1話 薬剤師 イルヴァーナ
どこまでも続く田園風景。
レンガ造りの美しい中世の都。
白い外壁と青い海の街。
魅力溢れる世界が少女の目の前に広がっていた。何度見たって飽きやしない、ずうっとそこに居たい。そんな楽しい楽しい『異世界』は、どこも魔法なんて存在しない世界だった。
「イーラ! 早く傷薬をくれ!」
「うるっさいわね! すぐ出来るわよ!」
村外れにある小さな家。
魔女が住んでいることを想像させるここは、単なる薬局だ。
村で唯一薬を扱う『マシェリー薬局』で、イーラはブツブツと文句を言いながら傷薬を調合する。煮詰めた薬草を瓶に詰め、冷めるのを待っていると傷薬を注文した男がイーラの本を手に取った。
「······フン、まだ異世界ものなんて読んでいるのか。なんの生産性もない本じゃないか。買ってるのはお前だけだって」
男はページをめくっては鼻で笑う。イーラは男から本を引ったくり、カウンターの下に戻した。瓶の熱が取れたかを確認しながら、男に不満を言った。
「私が何を読んだってアンタには関係ないじゃない。生産性がないだなんて失礼ね。生産性がないのはアンタの頭でしょ」
イーラは男の頭を指さして言った。男は当然不機嫌になり、イーラに聞こえるように嫌味を言った。
「あーあ、お母さんも可哀想だな。偉大な魔導師だったのに、娘はただの薬剤師だ」
イーラはその言葉に激怒した。ようやく冷めた薬瓶に蓋をして男に投げつける。そして男の襟首を掴んで薬局から放り出した。男を見下ろし、鬼のような剣幕で怒鳴りつける。
「アンタみたいな奴は大っ嫌いなの! 二度と来ないで!」
そして勢いよくドアを閉め、カウンターの帳簿に売った薬を記入する。薬代を回収し忘れたことを後悔しつつ、「あんな奴の金は要らない」と自分に言い聞かせた。
ふとカウンターの下に目をやった。異世界ものの本を詰め込んだそこには、ずっと置いてある母の手帳があった。
イーラの母は世界に名を馳せる魔導師だった。予知能力が特に優れていて、幾度となく危機を救ってきた。小さな薬局に、毎日人が溢れかえるほどやってきて、母の予言を聞き、救いを乞うていたころが懐かしい。
母は魔導師の0.1%しか持たない『エルフ紋章』の持ち主だったというのに───
母が開いた薬局を継いだのはなんの力も持たない一般人の娘。魔法が全てのこの世界はイーラのような非魔導師は生きづらい。イーラは特に、親の威光がついて回る。何をしても母と比べられて、『お前の母さんは〜』から始まる嫌味を聞き続けてきた。
勝手に期待され、勝手に落胆されるのはもう慣れた。
イーラは村外れの薬局で薬を売り続けることに飽きていた。
「えーと、最後の予言は·········」
母の手帳には自分が亡くなった後に起こるイーラの未来が記されていた。イーラはそれのお陰で難を逃れて生きていた。それは、手帳が無ければ死んでいたであろう事まで記されていたからだ。
その最後のページ、最後の予言は実に簡潔に書かれていた。
『誕生日に珍客』
「············それだけ?」
誕生日に珍客が来る。それは理解出来た。だがその対処法が何も書かれていない。他のページには回避法やら頼るべき人やら、隙間なく書かれていたというのに。
「インク切れかしら? それとも恐るるに足らない出来事とか? どういうことなのよ母さん」
母は偉大な魔導師だった。それでいて大雑把な人だった。薬の作り方も、人の接し方も、魔法の使い方ですら粗雑極まりない。だが、誰かが死ぬようなことは絶対に避ける人だ。書いていないということは、誰の命も危うくないということだろうか?
イーラは深いため息をついてカウンターに伏せた。
何も語らない手帳をそっと撫で、カレンダーに目をやった。
イーラの誕生日は明日だ。明日に珍客が訪れる。
「何を考えてるのか分かんないわよ───母さん」
自分に何が起こるのか、それが良いかも悪いかも分からない。それが最後の予言などと書かないで欲しかった。