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55話 イーラの秘密

 気持ちが悪かった。

 胸の中に何かが入って来る感じがした。

 まるでタンスを漁るようにかき乱される胸の内が、イーラの吐き気を引き起こす。


「······神聖な山に吐いたら············殺されそうね。オェッ······ムリ。ハキソウ」


 イーラはなんとか吐き気をこらえ、カバンから薬瓶を出して飲む。苦味でさらに吐き気が込み上げるが気合いで抑えた。

 吐き気が収まるまで、イーラは近くの木に背中を預けて座った。


 どこを進んでも霧が視界を遮って、山頂が見える気配はない。なんなら同じところをグルグルと回っているような感覚さえある。

 イーラは膝を抱え、深呼吸して体調を整える。


 疲れた。帰りたい。こんな試練なんていらない。

 吐き出したい弱音も全て飲み込んで、イーラは深く息を吐き出した。

「早く行きましょ。皆が着いてたら悪いわ」



『だぁれも着いてないわよ』



 イーラが顔を上げると、そこには自分の姿をした奴がいた。

 イーラはナイフを出して分身に向けると、分身はケラケラと笑ってイーラを馬鹿にする。


『そんなもので私は死なないわ。仮に殺せたとしても、アンタは山頂に辿り着けない』

「よく喋るわね。私の格好なんかして、イライラするわ」

『そうよね。アンタはずっとイライラしてる。アンタはずっと、自分は必要ないと思ってる』


 イーラが胸にしまった本音を、分身はいとも簡単に口にした。

 イーラの心がザワつく。ナイフを握る手が震え出した。


『旅を始めたのは自分。ここまで仲間を増やしたのも自分。だけどアンタは増えた仲間に自分の自信と役割を、根こそぎ持ってかれて辛いんでしょ』


 分身はイーラにゆっくりと近づいてきた。イーラは歯を食いしばり、ナイフを分身に向け続ける。だが分身は、イーラの手をそっと包み込むと、向けられたナイフを自分の胸にゆっくりと突き刺した。

 ナイフが刺さっても、分身はなおもイーラに近づいた。


 イーラを抱きしめられるくらいまで近づくと、イーラの耳に囁いた。



『アンタの秘密は、旅を放棄したいって欲。仲間が力を発揮する度にアンタの怒りは募るばかり。本当はシュヴァルツペントに来たところでやめたかったんでしょ?』

「───そんなこと思ってない」

『嘘ついちゃダメじゃない。アンタは仲間が嫌いなの』

「思ってないわ! 皆大事な仲間なんだもの!」



『じゃあ、どうして距離を置かれているのかしら?』



 ······気づきたくなかった。

 イーラは突きつけられた言葉に、反応出来なかった。

 分身はイーラを更に追い詰めていく。


『ギルベルトさんはスイレンさんと喧嘩してるわ。それでも仲がいいじゃない? エミリアさんはフィニやあの二人とばかり話してる。フィニは一緒にいてくれるけど、いっつも誰かに呼ばれてる。スイレンさんはアンタを通して母さんを見てるだけ』



『アンタ、必要とされてないのね』



 嘲るようなもの言いに、イーラは何も言い返せなかった。怒りすら湧き上がって来なかった。


 分かっていた。自分が必要ないことくらい。

 魔法なんて使えないから、魔法の話が出てもついていけない。

 魔物だって知らないから、戦う時に使える薬も作れない。

 仲間の治療ならと後方支援に回っても、スイレンがいれば傷なんてすぐに治せる。


 誰かを守る力もない。誰かに頼られるだけの技術もない。

 皆はイーラが決めた道を、自分の事情でついてきているだけ。

 これがイーラに理由がなかったら、ついてくることなんてなかった。


 分身は欲張ったようにイーラの背中に手を回した。


『アンタは中々興味深いわ。アンタが知らない秘密まで持ってる。これは面白い。ねぇ、アンタが壊れるような秘密を引きずり出してあげようか』


 分身の手が、イーラの背中に入っていく。

 直に心筋を撫でられたような痛みと気持ち悪さに、イーラは鳥肌が立った。抵抗したくても抵抗出来ない。

 助けも呼べない。

 自分一人で何とかしなければ。




『ぎゃっ!!』




 唐突に分身はイーラから距離をとった。

 火傷して焦げた腕を見つめ、イーラに睨みを効かせる。


『どういうことよ! せっかく面白そうな秘密に触れられたのに、どうして弾かれるのよ!』


 分身に睨まれたこと、人の秘密を『面白そう』などという理由で引き出そうとしたこと。

 イーラが怒るには十分な理由が出来た。その瞬間に、イーラの胸は激しい炎が渦巻いて、血を沸騰させる。



「こンの、性悪野郎!」



 イーラの怒りが爆発した。分身は突然の怒号に驚き、肩を縮ませる。


『な、何よ。突然······』

「私が気にしてること堂々と言いやがって、失礼だと思いなさいよ!」


 イーラは血のついたナイフをまた分身に向け、吹っ切れたような、やけくそになったようなキレ方をした。


「そうよ! 担ってきた役割も、仲間が増える事に無くなってくし、一般人だから魔法の話もついていけない! 仲間に距離を置かれても当然だわ! もう旅やめたい! 目的も母さんの頼みも全部どうでもいい! いいじゃない! 私だって寂しいの! 孤独感くらい感じるの! それを吐き出したらここまで来た意味が無くなるじゃない! 皆がついてきてくれた意味諸共!」


 イーラはボタボタと大粒の涙を零しながら言った。

 どうせ自分の分身だ。誰かに聞かれても構わない。

 溜め込んだ弱音も本音も、秘密も全部吐き出すつもりで言った。




「············あの平穏な日々に戻りたい」




 細々と薬局を営んでいた頃に戻りたい。

 金がなくても、母に教えてもらった薬を作っている間が幸せだった。

 母の死の理由も知りたい。母が聖堂に行けと言った意味も知りたい。けれど、旅を続けるうちに自分のいる意味を失って、自信がなくなって、いつの間にか帰りたくて仕方なかった。


 いつだって腹を立てている。

 いつだって苛立っている。


 イルヴァーナが『イーラ』と呼ばれるのも、愛称なんかじゃない。

 いつもイライラしているから『イーラ』。

 名前なんて関係ない呼び名だった。


 惨めな涙を拭うイーラの頬を、分身はそっと包み込んだ。

 先程までの嘲笑はない。哀れむように、励ますように分身はイーラに言葉をかける。


『ようやく言えたわね。あなたの秘密』


 分身はイーラを優しく抱きしめると、涙をこぼした。


『誰だって帰りたいし、自分の無力さを知る。アンタは強がりすぎて、隠してしまった。でもね、忘れないでちょうだい。皆、自分の理由だけでついてきてないの。アンタが求めたから、アンタが皆の手を引いたからついてくるの。アンタは無力じゃないわ。そうじゃなきゃ、出会った皆がついてくることなんてないのよ』


 イーラは分身の背中に手を回し、顔をうずめた。

 霧が濃くなり、イーラたちを包みこむ。霧が晴れると、イーラは一人になっていた。

 イーラは赤くなった目を擦り、土だらけになったナイフを拭ってポケットに入れた。


「······安心していいのね。私にも、出来たことがあるって」


 イーラは見通しの良くなった山を突き進んでいく。

 青い空から照る太陽は、イーラの黒髪を輝かせる。

 イーラのうなじから染まったオレンジ色の髪は知らない間に範囲を広げていた。

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