病室の窓と桜並木
かなり昔に書いた短編小説ともいえないほどのショートショートを『MBSラジオ短編賞』への応募に合わせて修正したものです。
男が何を考えていたのか、窓の外には何があるのか、描写していない部分に多くの可能性を持たせるように冗長性の少ないシンプルな文章で構成しました。
分かりやすい面白みのない作品ですが、少しだけでもお時間を頂ければ幸いです。
気がつけばベッドの上だった。
痺れて力が入らない身体はまるで他人の物のようだ。
やっとのことであたりを見渡す。
埋め込みの蛍光灯が灯る白い天井。
十畳ほどの殺風景な部屋。
窓のそばに大きなベッド。
どこかで嗅いだ事のある臭い。
あぁ、病院に居るのか。
他人の身体を操る意識もまた他人の物だ。
おい、おーい
不意に飛び込んでくる音でやっと自分を取り戻す。
部屋の対角、窓際に置かれたベッドから声が聞こえる。
かろうじて動かせる首をそちらのほうに向けると、男がベッドから身体を起こしニヤニヤと笑っている。
「よう寝とったな」
爺さんかと思ったが、よく見ると自分よりちょっと上くらいか。
えらく痩せこけた土色の顔は老人というよりミイラのようだ。
擦れた小さな声だったが狭い部屋ではよく響いた。
「…や、よろしくな」
男は名前を名乗ったようだがよく聞き取れなかった。
どうも、と返そうと思ったが声が出ない。
男は口の動きと擦れた呼吸音で察したようで再びニヤッと笑ってベッドに横たわった。
自分も視線を天井に戻し目を閉じた。
最後の記憶は定かでなく最近のこともよく思い出せない。
目が覚める。またあの病室だ。
狭い部屋に対角になるように2台のベッドが並べられている。
時計とカレンダーが壁につるされているがそれ以外には何もない。
カレンダーを見ても今日がどこなのかわからないが、時計の針は9時、窓の外が明るいので朝の9時だ。
何もわからないままひとつ確信できることができて少し安心した。
記憶は相変わらず曖昧で考えはまとまらないが、身体の感覚は少しはマシになっている。
腕には点滴のチューブ。下半身には尿のチューブが通されていた。
時計の針の音だけが聴こえる中、寝ているのか起きているのか、ただ時間が過ぎる。
扉の音がしてそちらの方を向くと、白衣を着た中年の女が入ってきた。
目が合うと、あっ、と声を出しパタパタと急いでどこかへ行ってしまう。
そして暫くすると医者と共に病室に戻ってきた。
「目が覚めましたか」
返事をしようとするが、のどに何かが張り付いているかのように声が出ない。
目配せし頷くと医者も頷き返した。
脈を取り、血圧を測り、聴診器を胸に当て、ペンライトを目に当てて反応を見られる。
「ご気分はどうですか」「痛い所はありませんか」などとの質問に頷いて答えた。
「ご自宅で倒れて二日程そのままだったようで、ここに救急搬送されたのは一昨日の事です」
と簡単に説明されるが、ピンとこなかった。
「ご病気についてなのですが…」
初めて聞く漢字とカタカナが並んだ長い病名だった。
残りの命も長くはないと告げられるが、不思議と何も感じなかった。
医者が出て行った後、再び時計の音が病室に響く。
無機質な天井を見ながら先程の話を思い出す。
ああ、なるほど。ここはそういうところなのだ。
自由は無いが死ぬまで面倒を見てくれる。
自分がここに居ることで病院が儲かる仕組みになっているのだろう。
向かい側の窓際のベッドには男が横たわっている。
あいつも自分と同じだ。
数日が過ぎた。
病室には時計の音だけが響く。
日に1度の回診、数時間おきの看護師の巡回、食事を運んだりシモの世話をしてくれるヘルパー。
どいつもこいつも無愛想で余計なことはしゃべらない。
そのうちにベッドから身体を起こし、擦れた声でしゃべれるようになるまで体調は回復した。
それでもこの病室ではそれをする必要も無く、自ら何かしようとする気も起きない。
今は秒針の音を数える事だけが自分に課せられた義務だ。
男が身体を起こし窓の外を眺めている。
日に数度、数十分の間、男はそうして過ごしていた。
ベッドが窓際にある事だけが男と自分との決定的な差である。
男はいつも生気の無い目でじっと外を眺めているだけだ。
――きょうは
聞きなれない音が耳に入る。
最初はそれが何の音かは判らなかったが、すぐに男の擦れ声だと気がついた。
男は窓の外を眺めたまま呟くように話す。
「今日は雨が降ってるな」
それだけ言うと、また再び無言のまま外を眺めていた。
自分のベッドからはカーテンに遮られて窓の外の様子をうかがい知ることはできない。
それから男は時々窓の外を眺めているとき、その様子を呟くようになった。
「いい天気だ、雲ひとつ無い」
男の声は小さく擦れていたが、狭く静かな病室で聞き取るには十分だ。
「下でおばさんらが集まってなんかしゃべっとる」
「今日は向こうの山がはっきり見えるな」
「夕日がきれいだ、雲が真っ赤に燃えとるようだ」
「子供らが傘を差して歩いとる、紫陽花みたいだな」
男はこちらの様子を気にすることなくボソボソと話す。
窓の外の様子はわからないが時間も場所も全く一致していなかった。
「もうすぐ満月だ」
男は明るい窓のほうを見ながらそう言う。
こいつの話は全て出鱈目だ。
しかし、何も無いこの部屋で日々変化する男の出鱈目を聞くことは、少なくとも時計の音を聞くよりはマシに思えた。
「桜並木につぼみが付きだした、満開になればさぞ綺麗だろう」
窓の外ではえらく季節外れの桜が咲くようだ。
出鱈目はその後も相変わらず続き、それを聞くことが日課になった。
窓から見える景色は山だったり海だったり、街だったり田舎だったりする。
季節も時間もバラバラだ。
「つぼみが大きくなってきた、もうすぐ咲き始めだ」
支離滅裂な話の中で桜並木だけは順を追って開花に近づいてくる。
その話をするときの男は少しだけ嬉しそうに見えた。
そのうちに遅々として進まない桜の開花報告は自分の中でも少しだけ特別になっていた。
「明日には咲くかな」
男がそういったその日の夜の消灯後、異音がして目が覚めた。
男はベッドの柵をカタカタと揺すり、小さな声で呻いている。
頭の上の方にあるナースコールを探し看護師を呼ぼうとすると、ある考えが頭をよぎった。
あのベッドが空けば窓の外が見られる。
小さな思い付きは頭の中で次第に大きくなり、脳にできた腫瘍のようにコールを押そうとする手を麻痺させる。
急に男が楽しみにしていた満開の桜並木がとても魅力的に思えた。
男の死期は近かった。
看護師を呼んでももう無理だろう。
そう自分に言い聞かせながら、コールを握り締め聴こえてくる音に耐えた。
暫くすると男の呻きもベッド柵を鳴らす音も急に止まり、病室に静寂が戻る。
時計の音だけが聴こえるいつもの病室だ。
次の日、男のベッドは病室から運び出され、自分のベッドが窓際に移された。
誰も来ない時間を見計らい、身体を起こして窓の外を見る。
窓の向こうの桜並木に思いを馳せながら、男がいつもそうしていたように。
そして、窓の外を見ると、そこには――
再びベッドに身体を横たえると窓とは反対向きに顔を向けた。
パタパタという看護師の足音と共に病室のドアが全開にされ、開いたまま固定される。
男のベッドが運び出されて以来か。
まもなくゴロゴロと音を立てベッドが運び込まれ、病室の対角に止められた。
この間まで自分がいた場所だ。
ベッドには男が寝かされている。
天井を向いたままピクリとも動かない。
意識を失っているのか眠っているのか、もしかすると植物状態なのかもしれない。
男はその日一日中眠っていた。
昼前になり、対角のベッドの男が目を覚ましていることに気がついた。
身体を起こし呼びかけてみると、男はゆっくりと頭をこちらに向けた。
男は以前この場所にいた男にどこか似ていた。
もしかしたら少し自分にも似ているかもしれない。
既視感のある状況が実に滑稽で失笑してしまう。
一言声をかけ名前を名乗ると、男は声にならない声を返した。
暫く窓を見る気にはならなかったが、あの男のことをふと思い出し、窓の方に目をやった。
それからは時々身体を起こし、窓の方を見るようになった。
ある時、あの男が窓の外を眺めて最初に呟いた言葉を口にしてみた。
「今日は雨が降っているな」
ネタバレはしませんが、構想の中では窓の外に何があるのかはきっちり決めて書いています。
後味の悪い思いを持った方には申し訳ありません。
例えば、
病室の窓から隣家のテレビを見ることができて、男はそれを見て呟いていたのかもしれません。そうすると男は全くのでたらめを言っていた事にはならなくなります。
窓の外に男の元気な様子と見舞いに来た家族の姿があったのかもしれません。そうすると、「自分」は完全な思い込みの世界に閉ざされていたことになります。
読み手の想像で内容が全く変わる話を書きたかったというのがこの作品を書いた一番の動機で、僕自身の構想はおそらく想定できる中で一番心優しいストーリーです。
評価、ご感想など、ぜひともお寄せくださいましたら嬉しく思います。