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90話 互いの手を掴む

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば『正解』なのだろうか。

 脳を動かす度に息が上がる。術式を書く度に汗が肌を伝う。

 思考を維持するために言葉を発せば、恐怖がねっとりとまとわりつく。


「これ、を、こうし、て······こ、ここに、水の······魔法を·········あ、あれ? 完成し、ない」


 ふわふわと浮かんでは沈む泡沫のように、思考は蝕まれ、手の震えが止まらなくなる。スイレンは薄暗い牢獄の中で、ぎゅっと目を瞑った。


「しっかりおし。あちしなら、出来る。あちし、なら、大丈夫。数何万もの時を、いきっ、生きて、る、んだ。······落ち着きな、さい。落ち、つきなさい」


 腕をさすり、自分の心にムチを打つ。

 スイレンは袖で汗を拭うと、また牢獄の壁を睨みつけた。

 前のように自滅に近い脱獄は出来ない。牢獄から出るためだけに、また数千年も眠っては、イーラを一人にしてしまう。

 きっと目が覚めた時、イーラの生まれ変わりに殴られる。殴られて済むならそれでもいい。が、今はとても出来る状況じゃない。


 スイレンは震える瞳で壁の術式をゆっくりと読み合わせる。間違えた箇所を消し、新たな術式を練り合わせ、考えに考え抜いた。

 しかし、『ここから出られないのでは?』なんて余計な考えも巡り、自分で恐怖を煽り続ける羽目になっていた。


 自分の中にこびり付いた恐怖は、氷海のように冷たく、沼のように底がない。ただ牢獄にいるだけなのに、滝のように襲いかかってくる。

 なんだって出来るはずの脳みそは、砂漠のように乾ききっていて、目の前の小さな問題すら解決することが出来ない。


「······ふぅう〜〜〜〜〜〜」


 スイレンは深く息を吐くと、また自分の腕をさする。どうしても出来ない。──どうしても。

 自分でも間抜けだと思う。ああ、バカバカしい限りだ。

 体が震えてどうしようもない。思考さえも絡まって何も思いつかない。喉が詰まって息ができない。汗が止まらない。声も出ない。激しい動悸がする。泣きたいくらい怖い。ここから出たい。でも魔法も使えないのにどうやって出たらいいんだ。

 魔法が使えなければ、自分なんて何の役にも立たない。得たばかりの知識をひけらかす子供と同義。愚者のそれ。こうして意味の無い術式を書き連ねるのが精一杯の、不老不死の老いぼれだ。

 何が原初の魔導師だ。何が『叡智』の水魔導師(ウンディーネ)だ。これが偉大な肩書きなんて笑わせる。


 誰も助けてくれない。誰も助けに来てくれない。またひとりぼっちで脳みそを使い続ける日が続く。それがどうしても怖い。


 深海に光が届かないように、スイレンに救いの手が伸びることは無い。スイレンは深く息を吸って、目の前の術式を読み上げる。指をあげた時、スイレンの肩を、小さな手が触れた。

 それは、何よりも大きくて、温かな救いの手だった。


 ***


「スイレンさん! 何してるの!」


 イーラは肝が冷えた。

 どうにか山を降りて、フィニを探していると、偶然にも岩の牢獄を見つけた。そこにいるかもしれないと思っただけでも十分怖かったのに、恐る恐る牢獄を歩くと聞き慣れた声がずっと同じ術式を呟いていた。

 その声を辿り、檻の前に立つと、スイレンが一心不乱に術式を書いていたのだ。壁全体に、指から垂れた真っ赤な血で。


 スイレンはおもむろに振り返ると、虚ろな瞳でイーラを見上げた。


「············イルヴァ?」

「ええ。イルヴァーナよ。その手、こっちに寄越してちょうだい。早く治療しないと、病気になっちゃうから」


 スイレンは自分の手をじっと見つめると、投げ出すようにイーラに差し出した。イーラはその手を掴むと、「バカじゃないの!?」と荒れた傷口を見て叫んだ。


「あーもう! ボロボロ! 爪も、皮膚も! 結構血が出たのね。壁いっぱいに何書いてたの? 傷口を洗わないと。水······あ、さっきタワモ草を見つけたのよ。海の近くに生えてる雑草。知ってるでしょ? 丸い根っこに水を蓄える性質を持つヤツ。あれ結構便利なのよ。こうやって傷口を洗うのに水を持ち歩かなくてもいいから」


 イーラはタワモ草の根を握り潰し、スイレンの手に水をかける。すると、スイレンは手はみるみるうちに傷を塞ぎ、元の綺麗な手に戻った。

 そういえば、スイレンは水で傷を治せると言っていた。自分が傷薬を使わなくても、勝手に治ってしまうのか。

 スイレンは治った手のひらをまじまじと見つめると、イーラの頬に手を当てた。


「······本当に、本当にイルヴァなのかい?」


 イーラはスイレンの手が震えているのに気がつくと、頬に当てた彼の手を包み込んで真っ直ぐ見つめた。

 暗い夜の海のように沈んだ心に光を照らすように、イーラは優しく声をかけた。


「そうよ。マシェリーの娘、魔力を持たない一般人。ギルベルトさんと、エミリアさんと、フィニと一緒にアマノハラに行って、あなたと出会って旅をしている、薬剤師のイルヴァーナ・ミロトハよ」

「······夢じゃあないだろうね?」

「夢でたまるもんか。いないなんて言わせないわよ。私はここにいるわ。この顔も、体も、声も温もりも、全て現実よ」

「······なんでここに来たんだい」



「アンタを助けるためよ!」



 イーラは我慢出来ずに叫んだ。

 スイレンは目を見開くと、イーラの頬を両手で掴む。堪えるように下を向くと、弱々しい笑顔をイーラに向けた。


「ああ、イルヴァ。愛しいマシェリーの子。助けに来てくれてありがとうよ」


 スイレンの笑顔にイーラも自然と表情が緩む。

 スイレンはイーラから手を離すと、辺りを警戒する。


「イルヴァや、どうして脱獄出来たんだい? お前さんは山の頂上の牢獄にいたはずだろう? この山には金剛樹が生えていたはずサ」

「ええ、金剛樹を切って逃げてきたわ。骨が折れるかと思った」

「物理的な意味合いも含んでるねぇ。でも金剛樹は特殊な刃物でないと切れなかったろう? そんな職人専用の代物、イルヴァは持っていたかい」

「作ったわ。持ってる知識を使って」


 イーラは自分で加工したナイフをスイレンに見せた。スイレンはそのナイフを手に取ると観察するように目を這わせ、スン、と匂いを嗅いだ。


「······オトナキビワとエンユトウ? ······ああ、間に火炎樹の保護クリームを塗ってあるんだね。火で炙ってやりゃ保護クリームが固まって、薄い層が出来る。エンユトウをミツヅタと混ぜて粘着性のある毒を作っているのか。これも火を通せば固まるから、相性が良かったんだねぇ。でもミツヅタがこんなに固まるはずがない。何を混ぜたんだ? ああ、ミオロバ草のエキスだ。毒に反応して凝固するから。でもエンユトウの毒性とオトナキビワの解毒効果をどうやって分けた? ······松のような匂いに、薄らと卵のような······サンバソウ? サンバソウか!」

「ええ、サンバソウの目薬は濃密で浸透性が弱い。夜に目薬を差して眠れば一日中乾燥知らずに過ごせるわ。ただ三日置きに使わないと腫れる」

「なるほど、サンバソウの不浸透を上手く使ったわけだ! あっはっは! イルヴァならやってくれると思ったサ! でも点数的には九十五点!」


 スイレンはふう、と息を整えると、ナイフをイーラに返して言った。


「エンユトウとミツヅタの毒をナイフに塗ってから、オトナキビワを使うべきだったね。手順が逆なのサ」

「あら、そうだったの。スイレンさんがいれば、もっと完璧に出来たのね」


 イーラが悔しがっていると、スイレンは首を横に振った。


「いいや、あちしにも思いつかなかった。確かに金剛樹専用ナイフの元となる知識はあちしが考えたものサ。でも、専用ナイフ以外を使う方法は、イーラが今生み出したもの以外どこにもない。天晴れだよ、その発想は。あちしですら思いつかなかった」


 スイレンは「お見事」といって、檻越しにイーラの頭を撫でた。

 イーラは少し恥ずかしかったが、褒められたことが嬉しくて「ありがとう」と笑った。

 イーラは牢獄の鍵を確認すると、ナイフを当ててみた。

 スイレンは「やめときな」と忠告するが、イーラは構わず鍵とドアの隙間にナイフを刺した。

 バキッと音がして、ドアが開くとスイレンに手を伸ばす。


「逃げよう! ここから出て、世界樹の聖堂に向かわないと!」


 スイレンは伸ばされた手を掴み、「そうだねぇ」と震える声で言った。

 イーラはスイレンの手をキツく握ると、外へと駆け出した。

 スイレンはイーラの小さな背中を見下ろしながら、一緒に走った。


 自分よりも小さな体、しかも女の子だ。

 でも誰よりも強く、優しさを持っている。




(······──いつかのあちしも、こうして連れ出して欲しかった)




 スイレンはイーラの背中を愛おしそうに見下ろしながら、目を伏せた。そして晴れ晴れとした表情で前を向く。

 助けてもらえなかった自分に、手を差し伸べてくれる人がいる。自分はひとりじゃない。今は自分が捕らわれていたあの頃じゃない。すっかり変わってしまった世界なのに、どうしてそんな事も知らなかったのか。


 イーラとスイレンは外に飛び出した。すぐ目の前の海にはイーラの船が浮かんでいる。

 仲間の姿に喜ぶイーラの後ろで、スイレンは泣きそうになりながら眩しい光を浴びた。


(囚われていたのは自分の心だったのか)


 イーラは振り返った。救出に来てくれたことに浮かれていた。後ろを向いた丁度いいタイミングでスイレンが吐き気を催していた。


「······すまないねぇ。さっきの、その······水が」

「ああ······水。水ね」


 雰囲気も気持ちも台無しである。

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