、生きているかもしれないが、潮の流れが早く、いつ落ちたかも分からない仲間を助けに行って、その亡骸を見るのも嫌だ。
かといって、弔うのも少し、躊躇してしまう。
「······まっ、クヨクヨしてても仕方ないよねぇ。負けた方が悪いんだもん。魔族は人間にみたいに協定結んだりしないし、命の奪い合いに情けなんかかけてられないし。自分の身を自分で守れない方がいけないんだ。ボクくらい強かったら、きっと······海の藻屑にならなくて良かったのに。バカな奴ら!」
タタラはケロッとして笑い、折れた下駄を拾って山に羽を広げる。
気持ちを切り替えたって、自分の指示がもっと早ければ、正確であれば、ちゃんと作戦を練っていれば、なんて後悔が押し寄せる。
まだ生きているかもなんて、ありえないような希望をチラつかせたって、死んでいた時の絶望感が増すだけ。
自分に何とか言い聞かせて、自分を律しても、いつもの貼り付けたような嫌味ったらしい笑顔が作れなかった。
「──探しに行ってあげよっかな。生きてたら可哀想だし」
ぽつりと呟いた。
諦めきれない自分を情けなく思いながら。生きているかもしれないと期待した。
「七宝の所有者、タタラ殿はあなたですか?」
波の音が変わった。タタラが振り返ると、一羽の烏天狗を背負った人魚が波間に姿を現していた。
「お初にお目にかかります。南アリアイナ海の人魚、海底の古城の主にして七宝が一つ、海神の十字架の所有者アリア・カナン・エーテ・グレースの娘、リノア──」
「長いながーい! ゼンッゼン話が入ってこないよ。それ自己紹介にしない方がいんじゃなーい? 君の名前だけでいいから」
「·····お会い出来て光栄です」
タタラはリノアを見下ろすと、リノアの肩でぐったりとしている鴉天狗を冷めた目で見つめた。
「で、遠い遠い海の人魚ちゃんがボクに何の用? ここは北エルルフェンド海。君の海からは一番遠い海だよぉ?」
「数多の鴉天狗が海に落ちてきたと、要請がありまして。南アリアイナ海からは、私を筆頭として十二匹の人魚が派遣されました」
「海ってかなり広いのに、人魚はそれっぽっちなんだぁ。カワイソ〜。で? わざわざボクに仲間の死体を片付けろって言いにいたワケ?」
「いいえ。救助・治療をしたお仲間のお届けにあがりました」
「············は?」
タタラが驚いていると、リノアは岩場に鴉天狗を下ろす。
その後に続々と人魚が現れて、鴉天狗たちを岩場に転がしていく。
タタラは丁寧に治療された仲間たちを、ぽかんと口を開けて見つめていた。
「えっ、うそ。えっ!?」
「海に落ちた百三羽。全員無事です。低体温症になっている鴉天狗もいますが、薬を飲ませてあるのでしばらく寝かせておけば治るそうで······」
「ちょっ、ちょっと待って! なんで人魚が鴉天狗を助けてんの!? それに、魔族用の薬なんてあるわけが······」
「助けたのは人魚じゃありません。海に沈んだ鴉天狗たちは、私たちが弔って深淵に捨てる予定でした。が、たまたま近くを知り合いの薬剤師が通りましたので、手を借りたまでです」
知り合いの『薬剤師』──その言葉に、タタラはぴくりと反応を示す。
この辺りの海域に来た人間は全て把握している。そして今日、この辺りに来たのは船を持つ一般人(仮)と魔導師たちだけ。
まさかとは思いながら、タタラは「へぇ」と意地悪く笑った。
「知り合いの薬剤師、ねぇ〜。魔族に薬剤師がいるなんて知らなかったぁ」
「魔族ではありません。人間の薬剤師です」
「へ〜ぇ。人間の。それはそれは珍しい! 魔族に恩を売る人間なんかいやしないのに。人魚ってば嘘がお上手だねぇ。しっかし何だって知り合いの薬剤師とやらなんかに手を借りたわけ? ほっとけばいいじゃん。人魚はボクらが嫌いでしょ? 何にもしなきゃ、勝手に死んだのに。もったいない事しちゃった」
タタラがわざと煽るように話すと、リノアは少しムッとした。しかし、声を荒らげる様子もなく、鴉天狗たちを岩場に乗せて淡々と、ピシャッと言った。
「彼女は、種族に関係なく命を救う、気高く慈愛に満ちた人なので」
リノアは鴉天狗の数を数え、全員運び終えたのを確認すると、タタラに背を向けて、さっさと海に潜ってしまった。
タタラは呆然としてリノアたちの美しい尾ひれを見つめていた。人魚が立てた波が消えてようやく、タタラは仲間の安否を確認した。
リノアの言う通り、体温が低い鴉が何羽かいる。しかし、濡れた体で、日が沈んでいくにも関わらず、その体温は上がっていく。
タタラは空を見上げた。
「······本当にバカなんだねぇ君は。なんで敵まで助けちゃうのさ」
ちょうど太陽が、海の境目に消えるところだった。
***
「──とまぁこんな風に、イルヴァには幾重にも魔法がかけられていて、本来既に発現しているはずの魔力を封じこんでいる状態サ」
真夜中の船の中、スイレンの船室にはギルベルトとエミリアが集められ、イーラのことについての話し合いが開かれていた。
ギルベルトは状況を理解しきれずにぽかんと口を開けていて、エミリアは辛そうに胸に杖を押し抱いていた。
「つまり、イーラは『終末の万能魔導師』で、俺たちがその終末の鍵になってて、えっと······とりあえず、ヤバいってことか?」
「お前さんの理解能力もろともヤバい」
「ぶっ殺す」
スイレンは怒るギルベルトを無理やり椅子に座らせて、話を続けた。
「小僧が簡単に言い直してくれたとおり、このまま進めば危ないのは確かサ。なんせマシェリーがガッチガチにかけた封印の隙間から魔力が滲み出ているんだ。イルヴァの髪の色を見たかい? もう七割が橙色に変わっちまってる。あれが本来の色なんだがねぇ」
「でもその予言の通りなら、イーラを聖堂に連れてったらマズいんじゃねぇの?」
「あちしも最初はそう思ったとも。しかし、イルヴァには知る権利がある。母親の死についてだ。マシェリーはその答えが聖堂にあるって言ったらしいじゃあないか」
「それで聖堂に着いて、イーラが世界を滅ぼしたら? 皆死んじまうぞ」
「それはそうだが、でもマシェリーはそれを避けるために魔法をかけたんだ。その意図を解かないことには、いたずらにイルヴァの目的を妨げるだけになってしまうだろう」
「ハッキリ言ってやれよ」
「いいや。今は言うべきじゃあない」
ギルベルトとスイレンが言い争っている間、エミリアはイーラの境遇を密かに哀れんでいた。
最愛の母を失い、一人で生きてきた上に、訪れるその末路は『終末』──イーラが一体何をしたというのだろう。彼女がどうしてそんな目に遭わなければいけないのだろう。
この世に一人で放り出された彼女が、母と比べられて見下される世界を滅ぼしたって、誰一人文句は言えない。かといって、無関係の人を巻き込むのもまた、正しいとは言えない。
イーラが自分に与えられた運命を知ったら、絶望するに違いない。彼女は、命に敬意を払える勇気ある人。今まであった人達の中で、一番愛に満ち溢れている。
彼女が『終末』を望んだ時、私たちの命はきっと、枯れ落ちて──
「──······待ってください」
エミリアはそれに気がつくと、白熱して手が出そうになっている二人に待ったをかけた。
ギルベルトは不満そうにエミリアに注目すると、「なんだよ」とぶっきらぼうに言った。
「もしも、ええ、もしもですが。彼女が本当に『終末』をもたらすつもりなら、私たちはきっと、彼女の運命に巻き込まれ、この命が朽ちてしまうでしょう。しかし、思い返してください。イルヴァーナさんの性格を」
「あぁ? イーラの性格ぅ? 怒りっぽい、大雑把、正義感が強い、お人好し······」
「頭はよく回るし、思いやりがあるし。あと、あの子は忍耐力もあるねぇ。えぇと、正直者で、素直で、まぁ怒りの反射速度は光よりも速いが、誰かを守る強さがある。物怖じしないというか······」
「いいえ、いいえ。もっと根本的な部分ですわ。彼女の最大の長所にして短所。いつも私たちを振り回し、支え、助けてくれる、イルヴァーナさんが、イルヴァーナさんであるその所以を」
エミリアがそう問いかけると、ギルベルトとスイレンはハッとして叫んだ。
「「命を粗末にしない!」」
エミリアは「静かに!」と二人を注意し、うんうんと頷いた。
「その通りです。イルヴァーナさんは、命を決して雑に扱いません。それが、今まで私たちに恩恵を与えてきた」
「······ああ、なるほど。『慈愛』の土魔導師だからこそ、気づいたことだねぇ。確かにその線はある」
「さすがはスイレン。私の意図を汲み取ってくださるとは」
「俺、置いてけぼり?」
スイレンはムスッとふくれっ面のギルベルトに、呆れたため息を浴びせながら説明をした。
「小僧。イルヴァがもし『終末の万能魔導師』としての道を辿っていたのなら、あちし達はとっくの昔に死んでいるのサ。エミリアは土魔導師の里で蛇神に喰われていただろうし、小僧なら、兄貴たちに処刑されてる。あちしは嘘つきとして葬られていただろうねぇ。カナトだって、あのまま山の魔力にされちまってた。でも今、ここにいるだろう?」
「ジジイ。話が長いんだよ。もっと簡単に話せねぇのか」
「イルヴァーナさんは、『終末をもたらす力がある』と同時に、『人を助ける力がある』ということです」
イーラに授けられたのは、運命に従う力と、運命に抗う力。彼女がどちらを選ぶかによって、未来が変わる可能性があるのだ。
スイレンの話では、イーラの幼少期はマシェリーの努力によって、『命の尊さ』を特に叩き込まれている。それが功を奏してイーラは分け隔てなく、誰かを助けることに全てを捧げている。
それがそのまま維持されたなら、きっとイーラは『終末』なんてもたらさないだろう。だが、母親がいなくなってから周りに押し付けられた劣等感が、彼女に常中の怒りを与えてしまった。その怒りによって、彼女が世界を滅ぼす可能性だってある。
「彼女がどちらを取るかは、今の私たちには想像出来ません。もし彼女が『終末』を選んだ時、私たちは彼女を葬る覚悟を持たなくてはいけない」
「俺は殺したくねぇよ。何回助けられたと思ってんだ」
「おっと。あちしはノーカンかい?」
「イーラの封印を解かないって方法はないのか?」
「ない。マシェリーが『然るべき時に魔法を使えるようにした』と言っていた。あちしが魔法をかけ直しても、マシェリーの魔力には到底及ばない。もちろん、あちしの魔力の限りを使って抑えることも出来るサ。でもそれじゃあ、イルヴァの身がもたないだろうねぇ」
「所詮は一介の水魔導師ってとこか」
エミリアは鍋の上で回る、イーラにかけられた魔法の鎖を見つめた。
幾重にも重なった、重たそうな鎖が彼女の内に眠る力を抑えている。それが彼女自身の足枷にもなっているのだ。
もし彼女がどちらを取るか、決めるべき時が来たら、誰かが引き止めなくてはいけない。その誰かが、自分であったなら。
「そのまま、様子を見ましょう」
「おいおい、エミリア。お前正気か?」
「ええ。イルヴァーナさんはその身に余るだけの劣等感を抱いてきた。そして、それを上回るだけの愛を知っている。私は、助けられた恩がどうのなんて関係なく、彼女の『慈愛』を信じたい」
もし彼女が道を間違えた時は、自分が思いっきり怒鳴って、引き戻してやればいいのだ。いつも彼女がしているように。暗闇から抜け出すことを諦めたエミリアを、無理やり明るい陽の下に連れ出したように。
ギルベルトはエミリアの真剣な眼差しをじっと見つめると、ニカッと笑って「そうだな」と言った。
「あいつ、けっこう強引だし。頑固だし。命を蔑ろにしないから、本音で話してくるから、信じられるんだよな。なら俺は、イーラの『高潔』を信じるぜ」
「ならあちしはイルヴァの『叡智』を信じよう。あの子はただ流されるような子じゃあない。運命に飲み込まれようものなら、意地で抗う術を見つけるだろう」
「もし彼女が道を誤ったのなら、私たちで正しましょう。彼女が手を差し出してくれたように。私たちが、彼女の道を示しましょう。それが、私たちが、彼女の旅について行く理由で、彼女を愛する意味ですわ」
エミリアがにこやかに笑うと、二人もつられて笑った。
スイレンは鍋のふちを叩き、魔法を解くと二人をそれぞれの船室へと帰す。
エミリアは自室に戻ると、質素なベッドに横たわり、自分の杖を抱きしめる。
二人から不安を拭ったのはいいが、自分の不安は拭いきれない。
もしも予言のとおりになったとき、自分に彼女を止める力があるのだろうか。彼女を慈しむだけの心が残っているだろうか。
「······世界樹の名のもとに、どうか慈愛を。──お父様、お母様。私に力をちょうだい。愛しい人を守るだけのことも、出来ないちっぽけな私を、どうか見守って」
抱えきれない感情に、エミリアはポロポロと涙をこぼす。
夜は更けていった。無数の星は、エミリアの涙をキラキラと輝かせる。




