30話 こんなものは理想論ですらない
休日にクラスメイトと集まって勉強会。やはり僕らしい行動ではなかった。勉強会を終えて家に帰った後、僕は部屋で机に向かいノートを開いた。
今日のやりとりを友人との理想的な交友として文章に仕立てるなら、さて、どんな風に書くべきか。
明日で試験1週間前になる。この数週間でクラスメイトとの関わりという材料はちゃんと手に入れた。それは道徳の試験答案としてそのまま書けるようなものではないが、そこは僕の作文力の問題。点数が取れるエピソードに脚色するだけのこと。
今日なんて、問題出す、解かせる、解説するをただ繰り返しただけ。合間合間の雑談は、なんか全然知らない相手の悪口とか聞かされて、総じて道徳的なんて言えないやりとりだった。それを、一緒に切磋琢磨して勉強をする理想的な高校生にどう書き換えるか。
道徳の試験答案のつもりでノートに文章を書いていく。書きあがっていくのは、国が理想的だと定めている高校生像。友達想いで、努力家で、素直で、リアルでこんなやつがいたら気持ち悪がられること請け合いだ。
学習指導要領を読んで、どんな人間が求められているのかを再度確認する。
これをすべて満たしている人間なんているはずがないのはわかる。
例えば、『相互理解・寛容』という項目がある一方、『強い意志』という項目があったりする。誰にでも寛容に接する人間が、強い意志を貫いているとは到底思えない。
そんなおかしな部分も矛盾しないように、うまく釣り合いを取るような人物像を作り上げていく。数分かけて出来上がったそれは、薄っぺらで、15年以上生きた人間とは到底思えなかった。
現実に何年も生きれば、人のあり方は絶対にどこかが汚れる。高潔ではありえない。高潔では、生きていけない。
正直で公正・公平、規則を尊重するような人間は、空気が読めないと周りから疎まれる。
親切で思いやりがあり、人に寛容な人間は、悪意の喰い物にされて損ばかりする。
友情を重んじて、学校生活・集団生活を充実させることに躍起になる人間は、自分自身というものを失っていく。
こういう発想が浮かぶのは、僕が汚れきっているからだろうか。いや、それは否だ。
世の中、空気を読むために公正さを捨てている人間なんて巨万といる。
悪意に立ち向かうために疑い深くなることは、社会で実際に求められ、その手の啓発本やらセミナーやらすら沢山あるほどだ。
自分自身を失わないために集団に追従しない人が多くいるかは知らないが、僕だけということはない。先輩とかいるし。
世の中、大抵の人はわかるはずだ。こんなものは理想論ですらないと。ただ、道徳という教科の体裁を整えるために用意された戯言だと。
今回の試験のテーマは『友情』。
例えば、『泣いた赤鬼』。あれはしばしば、美しい友情の在り方として紹介されることがある。
青鬼の自己犠牲の精神は美しい。素晴らしい友情の在り方なのだと。その時点でかなりの疑問があるのだが、そこは仮に認めるとしよう。
では、青鬼が赤鬼のために人間を襲った行為は正当か?
それがフリだったとしても、鬼なんてものに襲われるのは間違いなく恐怖だ。赤鬼が初めに忌避されていることからも、この物語世界でも鬼は人間にとって恐怖の対象だったはず。その恐怖の対象が襲ってくれば、実害がなかったとしてもPTSDとか発症して何もおかしいことはない。
青鬼は、赤鬼のためにそれを許容した。いや、それをちゃんと考える素振りすら見せなかった。
そして、青鬼はその責任を取ることもなく、事後処理を赤鬼に丸投げしての失踪。そう考えると、青鬼の行動が美談だなんて到底思えない。ただの考えなしの暴走だ。人間からしてみれば、たまったものではない。
しかし、『泣いた赤鬼』は道徳の定番教材だったりする。つまり、僕たちがあれを読む時には、騙された側の人間の立場になってはいけない。赤鬼の視点に立って、青鬼は本当にいいやつだったと感動することが "正しい" のだ。
青鬼の行動は、『友情』という観点ではもしかしたら "正しい" のかもしれない。しかし、『正直・誠実』『相互理解』『規則の尊重』あたりの観点からすれば、"正しい" わけがない。不誠実で、相互に理解することを放棄して、法に触れるような行いをしたのだ。
重ねて思う。道徳の指導要領の項目すべてを満たすようなやつはいない。
しかし、試験においては、自分をその存在しないものに見せかけなくてはならない。
材料を揃えていようが、それは結局、ほとんど創作と変わりはしないのだった。
実際には、道徳の時間に青鬼全肯定みたいな授業は行われていないとは思います。ここで言っている教科道徳は、この物語世界における教科道徳で、現実世界とはかなりの差があります。