28話 水魔導師の都
イーラは暗闇にいた。
そこには何も無かった。風も、景色も、温度もない。匂いも、感触もない。五感が死んだようだった。
イーラは辺りを見回すが、誰もいなかった。
ギルベルトもエミリアも、フィニもいない。イーラは孤独だった。
波の音が聞こえた。船の軋む音もした。
そこに船がある。そう直感した。
イーラが後ろを振り向くと、イーラも船の甲板に立っていた。
船には人狼遊撃隊が乗っていた。
甲板を忙しなく行ったり来たりし、太陽の位置から時間と現在地を割り出して船を進めていた。
とても気持ちの良い昼だ。
チラホラと楽しそうに笑う姿もある。イーラに全く気づかずにいた。彼らはとても幸せそうだった。
そこに、シーサーペントが現れた。
赤く釣り上がった目で人狼たちをじぃっと見た。
生々しい悲鳴が耳を埋めつくした。
逃げ惑い、必死に抵抗する姿を見ても、イーラはその場から動けなかった。
何度も足を動かそうとしたが、床に縫い止められたように動かなかった。
それでもイーラは懸命に手を伸ばし、一人でも助けようとした。
その努力は虚しく、イーラの前にいた最後の兵士も、為す術なくシーサーペントの口の中に消えていった。
***
「─────っ!!」
イーラが目を覚ますと、部屋はとても明るく、太陽は一番高い位置にあった。
ベッドや服は汗ばみ、呼吸は酷く乱れていた。
イーラは自分の胸に手を当てた。少し早いが、規則正しく拍動する心臓を、イーラは潰すように胸に爪を立てた。
「······どうしてあの時、私は──」
イーラが甲板に出ると、エミリアとフィニが仲良く海を眺めていた。時折水面に現れる魚を見つけては、あれは何かと楽しそうに話していた。イーラはまた船室に戻ろうかと考えた。
「あっ! イーラおはよう!」
フィニはイーラに気がつくと、駆け寄って挨拶をする。ふとイーラの顔色を確認すると、オロオロしながらイーラの汗を拭いた。
「ねぇ、何か顔色悪いよ。もっ、もしかして具合悪いの? ど、ど、どうしよう······お医者さん呼ばなきゃ!」
「海の上に医者がいるわけないでしょ。大丈夫よ。ちょっと夢見が悪かっただけだから」
イーラはフィニの手を押しのけた。エミリアも心配してイーラの顔に触れた。目の下にくっきりと出来た隈をなぞり、「可哀想に」と胸を痛めた。
「もう少しで着くぞ。ちゃんと準備しとけよー」
舵取りしながらギルベルトが言った。エミリアとフィニはたどたどしい手つきで帆をしまい、部屋に支度をしに戻る。
火魔導師の国を離れて二週間が経った。
フィニが海図を読み間違えるというトラブルを起こした以外、魔物に襲われることも無く、竜巻に巻き込まれることも無く、順風満帆に船は進んでいた。
ギルベルトは望遠鏡で針の穴のように小さい島を見つめ、手すりを下敷きに何か書き物をした。イーラはギルベルトが持ち込んだ魔法道具に海水を汲み入れ、顔を洗う。呼吸を整えると、部屋に荷物を取りに行った。
水魔導師の都──アマノハラ
海に浮かぶ島でありながら、形容する言葉は『街』が正しいような所だった。唯一の出入口、港には大きな門が構えられ、来る船を威圧する。
船が門の前にまで進むと、飛び込み台のような橋が柱からせり出すように現れ、管理局員と思しき男性が分厚い本を片手に船まで歩み寄ってきた。
「船長さんはこちらに」
丁寧な口調で言うと本を開き、ジロッと船長を目で探す。言われた通り、イーラが彼の前に行くと、疑いの目をイーラに向けた。
「船長さんの名前と生年月日を」
「イルヴァーナ・ミロトハ。キィナカントの五月十日。名前はともかく、生年月日って必要なの?」
「規則ですので」
イーラの疑問に男性は眉をひそめ、質問を続けた。
「性別は?」
「女よ。······見てわかるじゃない」
「職業は?」
「薬剤師よ」
「乗員は何名です?」
「私含めて四人よ」
「本国に訪れるのは何回目ですか?」
「初めてだけど······」
「入国許可証、もしくは紹介状はお持ちですか?」
「ねぇ、それ全部答えないといけないの?」
「規則ですので」
イーラが苛立っても男性は眉一つ動かさず、素っ気なく言って記録をつけてる。ギルベルトが見ていられずに前に出ると、男性に一枚の紙を渡した。
「シュヴァルツペントの王族入国証だ。王族がいる場合にはこれを出しゃいいんだろ。入国理由とか他の内容はそれに書いてあるから」
男性はそれを受け取ると、顔を近づけて中身を確認する。ギルベルトはイーラにこっそり耳打ちした。
(あれを出せば入国が早まるんだよ。大丈夫、フィニのことは書いてねぇから)
(ありがとうギルベルトさん。いつお兄さんたちに書いてもらったのよ)
(何言ってんだ。さっき書いたに決まってんだろ。俺も王族だぜ)
「そういやそうだったわ。庶民的すぎて忘れてた」
「はっ倒すぞクソガキ」
「何かおっしゃいました?」
「「いいえ何も」」
後ろでエミリアがクスッと笑った。
ギルベルトが書いた証書に目を通した男性は、ふぅ、と一息つくと、「良いでしょう」とギルベルトに紙を返す。
「では民間船の、王族搭乗手続きに関して──」
男性はページをめくり、長い入国管理を続けた。
ギルベルトも呆れてものが言えず、イーラの怒りは頂点に達した。
「いい加減にしなさい!」
男性に向かって怒鳴る声がした。それはイーラではなく、今しがた橋を渡ってきた人のものだった。
日に当たると青く光る長髪に、男性とも女性とも取れる顔立ちの人物だ。声で判断しようとも、高過ぎず、低過ぎない抽象的な声が余計に視覚情報に混乱をもたらす。
胸のなさと、持て余すほどに長い袖から見える腕の太さで男性だろうと判断出来た。
「事前に言ってあったじゃあないか。『黒髪の少女が乗った船はすぐ門を通しなさい』と」
「すみません。規則ですので」
やはり同じような返しをする。抽象的な彼はむっとして、袖から色々な手紙を出すと男性に押し付けて門の向こうに押しやった。
「ほらほら! 彼女たちの審査に必要な書類だ。君の大好物だろう? 私に歯向かうのは禁止だと知っていよう。次やったら首チョンパもんサ」
「えっ、あの······ちょっと!」
不満そうな男性をここから追い出すと、彼はイーラたちの元に戻ってきた。深いお辞儀をし、イーラたちに無礼を詫びる。
「すまないことをしたね。お前さんたちが来るのはとっくに知ってて、ちゃあんと言ってあったんだけど、堅物クンの記録日だとは。不吉な相が出てはいたが、まさかこれとは思わなんだ」
彼はイーラを見ると、優しく微笑みかけた。
イーラが何の反応もしないのを見ると、少し悲しげに口を開いた。
「ああ、そうか。お前さんは覚えていないのだね。あちしはタキナミ・スイレン。マシェリーの知り合い、と言えば信じてもらえるかい?」
「母さんの?」
スイレンはイーラの顔をじっと見つめた。澄んだ瞳にイーラの顔が映った。スイレンはイーラの顔の傷を細い指でなぞると、不思議そうに首を傾げた。
「おや、イルヴァの顔に傷なぞあったかな? いいや、赤子の頃は無かったな。ならばその後か?」
「ちょっと、蛇の角が引っかかって······」
「蛇の角!? だいぶ大きな蛇だったんだねぇ。嗚呼こんなに深い傷を······女の子に何と残酷な」
スイレンは袖から片手ほどの水晶を出すと、水晶に祈りを込めた。
「水の知恵 祈りの歌よ 愛されし御子に癒しの雫を」
水晶が淡く光ると、水が湧きだしてイーラの傷にピッタリと覆いかぶさった。冷たい水とくすぐったい感触がイーラの肌に染み込んでいく。
スイレンが良いよ、と言うと水面に映る自分の顔に、あの大きく痛々しい傷はどこにも無かった。
「ありがとう」
「構わないサ。愛しいマシェリーの子」
スイレンはふぃ、とギルベルトに目をやった。
ギルベルトが睨むように見ていることを知っていながら、知らない振りをした。ギルベルトが船からスイレンに掴みかかった。
「おい水ジジイ! 無視してんじゃねぇ」
「嗚呼、何だ。火の国の小僧も乗ってたのかい。あちしの知らぬ間に随分と背が伸びたねぇ」
──男の人で良かったのか。
「シュヴァルツペントに大層な手紙と魔法道具を押し付けてくれやがって。俺らの問題に口を出さないって条約があるだろうが!」
「だから文と玩具を出したんじゃあないか。お陰で助かったろう? あちしに感謝するのなら、もっと素直な言葉をおくれな」
「ぶっ殺すぞ」
「嗚呼、若いねぇ。喧嘩言葉が足りないったらないんだから」
「ぶっ殺す」
「ちょっと、ケンカしないでちょうだい!」
「ふふ、ちょいとからかってやっただけサ。さぁさ、お入りよ。あちしもイルヴァに用があるのだから」
そう言ってスイレンが片手を振ると、門が開き、船を都へと招き入れた。
***
船を港に停め、都に降り立つと、イーラはその景色に驚いた。
港の真ん前に開けた大通りがあり、人々の往来の激しい、活気に溢れた光景があった。
港に一番近い店では生の魚を売っていたり、店先で芸を披露して客を呼んだりとこれまた見たことの無いものでいっぱいだ。
木の板を敷き詰めた道の端には水路が通り、その水路に歯車のようなものが回っている。
家もレンガや脆い土壁ではなく、木で出来た涼しげな印象を受ける。イーラが目を輝かせる姿を、スイレンは愛おしそうに見つめた。
「ここが水魔導師の都ですのね」
エミリアも、船から降りると感嘆を漏らす。スイレンはエミリアにニッコリと微笑みかけると、軽くお辞儀をした。
「風情があるだろう? 土魔導師のお嬢さん」
「風情······? ええ、とても素敵な所だと思いますわ。私はエミリアと申します。以後お見知りおきを」
「ご丁寧にどうもありがとう。······おや? まさか」
フィニがローブを羽織って船から降りると、スイレンはフィニの前に立ち塞がった。フィニは肩を震わせ、イーラに助けを求めた。
「お前さんは······死霊魔術師、だね?」
フィニは杖にしがみついて俯いた。
イーラはスイレンに弁解しようとするが、スイレンはイーラを手で牽制する。フィニのフードを取ると、「やはりか」と呟いた。
「まさかマシェリーの娘が、イルヴァがこんな大胆で堂々と罪を犯すとは。いやはや、あちしの予想を上回るなんてね」
「あの、タキナミさん、それは」
「いや、いいや、何も言う必要は無いよ。お前さん。名前は?」
「······フィニ、アン·········レッドクリフ···です」
スイレンはフィニの肩に手を置いた。
このままではフィニが捕まってしまう。しかし、スイレンに掴みかかろうとするイーラを、ギルベルトが止めた。
「何よ! フィニが捕まったらどうするの!」
「捕まる時ぁ一緒だろ。俺らも罪人の集いだ。それに、アイツが捕まえようとしてんなら、とっくに俺らも牢獄だ」
「でも!」
「ちゃんと見てろ。この国の人間はみんな頭が固くて記録好きだ。こいつは特別──」
イーラの不安を他所に、スイレンはフィニからローブを剥ぎ取った。ローブを畳んでフィニの荷物に詰めてやると、自分が羽織っていた上着をフィニに掛けた。フィニが驚いている間に懐の紺色の手ぬぐいを広げ、フィニの頭に巻くと、満足そうに腰に手を当てた。
「寛大で探究心が強いから、フィニも研究対象だろうよ」
「えぇ······」
スイレンは何が何だか分かっていないフィニを、クルクルと回して容姿を確認する。そして今一度、変装の完成度の高さに感嘆を零す。
「これでバレないだろう。流石に髪の色までは変えられないが、庶民相手なら見た目の違いだけで十分だろうサ」
「あの、僕を······捕まえるんじゃ?」
「とんでもない! 昔に比べて死霊魔術師の数も大分減ったし、居住地も分からなくなってしまった。まだ研究しなくてもいいかと、放ったらかしてこの体たらく。四大魔導師の研究ばかりが進んで死霊魔術師なんて手つかずだ。我ながら情けないったらないね。ちょうどいい機会だ。あちしの研究に付き合っとくれ」
スイレンはフィニの手を引いて街に繰り出した。ギルベルトは「ほらな」と言いたげな目をイーラに向けた。
イーラは拍子抜けしてスイレンの後ろをついて行った。




