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79話 治療に駆ける 2

 海原に船を停めてから四日が経った時、甲板に血が滴った。

 エミリアは顔を歪ませて腕を押さえる。

 スイレンが庇うように前に出ると、男の人狼がスイレンの首に噛み付いた。


「ちょっと! 何してるのよ!」


 事態に気づいたイーラが駆け出すと、その人狼はイーラに目を向けた。血だらけの口でイーラに噛み付こうとすると、咄嗟に飛び出したギルベルトが自分の左手を噛ませる。


「づっ······! はい、どーどーどー。落ち着けって」


 ギルベルトが後ろに回りこみ押さえつける。声をかけても人狼は落ち着く気配がない。鋭い歯をさらにくい込ませてギルベルトを睨む。ギルベルトは脂汗を垂らした。


「話ならちゃあんと聞くからよぉ。少し落ち着けよ。なぁ?」


 ギルベルトが話しかけても人狼は唸り声をあげるばかりで返事をしない。

 ついに骨が折れる音がした。ギルベルトは苦痛に顔を歪めるも、反撃はしなかった。


 助け船を出したのはローウェルだった。

 ローウェルは噛み付く人狼の口に指を入れ、無理やり口を開けさせるとギルベルトの手を引き抜いた。

 血が流れ続ける手を押さえ、ギルベルトはフラフラと後ろに下がる。


「止めろ! なんてことをするんだ!」

「お前こそ! 耄碌(もうろく)したんじゃないだろうな!」


 人狼はようやく口を開くと、怒鳴り声をあげた。


「人間のいい様に使われて! 売られて! こいつらに買われたんだぞ! 人間は自分の事しか考えねぇ! 俺たちは玩具じゃない! どうせ回復したらまた飼い殺されるんだ!」


 人狼はローウェルに低く唸って言った。


「全員殺して船を奪おう! そして逃げよう! 俺たちはもう誰にも縛られたくない!」


 ローウェルはその誘いを「馬鹿を言うな!」と一喝した。


「この人たちはお前たちを助けるために手を貸してくれたんだ! 俺がそう頼んだ! 必ずみんなで、生きて帰るために!」


 ローウェルにそう言われるも、彼には火に油を注いだだけだった。

 歯を剥き出しにすると、ローウェルにも怒りの矛先を向けた。




「人間に魂を売ったのか! この裏切り者!」






「やめなさい!」






 ローウェルの肩に噛みついた人狼を、イーラは後ろからふくらはぎを蹴り飛ばした。

 鋭い痛みに彼はローウェルから離れ、その場に倒れる。


「あ、足がっ······! 貴様! 何をした!」

「軽度の肉離れを蹴り飛ばしたのよ。バッカじゃないの! あんだけ動くなって言ってたのに!」


 イーラは人狼の耳を引っ張ると怒鳴って返す。



「治療が終わったらちゃんと解放するって言ってるわよね! 陸だと攫われたり襲われたりするから海で治してるのって何回言えば分かるのよ! 耳遠いの!?」



 イーラは手を離すと人狼の口を袖で擦って血を落とす。

 嫌がる人狼を睨みつけて大人しくさせるとエミリアとギルベルトの様子を見に行く。


「二人とも大丈夫?」

「大丈夫ですよ。スイレンの魔法で治してもらいました」

「やっぱお前の怒鳴り声が一番効くわ。ローウェル、ジジイに治して貰え」

「海に落としてやろうか小僧」


 ローウェルは肩を押さえてその場に座る。スイレンが行こうとするが、イーラがさっと駆け寄って薬を塗って包帯を巻く。


「傷は浅いから、少しすれば痛みが無くなるわ。今日はあんまり肩を上げないでね」

「ありがとう。イルヴァーナ」


 イーラは噛んだ人狼を睨みつける。人狼は肩を震わせて身を縮こませる。



「あんたは! 動かずに! 大人しくしてなさいよ!」



 イーラは鼻を鳴らして船室に向かう。

 ギルベルトはからかうように睨まれた人狼の頭をワシワシと撫でた。


 ***


 イーラは自室に入ると、減った薬の補充をする。

 複数の薬を同時に作り、無くなりそうな薬材をリストに入れる。

 あれだけ買い足したのに、もうほとんどが空だ。

 あれだけの人狼がいれば減るのは早いだろう。どこかでまた薬材を買わなくては。




「───薬臭い」




 イーラが悩んでいると、ポソッと呟く声がした。

 ベッドの方を見ると、ジャックが目を開けていた。


「ジャック······!」

死霊魔術師(デュラハン)を連れた少女。お前の船だな」


 ジャックは冷たい目で窓の外を見つめる。

 イーラはジャックの手を掴んで脈を測る。傷の状態はまだ良くないが、何とか山場を越えた。

 その安心感でイーラは脱力した。


「あー······本当に良かった」


 ジャックは返事すらしなかった。窓から見える、水平線の彼方を見つめて悔しそうに唇を噛んだ。



「······満足したか?」



 ジャックは唐突に聞いてきた。イーラはわけが分からず頭を上げて聞き返そうとした。が、ジャックはこちらを見ずに話し続ける。


「お前を捕まえようとした敵が、何度も失敗して、議会に見捨てられ、こうやって売られて、お前に買われたんだ。さぞ心地良いだろう。さぞかし愉快(ゆかい)な気分だろう」


 ジャックは自虐しながらイーラに問いかける。

 胸の腕に置かれた腕は、感情を押し殺すように毛布を握っていた。

 イーラは段々と腹が立ってきた。


 まさか、純粋な喜びを汚して見ているのか。真剣に助けようとしたことを、余計だったと言いたいのか。

 まさか、嘲笑うためだけに助けたとでも言いたいのか。



「笑えばいいだろう。『間抜けな人狼。敵に助けられてざまぁないな』くらい──」




「誰かを助けるのに、敵か味方かなんて関係ないわよ! バカたれジャック!」




 イーラは怪我人だということも忘れて、ジャックの頬を拳で殴った。

 胸ぐらを掴み、上体が浮くまで持ち上げると、その鼻先で怒鳴り散らす。



「アンタをバカにするために助けたんじゃないわよ! アンタが、アンタたちが死にそうだったから助けたの! そうね! 前に一回だけ『死んじゃえばいいな』って思った! それくらいアンタは嫌いよ! でもアンタが暴走した時、死んだら困るって心底焦ったのも本当! 助かって良かったって思ってるのも本当! 私は誰にも死んで欲しくない! 私は相手がどうだろうと知ったこっちゃないわ! 私の純粋な気持ちを! 汚して踏みにじらないで!」



 イーラは乱暴に手を離すと、部屋を出ていった。

 廊下ではカナが心配そうにイーラを見上げていた。


「ごめんね。イルルの声がしたから、ジャックが起きたんだって思って······」


 カナはおずおずとスムージーの入ったコップを差し出してしゅんとする。イーラはカナの頭を撫でて「大丈夫よ」と笑った。

 カナは綺麗な瞳でイーラを見上げると、「あのね」と言葉をかける。



「ジャックはね。怖いだけなの。自分がどう見られているのか、情けないって言われるのが。だから、最初にイルルに『そうね』って言われて、自分を守りたいの。仲間に情けない奴だって後ろ指さされても、イルルに最初に言われたからって、自分に大丈夫だって言える何かが欲しいの」



 ジャックが自虐なことを言ったのはそういうことか。

 敵に最初に笑われた、だから仲間に笑われても平気だと、自分に暗示をかけたいのだ。情けない自分を、誰かに言われて納得したいのだ。

 でもイーラは言わなかった。情けないとすら、思っていなかった。


 何度も自分たちに立ち向かってきた奴が、何回も負けているのに追いかけてきた奴が、どうして情けないと思えるのか。どうして愚かだと思うのか。


 イーラは納得すると、カナに「教えてくれてありがとう」と言って甲板に向かった。



 ***



 カナはそっとドアを開けた。

 イーラの部屋に入ると、薬の濃い匂いに顔をキュッとしかめる。

 そしてまだ外を眺めるジャックのそばに寄ると、テーブルにコップを置いてジャックを起こした。



「おはようジャック。これ飲んで。ギールに教えてもらった。スムージーって言うんだって。野菜とフルーツたっぷりで美味しいよ」



 ジャックがそっぽ向くと、カナは頬を膨らませてベッドによじ登る。ジャックの膝に座ると、コップをジャックの顔の前に出す。


「飲まなきゃダメだよ。またイルルに怒られるよ」

「イ、イルル? ······ああ、死霊魔術師(デュラハン)を連れた少女か。···いらない。俺は」




「イルルは命を大事にしない人が嫌いなんだよ」




 カナはジャックの言葉を遮ってコップを無理やり渡す。

 カナはジャックの髪を整えながらイーラの本音を教えてあげる。



「イルルはね。ジャックを仲間のところに帰したいの。皆に『無事だよ』って安心させたいの。皆がジャックのこと、心配してるの知ってるから。自分も、ジャックのことが心配だから。だから目を覚ますまで、イルルはずっとジャックの手当てしてたよ。あんまり寝ないで人狼の仲間を見回って、夜中でも治療してたんだよ」



 イーラの行動を知って、ジャックは目を見開いた。カナは「ちゃんと表情があるんだね」なんて呑気に笑った。

 ジャックが目線を下げると、カナは気持ちを察して「イルルはね」と話を続けた。



「自分のそばにいる人は、自分の手の届く範囲にいる人は皆救いたいんだよ。それが人間でも魔族でも関係ないんだよ。命だから。それが皆尊い命だから意地でも助けたいの。自分をすり減らしてでも助けたいの。ジャックにも分かるでしょ」





「ジャックが遊撃隊の仲間を助けたいって思ったように。助けようとしたように、イルルもジャックやその仲間を助けたかったの」





 ステージで暴走した理由を言い当てられてジャックは更に驚いた。カナは自分の左頬を擦ると、鮮やかな模様のシルフ紋を見せる。擦るとまた消えた。ジャックはカナが知っていることに納得した。


 ジャックが暴走したことも、イーラがジャックを助けようとしたことも、そこに悪意なんてない。カナがそれを教えるとジャックは「そうか」とだけ呟いた。

 カナは満足そうに笑うと、ジャックの膝からおりて部屋を出ていった。

 ジャックは一人になるとまた、海を見つめた。


 どこまでも広がる大海原と、輝く太陽が眩しい。

 光沢のある反物のような水面をカモメが滑り、耳を澄ませば上からイーラの怒鳴り声や誰かの笑い声が聞こえる。


 ジャックはまた、「そうか」と呟いてスムージーを飲んだ。

 半分になったスムージーに、一滴の雫が落ちた。

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