61話 心に吹く風
夢を見ていた。
誰かの夢だ。
イーラではない誰かの夢だ。
声がする。
涙声だ。
それを慰める人はいない。
『もしも生まれ変われるなら』
泣きじゃくる声がそう零した。
女の人の声だ。
イーラは空を仰いだ。
どこまでも澄んだ青い空だ。
視界の端から傷だらけの手が伸びる。
それを見た時、「ああ、クムラハトラさんだな」って。
納得した瞬間に、胸が風船のように膨らみ、破裂するような痛みに襲われた。
息さえ出来なかった。
苦しかった。
泣いても泣いても拭い去れない痛みだった。
彼女は呟いた。
それは希望だったのだろうか。
懇願だったのだろうか。
──自身にかけた、呪いだったのだろうか。
***
イーラは穏やかに目を覚ました。
他人の過去を見たというのに、大昔の記憶に驚きもせず、ゆっくりと目を覚ました。
仲間は皆、寝息を立てて薄い布団にくるまっている。
フィニは背中が痛むのか、床と体の間に布団を挟んで芋虫のようになっていた。
イーラは寝床を抜け出すと、上着を羽織って夜風に当たりに外に出た。
暗いのに、何とも綺麗な青い夜だった。
白く輝く星が長い川のように連なり、吹き抜ける風が心までも洗ってくれる。神聖だとさえ感じる夜だった。
イーラは集落の広場まで散歩に出かけた。
この清々しい風を浴びていたいと思ったからだ。
風が髪をかきあげる度に、胸に巣食っていた不安が薄まる。服を揺らす度に暗い心を晴らしてくれる。
こんなにも心地よい夜なのに、イーラは夢をずっと思い出していた。
民のために命を捨てたなんて、美化されたらたまったもんじゃない。
何度生まれ変わっても同じ結末を辿るなら、生まれることすら後悔の種だ。苦しい。助けてくれる人がいないことが、余計に。
イーラが噴水の前まで来ると、一人の女の子が噴水に腰掛けていた。
ずっと口を聞かない、生まれ変わりの女の子だ。
いつの間に家を抜け出したのだろう。イーラが寝る時には隣にいたはずだ。そういえば起きた時にはいなかったような。
「冷えるわよ。ったく、上着くらい持ってきなさい」
イーラは苛立ったように言った。だがほとんど何も出来ない女の子に、上着を着るなんて出来るわけがない。
イーラは自分の上着を脱ぐと、女の子にふんわりとかけた。
「······災難よね。アンタもさ。何回目なの? 生まれ変わったのは」
イーラは答えないと知っていながら女の子に声をかけた。
「毎回毎回、こんな目に遭わされて辛いわよね。何回繰り返しても、誰も助けてくれないし」
イーラは一人で、ずっと思ってたことを吐き出した。
「生まれたことにすら苦しむような人生をさ、何で他人は理解してくれないんだろう。ずるいよ。ずるすぎる。だって、アンタは死ぬのにみんなは平和に生きるんだよ。アンタは幸せになれないのに、皆はアンタの幸せを食いつぶして満足するんだよ」
イーラは怒りと悲しみに押しつぶされそうになった。
たとえ自分の身の上でなくとも、どうしても許せなかった。
「腹が立つの。平気で人を犠牲にする奴らが。死んだ人の事なんか考えずにのうのうと生きる奴らが。『どうせ世界樹の根元で安らかに眠って、新たな人生を歩むんでしょ』って、まるで他人事。何度も繰り返してるのに、何にも学習しないでさ。何であいつらが生きてんだろうって思うとムカつくの。イライラするの」
イーラは溜め込んだ感情を吐き出すと、顔を上げた。
ふと横を向くと、女の子は大きな瞳からボロボロと大粒の涙を零していた。イーラはギョッとして、咄嗟に女の子を抱きしめた。
どうしていいか分からなくなり、イーラは「ごめん」ととりあえず謝った。
「ごめんね。アンタに怒ったわけじゃないの。本当よ。ごめんね」
イーラは女の子の背中をさすり、女の子が泣き止むのを待った。
だが五分経っても十分経っても、女の子が泣き止む様子はない。イーラが困り果てていると、マシェリーの声が聞こえた。
『悪夢には子守唄が一番よ』
「母さん──!!」
イーラは周りを見回すが、そこにマシェリーの姿はない。
悪夢には子守唄、なんて女の子は眠っていない。悪夢にうなされてもいない。だが、この子にとっては寝ていようと起きていようと、生きていること自体が悪夢みたいなものだ。
イーラは女の子が泣き止むならば、と子守唄を歌った。
「······『夜に輝く三日月は 地上に奏でる命の調べ』」
イーラが幼い頃に、よく歌ってもらった子守唄だ。
マシェリーはいつもイーラが眠れないと歌ってくれた。子守唄を歌って眠る時、マシェリーはは必ずイーラの頭を優しく撫でた。
『可愛い私のイルヴァーナ。何があってもあなたは強く生きられる』
いつかマシェリーがイーラにかけた言葉。
その数年後に死ぬなんて思わなかった。
『絶対に命を疎かにしてはダメよ。あなたはとても優しいから、きっと自分を犠牲にしてしまう。だからこれだけ約束してちょうだい。絶対に、命を軽んじることはしないで』
かつてマシェリーと結んだ約束が掘り起こされる。
あの時は指切りをしながら眠ったんだっけ。あの日のマシェリーはいつも以上に優しい笑顔をしていた。
(──約束、守ってるわよ。ちゃんと)
イーラは涙を一筋流して子守唄を歌った。
母のように優しく歌うことは出来ないが、あんまり上手に歌うことは出来ないが、思い出を詰め込んだ歌は、イーラの心と一緒に夜に溶けていった。
イーラは女の子を胸に収めると、ギュッと目をつむった。
──どうか、どうかもう、苦しまないでほしい。
そう願いながら、イーラは女の子の髪を撫でた。
イーラの胸の内に、一つの言葉が浮かんだ。それは、言葉というより名前だろう。イーラは慈しむように零した。
「帰ろう。『カナトネルラ』」
「······風の戯れ、精霊の気まぐれ」
聞き覚えのある言葉と声がした。
イーラは目を見開いて、女の子を見下ろした。
女の子は泣きながら微笑んでいた。何種類もの色が混ざった、キレイな瞳には光が戻っている。
「誰も呼んでくれなかった、カナの名前。呼んでくれてありがとう」
イーラはまた女の子を抱きしめた。
「必ず助けてみせる」
「もう助けられたよ」
イーラはまた泣き出した女の子の背中をさする。
女の子は嬉しそうにすすり泣いていた。
イーラは決意したように女の子を抱きしめた。
風向きが変わる。暖かい風が、噴水の音に包まれる二人に吹いた。




