9話 寝る間を惜しんで勉強というのは、よくない
クラス単位での勉強会の告知はなかった。担任が放課後に話しかけてくることもなかった。
担任の様子は一見以前とは変わらない。ただ無表情。一体、何を思って担任は無表情を貫いているのだろう。顔を頑なに変えない。そこにどんな意味があるのだろうか。
そんな疑問が頭に浮んだので、それを無理矢理に消す。きっとこの疑問は、担任という個人に深く踏み入る疑問だ。そんな覚悟なんてまったくもって持ち合わせていない僕が抱いていい疑問ではない。
帰りのHR中、担任を観察することを意識的にやめた僕は荷物をまとめる。
部活に行って勉強しよう。勉強して、どうでもいいことは忘れよう。
HRが終わると同時に僕は歩き出した。その頭の中では昨日一昨日の勉強内容を思い出しながら。
頭の中で数式が踊った気がした。その瞬間に視界が遠のいた。
あれ?
ドタ、そんな間の抜けた音がした気がした。
*
寝起きは悪い方じゃない。目覚めた時に、現状はすんなりと理解できた。
保健室のベッドの上だ。どうやら僕は倒れたらしい。病院ではないから、大したことはないのだろう。たぶん睡眠不足。そういえば、昨日一昨日とろくに寝てない。睡眠を取らないのは効率が悪いとわかってはいたが、頭が冴えて眠れなかったのだ。
とりあえずベッドから体を起こす。
「起きた?」
声をかけてきたのは養護教諭。名前は覚えていない。入学してから、保健室を利用したのは健康診断以来だ。
「はい。ご迷惑をおかけしました」
ベッドから立ち上がって頭を下げる。
「まだ立たないで。一応ね。あなた、いきなり倒れたんだから」
「ただの睡眠不足です。もう大丈夫ですよ。たぶん」
大丈夫だと断言したかったが、断言できるほどの知識なんて自分にはない。
「土日は何してたの? 倒れるなんて、全然寝てないの?」
少しは寝た気もするのだが、よく覚えていない。たぶん、記憶の整理に必要なくらいは寝たと思うのだが。
「少しは寝たとは思います。たぶん」
「寝たかどうかもわからないのね」
養護教諭は、呆れていますというニュアンスを持たせた口調で言った。
寝る間を惜しんで勉強というのは、よくないな。無理矢理にでも寝るべきだった。市販の睡眠薬でも買っておくか。どれほどの効果があるのかはわからないけれど。
養護教諭になんと返答するかと思っていると、トントンと保健室のドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは担任だった。十中八九、僕の容体を見にきたのだろう。クラスの生徒が教室で倒れたとか、担任から見ればそれなりの面倒ごとだろう。
「蒼井くん、起きたみたいですね」
「はい、さっき。睡眠不足だって自分で言ってます。寝ないで何をやってたのかしら?」
養護教諭は担任からこちらに視線を移してそう訊いた。が、僕が答えるまでもなく、担任が口を開いた。
「勉強ですか。もうすぐ中間試験ですね。でも、君が身を削ってまで勉強しているとは思いませんでした」
担任の声色にも呆れの成分が感じられた。身を削って勉強しているなんて、僕だって呆れる。
「身を削るつもりはなかったんですが、眠れなくて。寝ようと思ってベッド入ると、あれなんだったっけみたいに不安になりまして。それで教科書なりノートなりを確認してしまいまして。そんな感じです」
確認すれば、ああそうだで終わることなのだが、わからないままで置いておくことができない。頭の中がとにかくその不安でいっぱいになって、眠れなくなるのだ。
「あら、徹夜でゲームとかではないのね。でも、徹夜で勉強ってのも考えものよ。実際に倒れたでしょ」
別に僕は徹夜で勉強しようと思ってしたわけじゃない。それの効率が悪いことくらいわかっている。
「それがよくないことはわかってます。今日からは無理矢理にでも寝ます」
その返答に養護教諭は「そうねぇ」と唸る。
「あなた、勉強は得意なの? それとも苦手?」
得意か苦手でいえば、得意と言っていいと思う。そう思うが、自分は勉強が得意だと自分の口から言うのに、なんとなく抵抗があった。
「安田先生、蒼井くんは学年トップの成績です」
幸い、自分の口から言う前に、担任がそう言ってくれた。ついでに養護教諭の名前もわかった。
「あら、そうなの。すごいじゃない。それがプレッシャーになってるのかしら」
僕は別にカウンセリングをされたいとは思ってない。ただのやる気の空回りだとわかっている。カウンセリングなど必要ない。
「もう大丈夫なので、部活に行ってもいいですか?」
「部活は、今日は休んだ方がいいわね」
即座にそう言われてしまった。別に部活に行こうが家に帰ろうが、どっちにしろ勉強するのだから、変わらないのだが。
「なら、もう帰っていいですか?」
そう言って、時間を確認した。3時間近く寝ていたようで、部活を休む以前に、もう下校時刻を過ぎている。
「というより、もう帰った方がいいですよね?」
「下校時刻は過ぎていますが、もう少しならここにいて大丈夫ですよ」
担任はそう言うが、別にここにいたいわけではない。僕としてはもう帰りたいのだ。
「いえ、僕は大丈夫なので、帰りますよ」
僕はベッドから立ち上がる。ありがたいことに荷物は保健室に運ばれていた。荷物へと手を伸ばす。
「はぁ。大丈夫なのね。なら、今日はしっかり寝ること。眠れなかったら、明日もここに来て。睡眠障害を見てくれる病院を紹介します」
養護教諭はそう言うと、僕の伸ばした手に荷物を渡してくれた。
「わかりました」
返事とともに一礼をする。病院に行くというのもあまり気が進まないので、明日ここに来ることはないだろう。
「すでに昇降口は閉まっていますので、一緒に来てください」
担任に促されて、僕は担任に続いて保健室を出た。
「本当に寝ていないんですよね? 原因が寝不足でないなら、病院に行くべきですから」
廊下を歩く。まずは、靴を取りに昇降口まで向かわなくてはならない。
「あまり寝ていないのは間違いありません。少しは寝たとは思いますけど、記憶が曖昧です」
「そうですか。私も、テスト前日に眠れなくなった経験はあります。ですが、今はまだ1週間以上も前ですよ」
「なんか張り切ってしまっただけです。久しぶりの試験ですから」
なんだ、この試験フリークみたいな言い草は。言っていて、何を言っているんだ僕はと思う。
「そうですか。そういえば、真白さんはもう引退ですか?」
急に話が変わった。そこで昇降口に着いた。僕は靴を取り出す。なので、一旦会話が途切れた。
「どこに行けばいいですか?」
昇降口は確かに施錠されていた。どこから出ればいいのかを担任に問う。
「渡り廊下の方に。職員棟に行って、職員玄関から帰ってもらうことになります」
そしてまた僕たちは歩き出す。上履きは下駄箱に入れたので、僕は靴を履いていない。それがなんとなく気持ち悪い。
なぜか沈黙が訪れた。どちらも口を開かない時間が数秒。
「真白さんはもう引退ですか?」
数秒の間を置いて放たれた質問は先程と同じもの。担任は返答を待っていたらしい。
「部長職はやめました。でも、先輩の受験は終わっているも同じなので、部活には来続けるみたいです」
渡り廊下を渡り、職員棟へと移る。目の前にある図書室は当然真っ暗だ。このまま職員玄関へと向かう。
「真白さんがいなくなって不安なのかと思いましたが、そうではないんですね」
僕はいったい担任にどう思われているのだろう。先輩が卒業すれば寂しく、というか静かになるだろうとは思うが、別に不安ということもない。たぶん。
「僕は別に先輩に依存してませんからね」
「利用しているんですよね」
それを否定はできない。だが、そんなことを言えば、大抵の人は周りの人間を利用しているはずだ。
「まぁ、お陰で学年トップですから」
「真白さんの卒業と同時に成績が下がるなんてことになりませんよね?」
ない、と断言できない自分がいた。自分の学力が先輩に支えられていると思うと、なんだか腹立たしい。先輩のドヤ顔が眼に浮かぶようで、イラっとする。だから。
「ありませんよ」
無理矢理にでもそう断言することにした。
程なく職員玄関に着いた僕は、そこから学校を出た。職員玄関の下駄箱を見ると、教員はまだ多数残っているようだった。勤務時間は優に8時間を超えているはずだ。教師というのは、本当にブラックな職だと認識した。
僕は帰りにドラックストアに立ち寄って、効くかどうかもよくわからない睡眠薬を購入した。




