52話 エミリアの秘密
エミリアは困惑していた。
今の今まで目の前にいたギルベルトが、霧が濃くなった瞬間にいなくなった。後ろでエミリアの袖を掴んでいたフィニもいない。
「ギルベルト! フィニ!」
二人の名を呼んでも返事はない。
「はぐれたようですわ。きっと山の魔力のせいでしょう。せめて一人だけでも見つけなくては!」
エミリアは山を駆け足で登る。登る度に山は青々とした草木から、痩せ細り、枯れ果て朽ちた山に変わる。
エミリアは山の変わりように胸がざわついた。
死の世界に迷い込んだような枯れ地に、エミリアは土をすくい上げた。
乾燥し、痩せた土だ。栄養も、水分も全く足りない。太陽もこの濃霧では差し込んでこないだろう。
「酷い、荒れようですわ」
エミリアがそうこぼした時だ。
『荒れ地を癒し、恵みの大地に戻すのが、土魔導師の仕事であり、あなたのかつての役割ですわ』
自分と同じ声がする。
エミリアは辺りを見回した。
「誰ですか! 出てきなさい!」
エミリアが叫ぶと、枯れ木の裏から、ゆらりと一人の女が現れた。それはエミリアとそっくりな女だった。
『そうでしょう? 神殺しの私。そして──』
『──非魔導師嫌いの土魔導師』
***
昔、流浪の土魔導師の一団がいた。
あらゆる村を回っては、魔法で田畑を潤し、土の恵みをもたらして知らぬ間に旅立つ暮らしをしていた。
見返りを求めず、困る者を助け、生きることに感謝しながら世界を回る心優しい一団だった。
当時、五つほどだった幼い女の子も、それを誇らしく思って手伝いをしていた。
『慈愛』を冠する土魔導師は、決して人を見殺しにはしない。
其れが胸に刻んだ、父と母との約束であり、一団の信念だ。
だが、ある晩のこと。
夜も更けた森に、ある男が一団のテントを訪ねてきたのだ。
『どうか、うちの村を救ってほしい』
咽び泣く男を放っておけず、一団はすぐに男の村に向かった。
男の村はすぐ近くにあった。一団が村に入ると、そこには松明を掲げ、鬼の形相で待ち構える村人たちの姿があった。
一団が驚く間もなく、村人たちは彼らに襲いかかった。
団長が防衛の呪文で土のドームを創り出して仲間を守ったが、村人たちは丸太やらクワやらを持ち出してドームを砕いた。
そして団長を引きずり出すと、松明で団長を生きたまま焼いて殺した。
団員は何とか理由を聞こうと、説得しようと試みるが村人たちは耳を傾けさえしない。
一団は尽く殺されて、幼い女の子とその両親だけが残された。
女の子の両親は最後の力を振り絞って、ゴーレムを生み出し、女の子を遠くへと連れていくように命じた。
「行って! 必ず生きて! 土の加護は必ずあなたを助けるから」
それが、母の最後の言葉だった。
そして村が豆粒ほどになった時、ようやく村から明かりが消えた。女の子は憎しみを吐き出すように、ゴーレムの腕に爪を立てて叫んだ。
「大っ嫌い! 魔法を使えないくせに! わたしたちを頼ってきたくせに! 話し合うような頭も心もない! 嫌い嫌い嫌い嫌い!」
使ってはいけない言葉で彼らを呼び、エミリアは怒りを叫んだ。
「非魔導師なんか大っ嫌いよ!!」
***
山に秘密を捧げる。それは分身を殺すこと。
エミリアはそれに気がつくと、そっと、忍び寄るように殺意を分身に向けた。
「魔力を持たない、一般の方を、非魔導師と呼んではいけませんわ。魔導師の優位を見せつけ、彼らを嘲る蔑称です」
『あら、随分と上品になりましたね。あの一団が皆殺しにされた後、あなたは自分が犯した罪の数をきちんと数えて精算したのですか?』
エミリアはぐっと口を噤んだ。
精算なんかしていない。父と母が死んだ後、エミリアは盗賊まがいの生活を送り続けていた。
金を盗み、食料を盗み、商団を襲って谷底に突き落としたこともある。
流れ着いたヴォイシュで初めて他の土魔導師と出会い、巫女としてやり直した。
それでも、罪を償おうとしたことはない。ヴォイシュの神の世話もさることながら、エミリア自身、反省していなかった。
むしろ当然だとさえ、思っていたのだから。
エミリアは杖を構え、自分の分身を睨んだ。
杖を地面に突き立てて土の槍を奴に突き刺した。だが、分身は血反吐を吐く様子もない。むしろ腹に刺さった槍をペチペチと叩いて笑っていた。
『無駄ですわ。私を刺しても意味はありませんの』
「そんな······」
分身はショックを受けるエミリアに杖を向けた。すると、土の茨がエミリアに襲いかかり、がんじがらめにする。
エミリアは杖で地面を突いて自分の周りに土の壁を創ると茨を砕き、地面を踏み込んだ。
傾斜のある地面では、あまり戦ったことがない。奇襲ばかりで反撃なんてされたことがない。
それもあっただろうか。エミリアは分身の物理攻撃に苦しめられた。
杖同士が激しくぶつかり合い、木の軋む音が響く。
上からの攻撃、足払い、砂かけ···卑怯とも言えるその攻撃は、エミリアの苛立ちを募らせていく。エミリア自身も果敢に攻めるが、攻撃の隙間から伸びる反撃に追い詰められていく。
エミリアはその間も考え続けていた。
(──秘密を明かしたのに、何も変化がないということは、私の分身を殺さなくてはいけないのでしょうか)
(──でも、もしそれでもダメであれば、私は試練に失敗したことになるのでしょうか。そうなったら、どうなるのでしょう)
忌々しい過去の自分とそっくりな動きに、エミリアは防戦一方だった。
エミリアの気を乱そうと、分身は絶えず話しかけてくる。
『やはり昔の癖は直りませんね。荒々しい動きが隙を作るのです』
『ああ、可哀想に。私を殺せずにあなたは山の養分となるのでしょうね』
分身は杖で地面を突き、土の槍をエミリアに突き立てる。エミリアは咄嗟の判断が遅れ、杖でそれを受け止めた。
────バキッ!
嫌な音がして、エミリアの杖は真っ二つに折れた。
エミリアが肩を落とした隙に、分身の放った茨がエミリアを枯れ木に縛りつける。
エミリアは身動きが取れなくなり、敗北の色を濃く感じていた。
分身はエミリアの本性を引きずり出そうと、杖をエミリアの喉元に突き立てて言った。
『あなた、本当は旅なんてどうでもいいんでしょう。イルヴァーナさんへの恩返しも、何もかも』
エミリアの眉がぴくりと動いた。
『だって、非魔導師が嫌いなんですもの。神を恐れていたのだって、村人が皆喰われてから自分一人で逃げ出すつもりだったのですし。正直イルヴァーナさんを嫌悪している。一緒にいるのも嫌なんでしょう? だって、親を殺した非魔導師と禁忌の死霊魔術師であれば、当然後者を選びますもの』
エミリアは自分の分身の高笑いを聞きながら、目を閉じた。
自分は本当にイーラを嫌悪していたのか。
本当に自分のことばかり考えていたのか。
なんのために巫女になったのか。
本当に一般人が嫌いなのか。
ふと、イーラの姿が脳裏を過った。
誰かの命が危機に陥ったら、誰よりも先に駆け出す姿。
誰かが困っていたらすぐに手を差し伸べられる。
間違ったことには相手が誰でも関係なく怒鳴って正す。
神を恐れていた自分に、「あなたは神を崇めてない。恐れているだけ」と言い切った時でも、イーラは前を向いていた。
彼女こそ、かつて所属していた一団の信念を貫いている。
「······まだ、恐れています」
エミリアは小さく呟いた。
分身は意味がわからないと言わんばかりの眼差しを向ける。
「一般人は嫌いです。突然裏切るし、自分に敵わないと知るとすぐに態度を変える。一団にいた時からずっと思っていたことですわ。そうですね。あなたの言う通り、私は誰が何を成し遂げようと、自分が裏切られさえしなければそれでいいのかもしれません。でも、私は変わった。もう過ちを犯したりはしません──」
エミリアは顔を上げた。そして、自分の分身に怒鳴りつけるように言った。
「イルヴァーナさんは絶対に私を裏切らない! 私の背中を押してくれた! 間違った道を進もうとした私を正しい道に手を引いてくれた! 何も知らぬ、山から生まれただけの分身ごときが、知ったような口を聞くな!」
エミリアの声は辺りにビリビリと響いた。分身はエミリアの喉に杖を突きつけたまま、目を閉じて空を仰ぐ。
その直後、分身は杖を下ろし、儚げに微笑んだ。
『───それでいいのです』
分身は杖を抱きしめる。エミリアは驚いたように目を見開いた。
『あなたは自分の心に耳を傾ける必要があった。過去に囚われることはとてもとても辛いこと。家族と仲間を襲った一般人への感情とイルヴァーナさんへの感情が区別出来ていないことが、あなたの一番の苦しみです。今明かしたその秘密は、あなたに新たな力をもたらすでしょう』
『どうかどうか、愛することをやめないで。あなたの胸に刻まれた仲間の信念は、今でも強い光を放っています』
分身はそう告げると、霧に包まれて消えていった。
その瞬間に霧は晴れ、乾いた土がボロボロと崩れ去っていく。
エミリアは自由になると、自分の手をじっと見つめた。
折れた杖を抱きしめると、悲しみを押し潰して前を睨む。
「風魔導師に会うためならば、私の秘密の一つや二つ、喜んで捧げましょう」
エミリアは山に入る時よりも、力強い足取りで大地を踏んだ。




