3話 アイデンティティ
ファストフード店に着いて、僕は300円弱の注文をした。佐伯さんはワンコインメニューを選んでいた。百瀬くん自身もワンコインメニューを頼んで、僕たち3人はテーブルについた。自然と、僕と百瀬くんが隣合って、その向かいに佐伯さんという配置になった。
「ねぇ、『サクラ色の街』って知ってる?」
それは僕に対する質問だろう。小説原作で、現在映画が上映されている作品だ。小説は読んだ。清涼感のある綺麗な作品だった。映像になった時に、その清々しさがどこまで表現できるのかは興味がある。
「知ってますよ。原作は読みました。綺麗な物語だと思います」
「うん。今日、その映画を観たんだよ。私としては大満足だったんだけど、百瀬くんは不満だったみたい」
佐伯さんは百瀬くんに視線を向けた。
「蒼井だって、観たらたぶん不満になると思う。原作読んでると、あれには納得できない。あの気持ちの良さがなくなってるんだ。ただのラブストーリーになってて、正直ガッカリだった」
『サクラ色の街』の魅力は、読み終わった時の気持ちの良さだと思う。確かに原作もラブストーリーではある。だが、そこが主軸ではない。登場人物たちの思考が、その思考に起因する行動そのものが、物語の軸としてある、僕はそう思う。
地の文によって常に主人公と寄り添う小説と、映像たる映画ではやはり違うのだろう。
「そんなこと言うから、じゃあ原作読もうかなって。でも、私って本は全然読まないんだよね。マンガは志津香が押し付けてくるから読むけど」
読書は僕を構成する片翼だ。それのない生活を僕は想像できない。
「『サクラ色の街』はいい話ですし、読みやすいですよ。とても綺麗な話です」
綺麗な話で、読んでいてつっかえることもない。3回は読み直した。伏線の回収が素晴らしいとか、そういうあっと驚く仕掛けはないが、気持ちよく読める作品だ。
「映画も十分いい話だったけどなぁ。それに、小説って絵があるわけじゃないでしょ。綺麗な話ってどういうこと?」
どういうことかと訊かれると答えづらい。読むと、自然と綺麗だったという感想を持った。どこがどう綺麗だったのかという分析など、したくはない。ただ、綺麗だったと思う。それでいい。それがいい。
だから、その質問の返答は簡単で。
「読めばわかりますよ」
そう答えれば十分だ。
「百瀬くんと同じこと言うんだね」
「だから、読めばわかるんだよ」
この質問はすでに百瀬くんになされていたらしい。そうだよなとこちらに同意を求める百瀬くんを、今までより少し身近に感じた。まぁ、ほんの少しだけだが。
「私にもわかるかなぁ。2人とも頭良いからなぁ」
「別に読書する時に、国語の読解問題を解くような心づもりで読んだりしません。そんな深い読解が必須になるような話は良作とは言えませんよ。『サクラ色の街』は良作です。読めばわかります」
佐伯さんは基本的にいい人だと思うが、時に自分は頭が悪いという主張が卑屈に感じる。そもそも一浜にいる時点である程度は勉強もできるのに。
「ふーん。蒼井くんってよく教室で本読んでるよね。あれって、話しかけるなアピールじゃなくて、単純に読書が好きなの?」
話しかけるなアピールではないとは言えないかもしれない。だが、そんなアピールをしなくても僕に話しかけてくる人なんて、教えを請う生徒だけなわけで、そのアピールは僕には不要とも言える。なら、僕は単純に読書が好きなのだろう。
「読書は好きですよ。僕は読書と勉強で構成されているらしいです」
「すごいな、それ。それが蒼井のアイデンティティってことだろ。それがそんなアッサリと口にできるのは、すごいと思う」
なんか、変な風に百瀬くんに感心されるのだった。アイデンティティか。自己存在証明とでも訳されるのだろうか。意味がピンとこないワードだ。僕は別に、そんなよくわからないことを語ったつもりは毛頭ない。
「アイデンティティって、自分とは何かってことだよね? 私のアイデンティティってなんだろ。思いつかない」
「俺も自分のアイデンティティなんてわからない。蒼井は自分がはっきりしているんだな」
僕のこれは、はっきりしているとか、そういう話ではないのだ。単に。
「僕にはそれしかないってだけですよ。僕には趣味とかそういう、何か打ち込んでいるものが他にないだけです」
構成要素が少ないのだから、分析は簡単になる。それだけ。
「蒼井って変なやつだよな」
百瀬くんの感想はそれだった。それを否定はしない。かの変人たる部長に憧れているらしい僕は、間違いなく変人なのだ。
「そうかもしれませんね」
「俺はそういうところ、別に嫌いじゃないけどな」
「おー、これはそういう展開? 私、腐女子じゃないけど、ちょっと興味津々」
自分だって四字熟語を使っているじゃないかと、そんなどうでもいいことを思った。僕はただ嫌そうな顔を見せた。
「いや、そういう意味は全くない。俺は、茉莉たちと一緒にいることが多いからさ。はっきり言って、茉莉は蒼井のことが嫌いだ。でも、俺はそうでもないってそれだけの意味だ」
百瀬くんは結構必死に否定をした。別に僕も佐伯さんも、BL的な意味だなんて思ってない。
「茉莉かぁ。私、ちょっと怒ってるんだよね。昨日来なかったこと。茉莉って、準備は大好きなのに、片付けになるとやる気ないよね」
まぁ、そういう人は別に珍しくもない気はする。クラスリーダーなのに片付けをサボるかどうかは置いておいて。
「茉莉はいつも次を見てるからな。茉莉の中では、閉会式をもって文化祭は終わったんだ。昨日来なかったのは悪いと俺も思う」
「蒼井くんのことも、なんか意味なく嫌ってない? 来るなって言ったの自分なのに、来ないと怒ってるって」
さて、これは陰口というやつだ。単純な僕の価値観として、ただの僕の好みとして、僕は陰口を嫌う。
「この場にいない人を責めることに意味はないでしょう。食べ終わりましたし、僕はお暇しても?」
「なぁ、蒼井」
帰ってもいいかと訊いたのに呼びかけられる。お暇してもという言葉は聞こえなかったんだろうか。百瀬くんは難聴なのだろうか、そんな主人公っぽい顔はしているが。
「なんですか?」
とりあえず返事はしておく。
「蒼井って、思ったより普通だろ。ただ真面目で素直な普通の奴だ。普通なのが変なんだけどな。なぁ、中間試験の対策は始めたか?」
「始めたと言えるほどはしてませんね」
「今回は勉強会に出る気はあるか?」
「あるとは言えません」
「えぇー、私、蒼井くんに教えてもらう気満々だったんだけど。なんとかしてよ」
佐伯さんはとても不満げな顔をした。部長と違って、本気で不満なのだろう。
「別に、質問されれば答えますよ」
「なら、勉強会に参加してもいいじゃん」
個別の質問と勉強会の差はなんだろうか。まず、単純に人数。次に、勉強会には僕を嫌う人も来るという点か。やはり、クラスでの勉強会というものに出るのは嫌だった。
「僕は人が少ない方がいいんです」
「じゃあさ、この3人、はさすがに少な過ぎるから、昨日の7人でってのはどう?」
その佐伯さんの提案に、僕は首を傾げた。
「どう、とは?」
「7人で勉強会。私、2学期は補習受けたくないの」
その言い方は、佐伯さんの中でそれが決定事項になっていることを感じさせた。




