51話 コナラマ山の試練
朝日が昇る。
イーラが目を覚ますと、部屋に陽光が差し込み、心地よい風景を見せる。
凝り固まった体を伸ばし、イーラは開きっぱなしの本を閉じた。
皆がまだ眠る部屋を出て、イーラは広場の噴水に向かった。
銭湯は開いていない。
誰もまだ起きてこない。
空だけが目を覚ました村は、イーラの薄暗い気持ちも知らずに淡い光に包まれていた。
イーラは噴水の水で顔を洗い、滴る水を袖で拭った。
噴水の縁に腰掛け、自分の影を見下ろす。特に何も考えていなかった。だが、何となく皆の元に戻りたくなかった。
『風の戯れ 精霊の気まぐれ』
あの声が聞こえた。
イーラがハッとすると、目の前にはあの女の子が立っていた。
イーラは儚げな笑みを浮かべる女の子に尋ねた。
「アンタはどうして、私の前に現れるの?」
いつもそうだ。最初の人狼の襲撃の時も、嵐の夜も、図書館でのことも。イーラの前に現れ、言葉を発し、消える。
他の人の前に現れるところなんて見たことがない。
女の子は横を向き、吹いた風に髪を梳く。
不思議な子だ。どんな時でも微笑んで、気ままに動き、掴みどころのない。
「アンタは風魔導師なの?」
イーラは聞いた。
女の子は微笑んだ。悲しげな笑みでポソッと呟いた。
『あなたはエミリアを助けた』
『あなたはフィニアンを助けた』
『あなたはギルベルトを助けた』
『あなたはスイレンを助けた』
『今度は風魔導師を、助けて欲しい』
「それってどういう───」
突風が吹いた。イーラは堪らず顔を覆う。
風が止む時には既に女の子の姿はなかった。
目を疑うような出来事に、イーラは呆然とした。何度だって目にしてきた光景に未だに慣れずにいる。
そして今回は、単なる困惑以外に、胸の内に使命感が残っていた。
***
部屋に戻ると全員起きていて、各々身支度を進めていた。
フィニは寝ぼけた笑みでイーラに挨拶をする。
「おはよぉ、イーラ」
「おはよう。寝癖ついてるわよ」
「どこに行ってたんだい?」
「別に······顔を洗いたかっただけよ」
スイレンの問いにも上の空で、イーラは自分の支度を始める。
スイレンはイーラの様子を気にしながらも、準備を続けた。
村を抜け、竹林道を歩くと、山へ入る道が現れる。そのすぐ横には、注意書きの看板があった。
ギルベルトは文字をなぞりながらそれを読んだ。
「えーっと、『この山は風魔導師を祀る、神聖な山である。山を登るならば秘密を捧げ、山の許しを請え』······だってさ」
エミリアは困り顔で「秘密ですか」と呟いた。
フィニも少し恥ずかしそうな表情をする。
確かに秘密を暴かれるのは、何よりも恥ずかしいことだろう。
イーラも心当たりがあるために、少し戸惑っていた。
そんなことも気にせず、ギルベルトは山へと入っていく。釣られるようにエミリアとフィニが山へ入った。
スイレンはイーラの肩を抱き寄せると、「分かるよ」と優しい言葉をかけた。
「誰にでも、秘密の一つや二つはある。それが他人に明かして平気かどうかはそれぞれだけどね。さぁさ、置いていかれないようにあちしらも行こうか。若者は足が速いねぇ」
スイレンはイーラと一緒に山に踏み込んだ。
イーラはスイレンに聞いた。
スイレンにも秘密はあるのか、と。
スイレンは優しく笑った。
秘密だらけだ、と。
山は一歩進むたびに霧に包まれて、先なんて全く見えなかった。スイレンはイーラとはぐれないようにずっと手を繋いでいる。
イーラもはぐれまいと手を強く握っていた。
ふと木の軋む音がしたかと思えば、突然イーラとスイレンの手を何かが叩きつけた。鞭で叩かれたような痛みにイーラは手を離してしまった。
足元を見ると、木の根が生きているかのように動いていた。
イーラは霧の向こうに揺らいだ服を引っ張った。
「スイレンさん、なんだかこの山は生きてるみたいだわ」
しかし、スイレンからの返事はない。しん···としたままで何も返ってこななった。
「ねぇ、スイレンさんってば」
イーラは手を伸ばし、虚空を掴んだ。
「············えっ?」
目の前にいたはずのスイレンはいなくなっていた。
そこにはスイレン以外の誰も、いなかった。




