62話 追い風が吹く
イーラはぼうっとしながら、噴水で顔を洗った。
ついさっきに起こった出来事なのにイーラはほとんど覚えていなかった。
スイレンが珍しく大声を出した気がする。
フィニがイーラの手を握って嬉し泣きしていたような。
エミリアに、初めて抱きしめられたんだっけ。
握られた手をじっと見つめ、クシャクシャに撫でられた髪にそっと触れる。イーラは濡れた顔をぐいと荒く拭いた。
そのまま朝市に赴いて、適当にパンとチーズを買う。肉の塊も売っていたが、太めのベーコンを少し買った。
野菜とハーブの目利きは出来るが、肉なんて全部一緒だ。ギルベルトに買わせるべきだったか。いや、あいつは腐った肉を食う文化の人間だ。やめておいた方がいい。──体調面的な意味で。
イーラは食材を買うと、外れの空き家に駆けた。
家に戻ると、スイレンがギルベルトと一緒に設計図を仕上げていた。フィニはカナと遊んでいる。
カナにあやとりを教えてあげているようで、フィニはカナの上達ぶりに満面の笑みだ。
イーラは家の奥のキッチンで朝食を作る。
野菜を洗い、チーズを切る。
鍋に切った野菜を入れて、水をひたひたに入れる。
イーラがせっせと作っていると、エミリアがそろりと顔を出した。
「あの、手伝いますわ」
「そう? じゃあパンを切って、チーズをのせてくれる?」
イーラは竈に薪を突っ込むと火の着いたマッチを放り込む。空気を送り込みながら火加減を確認していると、エミリアがイーラの隣にしゃがんで火を見つめた。
「いつもやってたんですか?」
「一緒に旅してたのに、見てなかったの?」
エミリアの質問に、イーラは質問で返した。
旅をしている間、料理はエミリアとイーラが交代で担当していた。
野宿が必要な時の寝床の確保と設置はギルベルトとフィニ、安全の確保はスイレンが来てからは楽になった。
交代で見張りをする必要も無くなり、初期の頃よりは寝不足はだいぶ解消されている。
エミリアは「そうではなく」と、揺らめく炎を目に焼きつける。
「その、旅をする前の話ですわ」
イーラは興味なさげに相槌を打つと、「当たり前でしょ」と返した。
マシェリーが死んでからは、全て自分でやらなければいけなかったのだ。洗濯も掃除も、料理だって全て自分でやるのだ。
マシェリーは薬材の管理やら目利きやら、薬に関するいろはの全てはイーラに叩き込んだのに、生活面のことは一切教えていなかった。
おかげでマシェリーが死んで一ヶ月は苦労した。
料理なんて食材をそのまま貪り、火を通す調理法を三日後に知った。
洗濯は川で洗う人たちの見よう見まねで覚え、掃除は薬材管理に基づいて学んだ。
全部自分で考えて覚えた。
風邪を引いても代わりに食事作ってくれる人はいないし、破けた服の修繕だって下手くそでも自分でやる。
冷たい水で手がかじかむのも、感想で指先が切れるのも、今はもう慣れた。
イーラはひとしきり話すと、「一番最初に教えるべきじゃない? 家事はとても大切なのに」とエミリアの方を向いた。
エミリアは悲しそうな表情で、唇を噛んで涙を堪えていた。
「命に、土の温情を。──とても大変なことですよね」
エミリアは堪えきれなかった一滴を拭うと、イーラの方をちらりと見た。
「いいえ、分かっています。何も知らぬ、何ら関係のない他者が言ってはいけないと。言ってはいけないのですが、辛かったでしょう」
「······そうね、辛かった。でも最初だけだわ。慣れてしまえばこんなもんよ。エミリアさんの話も聞きたいわ。ヴォイシュに流れ着く前はどうやって生活していたの?」
エミリアはその話を振られると、頬を少し赤くして「その···」と口ごもった。
「わ、私は人様から奪って生きてきたので。あ、でも森を駆ける鹿は美味しかったなぁ」
「鹿? 鹿って食べられるの?」
「はい。獣臭さはあるんですが、なかなかの味ですわ。あと、クセは強いんですが熊なんかも」
「熊を食べる人は私、初めて見た」
「今度、捌き方を教えましょうか? あとは捕まえ方。意外と魔物との戦闘に使えるんですよ」
「ええ是非。面白そうだわ」
イーラとエミリアは小指を絡め、約束を交わす。
あとは二人で女性らしい会話をした。
どこぞで見た宝石のネックレスが綺麗だったとか、立ち寄った町の服が可愛かったとか。スイレンとギルベルトの喧嘩がうるさいとか、なんてことの無い会話だった。だが、今までよりも彩りがある。
スイレンの料理の雑さを話していると、遠くからくしゃみが聞こえて二人でクスクスと笑った。
「楽しいわね」
「ええ、とっても楽しいですわ」
エミリアはベーコンを焼き、チーズと一緒にパンに挟む。
イーラは作ったスープの鍋を持って、居間に顔を出した。
***
設計図は完成した。あとは作るだけ。
ギルベルトは二階のガラクタ部屋に閉じこもると、ガタガタと騒がしい音を立てる。
フィニはギルベルトに呼ばれて部品の選定や道具の受け渡しなど、製造の補佐を務める。
カナは遊び相手がいなくなってつまらないようで、イーラの袖を引っ張った。
「カナ、外で遊びたい」
「ええ、いいわよ」
「すまないが、まだ外には出ないどくれ」
スイレンはそう言ってイーラとカナを止めた。もう一度「すまないねぇ」と言うとカナをその場に座らせる。
「今外に出て、お前さんが元気な姿を集落の民に見せちまったら、お前さんを奪い返しに来るかもしれない。装置が出来るまでは家の中に居ておくれ」
「でも、あんまり家の中にいたら退屈だわ」
「イルヴァの言い分もよく分かる。が、危険に晒す訳にもいかないだろう。集落の民は日が沈むと外に出なくなる。その間、少しだけなら外に出てもいいからサ」
「それなら、カナ我慢するよ」
カナは嬉しそうに返事をする。イーラは少し申し訳ない気持ちになったが、エミリアがカナの遊び相手になるとイーラは隣の部屋に少しこもった。
カバンの中の薬を全て出すと、劣化したものとそうでないものを分ける。劣化したものの中で、まだ使えるものともう使えないものに更に分けると、イーラは使えない薬の多さにため息をついた。
「そうよね。スイレンさんがいれば、私の薬なんて必要ないわよね」
イーラは薬をカバンに戻すと、要らなくなった薬を持って居間に戻る。
カナはイーラの手持ちの薬に目を輝かせた。
「わぁ、綺麗ね」
「そう見えるかもね」
カナが薬に手を伸ばすと、スイレンは慌てて止めた。
「危ないだろう」と怒る姿はまるで父親のようだ。原初の魔導師だった彼女を大事にしているのが分かる。
イーラは試験管を開け、匂いと薬の濁り具合を確かめると、太陽に透かし見て、比較的綺麗な色の薬だけをカナに渡した。
スイレンは落ち着かないようだが、「平気よ」とイーラに背中を叩かれる。
「飲んでも影響はないわ。毒に変わるには相当な年月が要るし、仮に何かあっても、アンタと私で対処出来る。そうでしょ」
「もちろんだとも。だが、もしもの事を考えると。薬にも肌につけたらいけないものや、目に入ると危険なものもあるだろう?」
「ちゃんと選んだわよ。忘れたの? 私は薬剤師よ」
肌に触れても平気な薬や、良い効果をもたらす薬は全部把握している。それを見越した上でイーラは薬をカナに渡していた。
もちろん廃棄するものだったのだから、多少は悪影響を与える可能性がある。スイレンはそれを案じていた。
イーラはスイレンが安心出来るようにこっそり伝えた。
「あの薬、全部無毒よ。だって──緑の筋が入ってるでしょ」
イーラは足りなくなった薬材を買いにまた外に出た。
スイレンは「なるほど」と納得したが、すぐにそれは疑問に変わる。
スイレンはカナから試験管を一つ借りると、薬を陽光に透かすように見上げた。
薄紅色の薬には確かに緑の筋状のものが揺らいでいる。
スイレンは目を見開くと「そんなまさか」と呟いた。
「これ、魔法痕じゃあないか」
魔導師にしか見えない魔法の痕跡を、イーラは見何故かえていたのだ。




